生まれ変わっても
この記憶をフィーネが思い出したのは、生まれ変わった世界、社交界の場で彼と再会した時だった。
フィーネの父親は、今度は起業家として成功した、いわゆる成り上がりだった。少しでも上流階級に近づこうと、娘であるフィーネを伴って社交界へと足を運んでいた。
しかしフィーネは周囲の新参者を受け入れない冷めた目を敏感に感じ取っていた。自分たちは受け入れられない。早く帰りたいと思うフィーネだったが、父親の媚を売る声に顔を上げた。
アメシストの、かすかに赤色が混じった瞳が、フィーネの瞳をとらえた。
その瞬間まるで雷に撃たれたような衝撃が全身に走り、フィーネは今までの、かつての記憶を思い出した。そして、目の前の彼もまた同じように。
「フィーネ? きみは、あのフィーネなのかい?」
あのフィーネ、というのが彼の記憶でどのような人物を指しているかはフィーネにはわからない。
けれど、懐かしい友と再会した時のように顔を輝かせ、こちらへ歩み寄ってくるのは、紛れもなくフィーネがかつて愛したニコラス・ブライヤーズその人であった。
ニコラスはフィーネを抱きしめようと、手を伸ばした。一瞬、最期の彼の言葉が耳に蘇る。
『れてぃしあ……』
「触らないでください!」
ぱしりと乾いた音が響く。
気づいたらフィーネは彼の手を振り払っていた。
そんなことを今までされたことがなかったせいか、ニコラスは目を見開いて驚く。だがすぐに優しくとりなすように目を細めた。
「フィーネ、何をそんなに怖がっているんだ」
その表情に、フィーネはすみませんと反射的に謝罪の言葉を述べていた。
まるでそう仕組まれているかのように。かつて前世で、失敗した罪悪感から謝った時のように。
「フィーネ、きみには以前の記憶はないのか?」
一瞬、嘘をついてしまおうかとフィーネは思った。
そうすれば、もうニコラスと関わらずに済むはずだと。だが、彼女の前世で培われた、どこまでも彼に奉仕する心がそれを許さなかった。
『私に嘘は決してつかないでくれ』
彼はとても大きな秘密を私に抱えていたのに、とフィーネは思った。
「いいえ、覚えております」
フィーネはゆっくりと微笑を浮かべ、ニコラスのアメシストの瞳を見つめた。あの時と変わらず、紫の瞳は、眩い光に照らされて、赤い色が混じっているように見えた。
「先ほどは記憶が混乱して、失礼いたしました」
フィーネの様子に、そうか、とニコラスはほっとしたように肩をなで下ろした。そして輝かんばかりの笑顔で話しかけてきた。
「また会えて嬉しいよ、フィーネ」
「はい、私も嬉しいです。ニコラス様」
フィーネは泣いてしまいそうだった。それが再会の歓びか、それとも、また別の理由によるものなのか――。今は考えたくはなかった。
フィーネと再会したニコラスは、その日から頻繁にフィーネの家へ訪れ、彼女を劇場や舞踏会に誘った。
伯爵家のブライヤーズ氏が中流階級の家庭であるフィーネを訪ねたとあって、家族や兄弟姉妹はみな動揺した。だがあの時と同じように、玉の輿にのれるからきっちりと機嫌をとっておけ、決して粗相はするなと、すぐにニコラスの存在を歓迎した。
前世でフィーネは貧しい家庭に生まれ、口減らしとしていつ売られてもおかしくない環境にいた。そこにニコラスが颯爽と現れ、フィーネを見たこともない別世界へと連れていってくれたのだ。
彼の思惑がどうであれ、フィーネを救ってくれたのは事実だった。だからこそ、彼女がニコラスに逆らえない理由の一つでもあったが。
だがその点、今回の人生でフィーネとニコラスは対等であると言えるだろう。少なくとも前世のように恩を感じる必要もなく、金持ちという同じ世界にいた。たとえその中でも超えられないたしかな格差があろうと。
それだけが、今のフィーネの心の平穏を保つただ一つの事実でもあった。
もし、何かの心変わりでニコラスがフィーネ以外の人を愛してしまったり、周囲の強固な説得によりフィーネとの仲を認めない場合、彼女は潔く身を引くことができるからだ。
階級という身分を理由に、あなたとは釣り合わないと、そう言って断ることができる。
だから大丈夫だ。フィーネは自分にそう言い聞かせ、ニコラスと前世と変わらぬ付き合いを続けた。
だがそれも、神様は許してはくれなかった。平穏は続かないとはあっけなく終わりを告げる。
「フィーネ、落ち着いて聞いてくれ。実は、投資した会社が倒産してしまって……」
フィーネの父親が財産の大部分をとある企業に投資した結果、その企業が倒産してしまい、財産をほとんど失ってしまったということを、父親は真っ青な顔でフィーネに伝えた。
つまり、前世と同じように、フィーネの一家は貧乏人になったというわけだった。もう貴族として贅沢な暮らしもできない。
両親も兄弟姉妹も、みなこの事実に打ちのめされ、これからの人生を悲嘆していた。フィーネは、ゆっくりと自身の顔を覆った。
「――大丈夫さ、フィーネ」
優しい声が、フィーネを慰める。
「私がきみと結婚すればいいんだ。愛する妻の両親が困っているなら、助けるのが夫として当たり前の責務だろう?」
ニコラスは、フィーネが彼の伴侶になることを提案した。フィーネの両親はこれしかないと娘に詰め寄った。彼女に拒否権はなかった。
「ありがとうございます、ニコラス様」
「かまわないさ。きみは私にとって大切な人だからな」
そうしてフィーネの一家は、ニコラスの援助で金持ちとして振る舞うことが許された。両親と兄弟姉妹はみな、彼に深く感謝し、自分たちがまだ特別な地位に身を置けることを泣いて喜んだ。
ただフィーネだけが、どこか置き去りにされたままだった。
ニコラスは前世と同じように、フィーネを手元に置きたがった。
断ることのできない立場にいる両親の許可を得て、彼女を自分の屋敷へ連れてくると、かつてと同じように世話を焼いた。
ニコラスは婚約者として申し分ないほど欠点がなく、紳士としてはこの上ない素敵な男性だった。周囲の令嬢はみなニコラスに憧れ、フィーネに対して嫉妬の炎を燃やした。
フィーネは、ひどくじわじわと真綿で首を締めるような息苦しさを感じており、空気が欲しい、などという馬鹿げた願いを考えることが多くなった。
それでもやはり救ってくれたのは、ニコラスだった。
「フィーネ、庭を散歩しに行こうか」
「はい、ニコラス様」
ニコラスはかつて同じように優しく、どこまでもフィーネを慈しんだ。前世では年の差に開きがあったが、今回はお互いそう変わらないことも、ニコラスにとっては新鮮に映ったようである。
同じような世界で、それでいて少し違うこの世界は、二人にとっては、何の不都合もなかった。
最初はかたくなに目を逸らしていたフィーネも、しだいに彼を愛したい、服従したいという気持ちに逆らえなくなっていた。
息苦しい水の中で生きることを、受け入れ始めていた。
「フィーネ」
薔薇の花々が咲き誇る、美しく手入れされた庭園で、ニコラスは立ち止まった。ああ、まるであの時のようだとフィーネは思った。前世の雲一つないよく晴れた日、彼はフィーネの手を今と同じように取り、フィーネの目を見て、言ったのだ。
「きみを愛している。私の奥方になってくれるかい?」
「はい。もちろんです。ニコラス様」
迷うことは許されない。まるでそう決められているかのようにフィーネはするりと答えていた。
ニコラスはあの時と同じように目を細めて笑う。
結婚式はいつ頃がいいだろうか。しばらくはまだ婚約者同士、清い関係を続けようか。
ニコラスは嬉しそうに、今後の二人の人生について話を進めていく。
フィーネはかつてその姿を見て、自分はこんなにも幸せでいいのだろうかと思っていた。でも、はたして今の自分は本当に幸せだろうか。
いいや、そうに決まっている。前世で共に過ごした夫と、またこうして再会して結婚する。なんて運命なのだろうか。
彼の優しくエスコートする手が、柔らかく微笑んでくれる表情が、過去のわだかまりをフィーネに忘れるよう囁いた。
けれど一方で、この夢はいつか覚めるのだともフィーネに警告していた。そしてその警告は見事的中するのである。
***
「あら、本当にそっくりだわ」
女性は可笑しそうにフィーネの目を見つめた。フィーネもまた目の前の彼女から目が逸らせなかった。
かつての屋敷で初めて見た肖像画の彼女よりも、本物はずっと美しく見えた。真っ赤な深紅のドレスは、衣装負けせず、彼女の美しさをより際立てていた。その輝きは、偽物をより霞ませるものでもあった。
人々の喧騒も、今や遠くに聞こえる。
海の向こうの国からやってきた、レティシア・フェレルという女性。ニコラスの、本当の愛する女性。
彼らの感動の再会にはこれ以上ないほど整えられた舞台だった。
「そちらの方は……」
二人の視線がはっきりと交差するのを、フィーネは瞬きもせずに見ていた。
「レティシア……」
呆然としたようにニコラスはつぶやき、ふらふらと彼女の方へと歩み寄る。フィーネの呼びかけも、今の彼には届かない。離れてゆく。
ニコラスとレティシアは、お互いに惹かれるように手を取り合い、まるで周囲の存在など目に入らぬように互いの瞳を見つめ合った。
――ニコラスさま。
フィーネは心の中で彼の名を呼んだ。それは実際声に出せば聞き漏らすほどの小さな声量だったかもしれない。それでも振り向いて欲しかった。どうしたの? っていつものように優しく笑いかけて欲しかった。いつもの彼なら、これまでの彼なら、きっとそうしてくれた。
でもニコラスはレティシアのことを熱心にたずねて、彼女も丁寧に答えを返して、その間ずっとフィーネの時間は止まっていた。彼がようやく彼女に言葉をかけたのは、レティシアが飲み物を取りに行った時だった。あれからどれくらい時間が経っただろうか。
「フィーネ。顔が真っ青じゃないか」
大丈夫です、と答える声は掠れていた。
「きみの大丈夫は信用ならない。……どこか空き部屋で休んでいなさい」
そう言って人を呼ぼうとする彼の手をやんわりと止めた。
「大丈夫です。一人で、行けますから」
「そうかい?」
こくりとフィーネは頷いた。
「……そうか。なら、気をつけて行くんだよ」
――心配だから私も一緒について行くと言って。
「私はまだ仕事の付き合いで話さないといけない相手がいるから。……後で迎えに行くから」
ニコラスはそう言って背を向けた。フィーネを見届けることはしなかった。彼らしくない振る舞いだった。
レティシアと会ってしまったから。
ほら。バルコニーに、そっと抜け出した二人の姿があるではないか。自分を放って。彼女と後で二人きりで会おうって、約束していたみたいに。
「きみと初めて会った気がしないんだ」
「……実は私もそんな気がしましたの。不思議ですわ」
「不思議じゃないさ」
まあ、どうしてとレティシアは顔を上げ、可愛らしく首をかしげる。自分とそっくりの顔立ちなのに、彼女がやるとまるで別人のようだと、フィーネは思った。
ニコラスもうっとりとそんなレティシアを見つめ、ささやくように答えた。
「きみと私が、運命の相手だからさ」
二人の陰が一つに重なるのを見ると、フィーネはそっと踵を返した。
フィーネは自分がどこへ向かえばいいのか、わからなかった。ただ、もう一度あの騒がしい喧騒に入っていく勇気はなく、一人になりたいと広大な屋敷を彷徨い歩いた。
そして、誰もいない空き部屋を見つけ、身を隠すように体を忍びこませた。部屋の中は月の光が差し込んでおり、十分すぎるほど明るかった。
部屋には化粧台が備え付けてあり、フィーネはふらふらと鏡の前に立ちすくむ。瓜二つのそっくりな顔立ち――けれどニコラスはフィーネをレティシアだと最後まで認めることはなかった。彼女の面影をフィーネに求めながらも。
どこか抜け落ちたような女の表情に、一筋の涙がこぼれ落ちた。
その時ようやくフィーネは自分が今もニコラスを愛しているのだと気づいた。
どこかで期待していたのだ。彼が今度こそ自分を見てくれると。フィーネ自身を愛してくれると。
でもそれも、もう叶わない。レティシアという本物が現れたから。
フィーネの役目は終わった。
死ぬ間際までレティシアを求めた人だ。そんな最愛の人とようやく巡り遭えた。どれほどニコラスは喜びに震え、レティシアを抱きしめたかったことだろう。愛していると言いたかっただろう。
彼女の代わりを引き受けてきたフィーネには、ニコラスの気持ちが痛いほど理解できた。よかったですね、ようやく会えましたね、とフィーネは祝福してあげるべきだった。
(それなのに、私はどうして……)
鏡に映る自分の頬を、フィーネは右手でそっと撫でた。静かに流れる涙はオペラ・グローブをはめた指先をすべり、レースをあしらったドレスへとこぼれ落ちた。ニコラスがこの日のためにと、フィーネに一番よく似合うと、選んでくれたドレス。
『フィーネ』
フィーネはくしゃりと顔を歪め、右手を握りしめた。
(嫌だ、渡したくない!)
炎のような熱が、フィーネの体を貫いた。
そうだ。自分はニコラスを愛している。
ニコラスのためなら喜んでこの身を差し出す。たとえニコラスがレティシアを愛していてもかまわない。ニコラスから捨てられるまで、彼のそばにいようとフィーネは決めた。
「わたしは、ニコラス様を、愛している」
フィーネは鏡の中の自分にそう誓った。まだ頬を涙は伝っていたが、目にははっきりと決意の光が宿っていた。
「大丈夫ですか」
はっと声の方を振り返った。扉が開いて、一人のすらりとした青年が立っていた。
「ええ、大丈夫です」
涙をさっと拭い、フィーネは微笑んだ。
ユアン・マクシェイン。ニコラスの古い友人の甥。そしてレティシアの婚約者と噂されていた青年。今はじっとフィーネの方を見ている。怪しい女だと思われたかもしれない。
「馬鹿ですね」
「え?」
意味がわからず、フィーネは青年を見つめる。美しい藍色の髪は襟足で短く切り揃えられ、彫刻のように整った顔立ちは最初とても優しそうに微笑んでいた。
だが今フィーネを見つめる表情には何の感情も浮かべておらず、ただその目にはどこか相手をじっと観察するような鋭さがあった。
フィーネは一瞬その鋭利さにどこか懐かしさを覚え、もっとよく見て確かめようとしたが、その前に彼はフィーネの前を通りすぎ、窓から外の景色を眺めた。
「残念ですね」
視線を外に向けたまま、青年がぽつりと言った。今はもう、寂しそうな表情をしている。
「……どういう、意味でしょうか」
月の光を浴びた彼は、どこか神秘的で、儚げに見えた。やはりどこかで会ったのは気のせいだったかもしれないとフィーネは思った。
それだけ彼の見た目は、一目見たら、忘れられない印象を抱かせた。
「いいえ。ただ、運命のお相手、というのは二人のようなことを言うのかと思いまして」
言われてフィーネははっとした。そうだ。自分がニコラスをレティシアに奪われるということは、この青年もまた愛する婚約者を失うということを意味していた。
青年がレティシアの婚約者であるという噂が本当だとするならば。
フィーネは何といって声をかければいいかわからず、ただ目の前の青年を呆然と見つめることしかできなかった。
沈黙がすぎ、青年が振り返った。唇には、親しみを込めた微笑が浮かんでいた。
「あなたとは、仲良くできそうですね」
「……ええ、私も、そう思います」
懸命に微笑んだ自分の顔は、きっとひどく泣きそうに見えたことだったことだろうとフィーネは思った。