後悔
ユアンがフィーネと初めて会った時、彼女の視力はすでに失われており、ほとんど何も見えない状態であった。そういうわけで生まれ変わったユアンの姿を見ても、彼女が何も思い出せなかったのは、当然のことだった。
いや、たとえフィーネの視力が万全なものであったとしても、彼女がユアンのことを覚えていた確率は極めて低かっただろう。そしてそれはユアンにも同じことが言えた。
そもそもブライヤーズ家の一使用人に過ぎなかったユアンに、屋敷の女主人と直接接触する機会は皆無に近く、さらに他人にあまり興味のない彼にとって、彼女のことなどすぐに忘れてしまう存在だったに違いない。
――初めて見る彼女が泣いてなどいなかったら、ユアンはきっと少しも気に留めなかっただろう。
慌ただしい夕食の準備が始まろうとする少し前、ユアンはこれからの忙しさに身を入れるため、休憩がてらに広大な庭を散策していた。
本当は咎められることなのだろうが、主人を失った今、多少のことは見逃してもらえるというのが、この屋敷に入って初めて先輩使用人からこっそりと教えてもらえたことだった。
上から見ると幾何学的な模様を浮かび上がらせる生垣や、天使や動物たちをモチーフにした彫刻の置物、木の段差から流れ落ちてくる滝に花びらが浮かんだ長方形の池。温室もあり、中には異国からわざわざ取り寄せたという珍しい植物が育てられている。
広い土地を思う存分活用した庭園は、何度散策しても飽きることのない、気分転換にはこれ以上ないほど見事な造りをしていた。様々な花々が庭師によって手入れされており、さながらおとぎ話のような世界がそこには広がっていた。
今日は普段あまり歩かない所へも行ってみようかと思い、ユアンは石畳の階段を降りて行き、メインガーデンと言われている場所へと足を踏み入れた。白い小さな花が足元にたくさん咲いており、ユアンは目を細めた。
足元に咲き誇る花に目を留めながら歩いていると、ふと顔を上げた。
あずまやにひっそりと座り込んでいる女性が目に入った。
(あれは……)
屋敷の女主人ではないかとわかり、ユアンはとっさにしまったと思った。彼女は目が見えない。だから声を出さなければ特に気づかれることはないだろう。
問題は彼女の世話をする侍女だ。きっと自分の姿を見てあれこれと文句を言うはずだと、彼は素早く周囲に目をやった。幸い辺りには誰もおらず、ほっと胸をなで下ろした。面倒事にならないうちに早く戻ろう。
けれどユアンの足は、その場に縫い付けられたままだった。
目の前にいた彼女が泣いていたからだ。声を荒げて泣くわけでもなく、ただ静かに涙を流していた。
夕方の、少し曇った空から真っ直ぐな光が降り注いでおり、彼女の姿はユアンの目にひどく幻想的に映った。
彼女の表情を正面から覗き込んでみたい気がした。
だがそれは叶わない。
奥様、という侍女の呼び声に、彼女は涙をさっと拭って立ち上がると、こっちよと侍女の名を呼んだ。侍女が近くまでやって来ると、ほんの少し何かを話し、そのまま手を引かれて行ってしまった。二人のうちどちらもユアンに気づくことはなかった。ゆったりとした足取りで戻っていく女主人の後ろ姿を、ユアンは見えなくなるまでじっと見つめていた。
どれくらいそこに佇んでいただろう。
一人になったユアンは、彼女が見ていた光景を見ようと、同じ場所に足を運んだ。一体彼女は何を見て、涙を流していたのか。確かめなければと思った。
(これは……)
その場所からは、見事な薔薇の花が咲いていた。ユアンは、この屋敷の夫婦が薔薇を揃って好んでいたという話を思い出す。
彼女の目は見えない。それでもこの屋敷で過ごした年月が、彼女をここまで連れてきたのだろうか。
(何とも立派な夫婦愛ですね……)
ユアンは皮肉めいた笑みを浮かべた。
このユアンの一方的な出会いの後、彼はこの屋敷の奥方について初めて興味を抱くようになった。それまでは聞き流していた同僚たちの噂話にも自然と耳を立てるようになったのだ。
「奥様がここへ来た時、ほんのまだ子どもだったのよ」
屋敷の主人であるニコラス・ブライヤーズに見初められて、フィーネという少女はただの平民から貴族の妻となったそうである。まるで巷に溢れる夢物語のようで、実際ニコラスはたいそうフィーネを可愛がり、彼女の方も夫となった彼を深く愛していた。
いや、それは彼が亡くなった今も変わらない。
「奥様もさっさと新しい夫でも見つければいいのにねえ」
「そうよ。顔だけが取り柄なんだから」
「でもさ、やっぱり出自が良くないんじゃないかな」
ああ、なるほどね。と厨房の料理人や使用人たちが笑みを浮かべてあれこれと談笑する。そこに蔑みが含んであることに、ユアンは目敏く気づいていた。
その冷たさは、彼女が自分たちと同じか、それ以上に貧しい出身だということに関係していた。見目の良さだけを気に入ってもらえた彼女が貴族の仲間入りなど、彼らにとってはこれ以上にないくらいお笑い種だった。
小説では喜んで受け入れてもらえる設定でも、現実ではいかに歓迎されないか、ユアンは際限なく続く悪口を聞きながら実によくわかった気がした。
むろんユアンにも、彼らの気持ちは理解できた。だがそこまで責める気持ちが沸かないのは、自分も彼女と同じように見た目の良さを利用してこの場所にいるからだろう。
ユアンの父親はどこかの貴族の息子だったらしい。母は屋敷の使用人だった。二人は若さゆえの過ちで一緒になり、母はユアンを身籠った。
それから父が責任を取ろうとすれば立派だったろうが、身分違いの恋に父の両親や周囲の人間は許さず、結果母は屋敷を追い出され、身体を壊しながら息子のユアンを育ててくれた。
見てくれがいいのは、役に立った。ユアンは自分の整った容姿を利用して、泥水をすするような思いをしながらも、なんとかこの屋敷の使用人として働く権利を掴み取った。
だからといって、これで今までに味わってきた屈辱がすべて払拭されるとは、微塵も思っていない。これからも使えるものは全部使って上へ行くつもりでユアンは今ここにいる。
だから容姿が気に入られて貴族の仲間入りをしたフィーネのことも、ユアンからすれば当然のことだった。
もし彼女がこの屋敷の主人に拾われなければ、自分と同じ使用人として働いていたかもしれない。――そんな馬鹿げた想像をして、ユアンは自分が他人にここまで興味を持ったことをひどく不思議に思った。
「また、だめだったみたいね」
屋敷から出て行く男性を窓から眺めながら、使用人の一人がそうつぶやいた。
何日かおきに、フィーネと再婚を望む男性が現れ、彼女を口説き落とそうとする日々が続く。だがそれは不可能に近く、夫を亡くした女性が一人生きていく心許なさを説かれようが、愛に溢れた言葉を贈られようが、彼女が首を縦に振ることはなかった。
どんなに顔立ちが整った色男だろうが、大金持ちの紳士だろうが、心優しい聖人だろうが、彼女は決して心を開こうとせず、感情を見せぬ微笑みでお引き取り願ったのだった。そんな彼女の態度に、男性陣はみな肩を落として帰るか、嫌味を残して帰って行った。
彼女は今でも若く美しい。主人を亡くした悲しみが、よりいっそう彼女を儚く見せ、庇護欲をそそる。色香で惑わす未亡人というよりも、少女のような可憐さが彼女にはあった。再婚を望む男性が絶えないのは、決してお金のためだけではないだろう。
それでも今もなお、彼女の心は、亡き主人が掴んで離さない。見えない目の向こうには、きっと愛する夫の姿が映っているのだろう。
ユアンはくだらないと思った。使用人たちが彼女を気に食わないという心情も以前よりずっと理解できた。彼女の態度がおそらくそうさせているのだ。
美貌で勝ち取ったならば、いっそ堂々としていればいい。だが彼女は心底主人を愛しており、その愛ゆえにこの屋敷の財を勝ち取ったのだという、しおらしい態度を振る舞っている。
そこが恐らく気にくわないのだ。一途な愛なんて、そんなものでこの生活から抜け出せるなら、とっくにみんな解放されているはずだと思っているのだ。そこだけはユアンも同じ意見だった。
「――ユアン。悪いけれど、奥様にお水を持っていてくれない?」
その日は急な来客のもてなしがあり、次の日も用事が立て込んでいて、目が回る程忙しかった。ユアンも例外ではなかったが、偶然一仕事終えて、フィーネにいつもついている侍女は、未だ手が塞がっている状態だった。ユアンはあの日出会った彼女の姿を思い出しながら、わかったと引き受けた。
「奥様、お水をお持ちしました」
「ありがとう」
彼女は椅子に腰かけ、窓の外をぼんやりと見ていた。彼女の周りだけ、まるで時が止まっているような気がする。
「悪いけれど、私の手に持たせてもらえますか」
「どうぞ」
ユアンは水の入ったコップをフィーネの傷一つない手に持たせてやった。
「ありがとう」
彼女は焦点の合わない目を見られるのが嫌なのか、人と話す時は瞼を閉じるようにしていた。ユアンは、それがまるで見て欲しいのはただ一人だけだという彼女の頑な想いに思えて、なんとなく気に入らなかった。
「奥様は……」
「え?」
話しかけられるとは思っていなかったのか、少しびくりと彼女の肩が震えた。ユアンもとっさに話しかけた自分に内心驚いていた。いったい自分は彼女に何を言おうとしているのか。
「奥様は、旦那様が好きですか?」
とっさに出た問いかけに、フィーネは少女のように微笑んだ。
「ええ、大好きよ」
誰にどう思われようが、他人に何を言われようが、関係ない。彼女の心を占めるのはただ一人だけ。ニコラス・ブライヤーズだけなのだ。
――幸せな人だ。
ユアンは心の中でそう思いながらも口には出さず、部屋を後にした。彼女と話したのは、それっきりだった。
結局彼女は亡き主人の後を追うようにして息を引き取った。最期に夫の名をつぶやいたと、仕えていた侍女が目を真っ赤にして話してくれた。
他の者たちも、つられたように涙ぐみ、生前の彼女がいかに旦那様に仕えたのかを饒舌に語り始めた。立派な人だった、可哀そうな人だったと、散々悪口を言っていた人間が死んだとたんに好意的な言葉を述べるのは、ひどく滑稽に思えた。
どんなに気に食わない相手でも、亡くなってからはいくらでも優しく振る舞えるのだと、ユアンはどこか冷めた気持ちで彼らを眺めていた。
屋敷の整理をすると言いだした後釜は、部屋のあちこちをひっくり返し始めた。ユアンは古参の使用人に付き添い、屋根裏部屋に連れていかれた。部屋に入って目についたのは、布が被せられ、隠すように置いてあったキャンバス。
ユアンは引き寄せられるように、そっとその布をめくった。
(これは……)
顔立ちは奥様によく似ていた。だが、何かが違うと思った。肖像画に描かれる女性の瞳は、エメラルドのような、明るい緑色をしていた。暗いところなど、少しもない輝き。それが、彼女とは違う気がした。
だが正面から彼女の目を見たことがないユアンには、本来彼女がどのような色をしているかわからない。そしてそれはもう永遠に確かめようがないことだった。
「これは、若い頃の奥様でしょうか」
「……いいや、違うさ」
何とも決まり悪そうな顔をして、古参の使用人は目を逸らした。なんとなくそれ以上聞くことは躊躇われて、ユアンは片づけに専念した。絵は処分されることに決まった。
「この手紙と一緒に、燃やしてきてくれ」
必ずな、と言って渡されたのは、旦那様の筆跡で綴られた手紙。宛先は奥様、ではない別の女性だった。
「中は見るなよ」
見るなと言われると、よけいに人は見たくなるものだ。
ひょっとすると、渡した本人も、どこかでそれを望んでいたのかもしれない。彼だけは、フィーネに同情的で、亡くなった際も心から涙を流しているように見えた。
その日の夜、ユアンは同じ部屋の同僚が寝静まったのを確認すると、こっそりと持ち帰った手紙を読み始めた。罪悪感はあった。もうすでに死んだ者、しかもフィーネの夫の手紙である。仕える者の立場なら、主人を思って捨てるのが当然だった。
――それでも、ユアンは読んだ。知りたかった。フィーネが最期の瞬間まで愛した人のことを。
手紙の内容は、別に何ということはなかった。ニコラス・ブライヤーズが婚約者に送った手紙。ただその婚約者が、フィーネではなく、レティシアという女性だったこと以外は本当に、ありふれた愛の告白が綴られた手紙だった。
ユアンは、あの肖像画の女性を思い出す。フィーネによく似た女性。――いや、フィーネが、肖像画の女性によく似ているとも言えた。
ユアンは興味がわいた。それは、使用人たちが仕事場でこの先誰が結婚するかなど、あの屋敷の伯爵はひどく見目が悪いとか、そういう類のものだった。他人の秘密を知りたい。知ったら、それに関係する人物がどういったものか、さらに知りたくなるのが人間だ。
彼はそう思って、かつて屋敷に仕えて、今はもう辞めてしまった使用人のもとへ訪れた。罪悪感があったのか、彼らは罪を告白するように、意外にもすんなりと秘密を教えてくれた。
フィーネは、レティシアの代わりとして、ニコラスが引き取った女性だったということを。
この事実を知った時、ユアンはふとフィーネの横顔を思い出した。視力を失いながらも、何かを求めるような、寂し気な横顔を。ユアンの問いに、笑顔で答えた無邪気な表情を。
彼女は知っていたのだろうか。ニコラスに引き取られた理由も、愛された理由も、すべてレティシアの代わりだったということを。
ユアンは、知っているような気がした。
あの屋根裏部屋に、ふと彼女が思い立って入ってしまった姿が、あの肖像画を見てしまった姿がなぜか自然と目に浮かんだ。
その時、彼女はどう思ったのだろうか。いいや、答えは決まっている。彼女は見なかったことにして、ニコラスを愛し続けたのだ。彼が亡くなっても、視力を失うほど悲しんで、死ぬまでニコラスを想い続けた。
「旦那様は最期にレティシア様の名を呟かれて旅立ちました。奥様はそれを……」
ユアンはありがとうございますと告げて、フィーネが生まれ育ったという故郷にも足を運んでみた。人家よりも、野原が多い、みすぼらしい田園風景がそこには広がっていた。こんなところで生きる人間の人生なんて、さぞちっぽけなものだろう。
――奥様は、旦那様が好きですか?
お偉い貴族の人間が、足を運ぶような場所ではなかった。一生縁のない場所だと言ってもいい。
――ええ、大好きよ。
ニコラスと出会わなければ、彼女はあの屋敷に連れて行かれることもなく、レティシアの代わりだと苦しむこともなく、視力を失うことも、早死にすることもなかった。
――たとえ同じものを返せなくても、私はニコラス様を愛しています。
「……馬鹿な人だ」
ユアンは、そう一言彼女に言ってやりたかった。言えばよかった。
もっと話しかければよかった。結局自分は彼女のことを何も知らぬまま、一人寂しく逝かせてしまった。