失ったもの
夢にまで見たレティシアと、ついに出会えた時、ニコラスは最初幻だろうかとさえ思った。だが彼女が本当にあの、かつて失われたレティシアだとわかると、彼はどうしようもなく全身が震えた。
(ようやく……ようやく、出会えたのだ!)
前世で彼女に抱いていた愛しいという感情が、ニコラスの胸に迫った。
彼女を失って、どれほどの悲しみに胸を痛めてきたことか。どれほど身が引き裂かれるほど苦しんだことか。
何度彼女の最期が夢となって現れただろうか。
何度行かないでくれと泣き叫び、目覚めた時の現実の冷たさを思い知らされただろうか。
そんな相手とようやく巡り会うことができて、どうして愛さないでいられようか。
「――いいや、会ったことはないな。フィーネは何か知っているかい?」
フィーネをだましている罪悪感はもちろんあった。けれど、それよりもレティシアと再会できた喜びが勝った。
代わりなど、誰にも務まらなかった。
だからといって、すぐにフィーネを手放すつもりは、ニコラスには微塵もなかった。
彼女の家のこともあるし、何より彼女が他の男と一緒になることは、考えられないことだった。
レティシアがそうであるように、フィーネもまた、ニコラスにとって代えのきかない存在だったのだ。
我儘で、身勝手な理屈だ。おそらく他人には理解されるまい。それでもニコラスにとっては、フィーネもまた、自分の傍になくてはならない存在だった。
フィーネが前世の記憶を持っていることも、ニコラスにとってはありがたかった。在りし日の思い出を共に語り合うことができるのは、彼女だけだった。
レティシアに記憶がないのは残念だったが、最期のことを思えば、思い出さなくてよかったとも言える。
付き合っていくと、彼女は前世よりも多少自由奔放で、一度自分がこうだと思ったら、どんな相手でも譲らない性格だと気づいた。
その点がニコラスには少々気になったが、すぐに些細な問題だと目を瞑った。何より貴族としての誇り高さは、紛れもなくレティシアの証といえた。
それに多少違いがあろうが、ニコラスにはあのレティシアが目の前にいるということで十分であり、かつてと同じように彼を虜にした。
自分のことについては何も知らない。覚えていないレティシアに決して不満がなかったわけではないが、彼にはフィーネがいた。
フィーネはニコラスのことを何でもよく知っていた。好みも、性格も、ニコラス以上に、ニコラスのことを知っていた。
自分もまた、彼女のことならば、他の誰よりも一番よく知っている自信があった。
――だからこそ、ユアン・マクシェインという存在は気に障った。
彼がレティシアの婚約者だと紹介された時からいけ好かないやつだと思ったが、フィーネへの接し方を見てその思いはさらに強まった。
今まで自分が一度も見たことのないような表情を、フィーネはユアンに対して見せた。
その表情を見た時、ニコラスは自分の気持ちがひどく乱れるのを感じた。不快感と大事な何かを奪われるという、かすかな不安。
この男の存在を、放っておくことはできないと彼は思った。
「――あなたが今回の首謀者ですか」
フィーネが怪我をしたという知らせを聞いて急いで帰国したユアンが、冷ややかな目でニコラスを見た。顔立ちが整っているぶん、その迫力はなかなかのものだった。
だがニコラスは気にせず、グラスを軽く傾けながら相手に微笑した。
「藪から棒にどうしたんだ」
「とぼけないで下さい」
「本当に何のことだかわからないんだ。いったいきみは何を言っているんだい、ユアン?」
「叔父まで買収するとは……たいしたお方だ」
心底軽蔑したと、ユアンは吐き捨てるように言った。
ニコラスはそんなユアンの態度にも何のことか全くわからないと困惑した表情を作る。
「心無い人もいたものだな。きみに嘘の手紙を書いて送るなんて」
ユアンの親戚が事故で亡くなった、という話は全て事実無根であったらしい。親戚もみな、無事で怪我などどこもしていなかった。
ニコラスの同情めいた表情にも、ユアンははっと冷たく笑った。
「そう、あなたが依頼したんでしょう」
「私が? いったい何のためにそんなことをするんだ?」
ニコラスはまあ落ち着きたまえとユアンのグラスになみなみと酒を注いでやった。
それでも彼は少しも口をつけようとせず、まるで汚らわしい飲み物だと言わんばかりにグラスを見やった。
「さあ、何のためでしょうね。意中の相手を自分の屋敷へ堂々と連れ込むためにか、あるいは……自分のものだと勘違いしていた男が、いざ他人に奪われそうになって、嫉妬で本国へ帰そうと画策したとは、考えすぎでしょうか」
ニコラスとユアンは、表情を消し、無言で互いの顔を見た。だがすぐにニコラスが、ふっと微笑んだ。
「さすがマクシェイン氏の血筋だな。きみも彼のような偉大な文筆家になれるよ」
ユアンは何も言わなかった。
ただ黙って席を立ち、こちらを振り返った彼の目には、もう見せかけだけの親愛の情は、そこには込められていなかった。
(いいや、最初からそんなもの、この男は少しも持ち合わせてなどいなかった)
ニコラスは驚くまでもなく、むしろようやく本心を見せたのだと、どこか納得する思いで笑いかけた。
「さあ、急いで帰って来て疲れただろう。少しはゆっくりしていきたまえ」
「フィーネがあんなふうになったのは、ご自身のせいだとはお思いになられないんですか」
思わぬ問いに一瞬虚をつかれ、ニコラスは口を閉ざした。だがすぐに、それは違うだろうと答えた。
「フィーネを階段から突き落としたのは、ライノット伯爵だ」
「あなたのせいではないと?」
「……そうだ」
視線を落としたまま、彼は肯定した。
「ではレティシアのせいですね」
「彼女は被害者だ」
「結果的に見れば、そうですね」
冷めた口調はレティシアを責めるようにも聞こえ、ニコラスは思わず顔を顰めた。
「きみは襲われそうになったレティシアに非があるというのか。それはあんまりじゃないのかね。仮にも婚約者だろう?」
「婚約者がいるのに、彼女は他の男性に気を持たせるような振る舞いをした。ライノット伯爵をあんな凶行に走らせるほど、追いつめた。……あなたは彼女がライノット伯爵とどういったご関係だったのか、ご存知ですか?」
ユアンにそう尋ねられ、ニコラスは彼女の最期を思い出した。暴漢者に襲われて亡くなったレティシア。
あの時、どうして彼女は中庭にいたのだろう。友人と話していたはずではなかったのか? 男に呼び出された? 彼女と男のその関係はいったい何だったのか……けれど彼女の死はニコラスにとって辛い記憶であり、思い出してはいけないことだった。ゆえに、ユアンの言葉も振り払った。
「もう終わったことだ。過去は関係ない」
それに彼女は自分を愛している。罪を犯した男ではなく、目の前の男でもなく。
「ライノット伯爵はもう伯爵ではなくなる。レティシアには何も起こらなかった。フィーネも無事に目を覚ました。それでいいじゃないか」
水に流せとグラスを掲げる。
ユアンはニコラスの誘いを断る代わりに、冷たい微笑を贈った。
「自分の行いを自覚できない人は、本当に救いようがないですね」
見下ろすかたちでそう言うと、彼はそのまま部屋を出ていってしまった。
ニコラスは酒を飲む相手を間違えたなと、残ったグラスを見ながら思った。
ニコラスを守ろうと飛び出したフィーネの行動に、彼は心底肝が冷えたが、同時にそこまでして自分を庇おうとした彼女の献身さに胸を打たれた。
ニコラスの身代わりとしてライノットに刺されていたかもしれない。階段から転落して死んでいたかもしれない。永遠に目を覚まさぬまま息を引き取ったかもしれない。
フィーネが死んでいたかと思うと、ニコラスは自分がどうなっていたかわからない。
早く目を覚ましてくれと願ったことも事実だし、傷を見るたびに罪悪感が押し寄せるのも本当のことだった。
――それでも、考えてしまう。
彼女があのまま亡くなっていたら、自分はレティシアと一緒になれたのだろうかと。
フィーネをどうするかなど、あれこれ頭を悩ます必要なく、レティシアにアプローチできる。今度こそ、結婚することができる。一緒になることができる。
罪悪感はつきまとうだろうが、いずれは時が解決してくれる気がした。
そんなことを冷静に考える自分がいて、ニコラスは慌ててその考えから目を逸らした。
「……もしもあのままフィーネが目を覚まさなかったら、私とあなたは一緒になれたんじゃないかって――」
レティシアにその言葉を言われた時も、ニコラスはすぐさま否定した。そんなことを言ってはいけないと、自分に言い聞かせるように彼女を非難した。
まるで自分の心を見透かされたようで、ひどく後ろめたかった。
それにフィーネが自分のそばにいないことなど、もはやニコラスには想像できなかった。
「愛していますわ、ニコラス様」
フィーネの自分を見つめる瞳が、自分しかいないのだと請うようで、ニコラスの心を甘く満たしてくれる。
(この子には、私しかいない)
家族のことも、自分が見放してしまえば、彼女が他に頼るものは誰もいなかった。それがひどく可哀想で、同時に決して自分から逃げ出すことはできないという安心にも繋がった。
実家で療養したいと申し出たフィーネを心配しながらも、レティシアと会えると思えば、たまにはいいかと彼女の帰省を許した。
レティシアは喜んで自分の屋敷へ訪れた。ニコラスもフィーネがいない寂しさを埋めるように、レティシアと会える喜びが増した。
だからつい、疎かになってしまったのだ。
フィーネの体調を気遣う返事も、その手紙がいつになくそっけないことも、彼女の家へ訪ねることも。
放っておいても、彼女は必ずこの屋敷へ帰ってくるだろうと当たり前のように思っていた。
彼女がどんな思いで別れを申し出たのか、ニコラスは考えようともしなかった。
……本当に、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
あっという間の出来事は、今振り返ると悪夢のような時間だったと思う。フィーネとの婚約を解消してもなお、本当にこれでよかったのか、彼女との別れは正しい選択だったのか、覚めない夢の中を歩き続けている感覚でニコラスは考え続けている。
ずっと待ち望んでいた結末なのに、心から喜べないのはどうしてなのか。喜ぶレティシアをよそに、思い浮かぶのはもうここにはいない彼女の姿だった。
「フィーネ……」
彼女が最後に見せた表情が、忘れられない。
――愛しています。誰よりもあなたを愛しているんです。ニコラス様。
(彼女は……レティシアのことを、知っていた……)
フィーネの言葉を聞いた時、ニコラスは自身の心臓に杭を打たれたような、いいや、自分で幼い少女を刺し殺してしまったような、そんな息苦しさに襲われた。
自分は、取り返しのつかないことを、彼女にしてしまった。
――あなたは私を愛していたのではありません。レティシア様によく似た少女を、レティシア様の代わりとして愛していただけなんです!
(……違う。フィーネ……きみは……きみは、レティシアの代わりなんかではない……)
確かに初めはそうだった。
けれど、フィーネと一緒に過ごしていくたびに、決してそうではないと、フィーネはフィーネだと、ニコラスは理解して、それを受け入れていた。
誤解を解きたい。謝りたい。そして今度こそ――
そう思って港へ駆けつけた時には、もう彼女の姿はどこにも見当たらなかった。彼女は、ニコラスの手の届かない国へと旅立ってしまった。彼女の意志で、けれどニコラスがそうさせてしまった。
「――ニコラス、大丈夫?」
よほど酷い顔をしていたのだろう。レティシアが、気遣う表情でニコラスの顔を覗き込んでいた。
彼女の、夏の日差しに照らされた、若い新緑の瞳。暗いところなど、少しもない輝き。
「ニコラス?」
違う、と思った。あの子は、フィーネの瞳は、もっと青みがかった色をしていた。
その色が、今は何より見たかった。
「……ああ、大丈夫だ」
レティシアの心配する手をそっと払いのけ、ニコラスは窓際に近寄った。
レティシアの顔を見るたびに、フィーネを思い出す。似ているからこそ、その些細な違いが気になって仕方がない。何かを失ってしまった喪失感を意識せずにはいられない。
暗い夜空にぽっかりと浮かぶ月が、忌々しく感じた。
おかしいではないか。あんなにも欲していたレティシアがそばにいるのに、今は、あの少女の姿が見たくてたまらない。声が聞きたくてたまらない。
もう一度この腕で抱きしめて、どこにも行かないでくれと叫びたかった。
身代わりなんかではなかった。フィーネは、フィーネだった。
ニコラスにとって、たった一人のかけがえのない存在だった。
(フィーネ……フィーネ!)
ニコラスは己を嗤った。もう、遅い。何もかも、すべて、自分が望んだ通りではないか。運命の相手であるレティシアと結ばれ、傷つけた少女の隣にも、別の人間がいる。
それでもニコラスは、いつまでもフィーネの名を呼び続けた。




