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身代わり令嬢は愛し、愛される  作者: 真白燈
フィーネ

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16/24

フィーネ


 ユアンは、フィーネが落ち着くまで自分の家に滞在するよう勧めた。豪華な屋敷を思い浮かべたフィーネは、出迎える人々に何と言われるか想像して気が重くなったが、その必要はなかった。


 彼が連れてきたのは、鬱蒼とした木々に隠されるようにしてぽつんと建つ一軒家で、長い間放置されていたのがわかるほど庭の草木は伸び放題だった。


 ユアンが幼い頃に叔父のマクシェイン氏と過ごした家だそうだ。


「親戚での扱いにみかねた叔父が、自宅に引き取ってくれたんです。その後無理矢理親戚に連れ戻されても、叔父が仕事で向こうへ行ってしまっても、何かと理由をつけて、俺はこの家へ避難していましたね」


 淡々とした口調だったが、その横顔はどこか昔を懐かしむようで、彼にとって大切な場所なのだろうと思った。


 ユアンの生まれ育った国は、彼が言っていていた通り、フィーネの住んでいた国とさほど変わらなかった。魔法使いがいるという噂も、ただの噂なのだと思うくらい、フィーネは何も見聞きする機会がない。


 それとも自分がまだ知らないだけだろうか。


「おや、フィーネ。おはようございます。今日はずいぶんと早いですね」

「……あなたが早すぎるんです」


 子羊のブランケット、ベーコン、オムレツ、ポーチドエッグトーストなど……テーブルにずらりと並べられた朝食を見て、フィーネはため息をついた。


 ユアンは真面目な人だった。朝は誰にも起こされず決まった時間に起きる。それはフィーネよりも早く、屋敷で働いていた使用人たちが起き出す時間よりほんの少し遅いくらい。


 新聞や手紙も自分で受け取り、朝食も用意する。それも簡単なものではなく、ニコラスの屋敷で食べていたものと同じくらいか、それ以上に手の込んだものでフィーネは度肝を抜かれた。

 申し訳なくてフィーネは自分で用意すると言っても、彼は譲らなかった。


「それにあなた、料理なんてしたことないでしょう」

「覚えます」


 爽やかな微笑みにカチンときて、フィーネはそうユアンに宣言した。彼は腹が立つほど教え方が上手かった。


 今では朝食がユアン、昼はフィーネで、夕食は二人でと分担が決まっている。もちろん忙しい時や手が空いている時は簡単なもので済ませるか、お互いに協力して作った。


 それからフィーネはユアンの紹介で、週に何日か家庭教師の仕事をしている。

 ユアンは別に働かなくてもいいと言ったが、フィーネは断った。十分すぎるほど世話になり、これ以上迷惑をかけたくなかったこともあるが、何より働いていた方が、気が紛れるからだ。


 何も考える必要のない時間が、何かを思い出してしまいそうで、彼女は必死に知らない振りをした。


 働いた経験などそれまでなかったフィーネにとって、家庭教師という誰かに教える仕事はもちろん大変で、一筋縄ではいかなかった。いかに自分がこれまで世間知らずだったか、身をもって思い知らされた。


 それでも、逃げ出したいとは思わなかった。

 前へ進まなければ、という思いがただフィーネを突き動かす。


 ユアンはそんなフィーネに何も言わなかった。ただ彼女がふと孤独や寂しさを感じた時には、いつの間にか隣に腰を下ろして、どうでもいい話をしてくれる。明日の献立や隣近所の話。


 決定的なことは何も言わないし、尋ねようともしない。


 たまに一緒に街に出掛けて、店の中を覗くこともあった。これが必要、あれがもうないと、二人で話しながら買い物を済ませて、もと来た道を並んで帰る。


 買い物袋をお互いに抱え、ユアンが帰りにお茶して行こうと喫茶店に立ち寄っていく日もあった。彼は相変わらず甘党で、ケーキをいくつも注文して、フィーネはコーヒー一杯でお腹いっぱいになった。


 仕事で出かけたユアンを、傘を持って迎えに行った日もたまにあって、危ないからと自然と手を繋がれ、そのまま家まで帰っていく日も一度きりではなかった。


 何でもない当たり前の日常が、フィーネには夢を見ているようで、不思議な心地だった。


「ユアン。こんなところで寝ていたら風邪ひきますよ。寝るならベッドで寝て下さい」


 ソファでうたた寝をしていたユアンの体をフィーネは揺さぶった。このところ遅くまで仕事をしていたせいだろう。本が乱雑に重ねてあり、原稿用紙が何枚も床に散らばっていた。彼にしては珍しいことだった。


 フィーネは乱暴に彼のブランケットを取り上げると、身体を軽くゆすった。それでも起きないと、いい加減にしろと頭を叩いてやった。


「フィーネ……もう少し、優しく起こして下さい」


 ユアンは目を細め、ようやく目を覚ました。


「休むなら、自分の部屋に行って寝て下さい」

「フィーネも、一緒に寝ますか」

「寝ません」


 それは残念です、とユアンは起き上がってテーブルの上のマグカップに手を伸ばした。

 それを横目で見ながらフィーネはこっそりとため息をついた。


 何も知らない人間からすれば、自分たちは新婚夫婦のように見えたことだろう。実際は夫婦でも恋人同士でもなく、同居人、のような微妙な関係だったが。


 他人の目を気にしない二人だけの生活は、不便なこともあったが、フィーネにとっては、肩の荷が下りたような、気楽な生活だった。広大な領地も屋敷も、大勢の使用人たちと暮らす生活も、今思うと、何もかも自分には荷が重すぎたのだろう。


 フィーネは最初、ユアンがレティシアと共に自分を騙していた贖罪から、あれこれと世話を焼いてくれるのかと思っていた。


「あなたは俺がそんなできた人間に見えるんですか」


 まだ寝起きで頭が回らないのか、どこか気怠い雰囲気を纏いながら、ユアンがフィーネに聞いた。彼女はもちろん彼がそんな立派な人格者だと思っていない。むしろ後で膨大な利息とともに支払いを要求すると言われた方が、よほど現実味があった。


「あなたが日頃俺をどう思っているか、よくわかりました」

「だって、他に思いつかないんです」


 椅子に腰掛けているユアンを、フィーネは困ったようにソファから見上げた。彼はテーブルの上に置いてあった新聞や手紙を確認していたが、彼女の視線に気づき、口元を緩めた。


「あるじゃありませんか。とっておきの理由が」

「……私にとっては、そちらの理由の方が信じられません」


 フィーネは琥珀色の瞳を直視できず、俯いた。

 彼が親戚と縁を切るかたちで自分と一緒にいることが彼女の心には重くのしかかっていた。


「私は、あなたに想ってもらえるような人間ではありません」


 酷いですね、とユアンが立ち上がってフィーネの真正面までやって来た。顎をそっと持ち上げ、彼女の全てを見透かそうとする。見ないでくれ、とフィーネは目を逸らしたくなった。


 哀しみも、醜い感情も、誰にも見られたくない。


 ユアンがふっと微笑んだ気がした。


「馬鹿ですね、あなたは」


 フィーネは精いっぱいの反抗として、ユアンを睨みつけた。だが彼からすれば、そんなのは子猫が威嚇するような可愛いものだった。


「ニコラスのことが、まだ、忘れられないんですか」


 そうすると彼女がとたんに怯むのを、ユアンはもう知っていた。

 フィーネも、自分が次にどう答えるか、わかっていた。


「ええ、忘れることなんて、できません」


 忘れることなど、できなかった。離れていると、よりいっそうニコラスのことを思い出してしまう。時が経つほど、ニコラスとの別れを実感する。


 そして何もかも全てが、ニコラスを思い出させるようなきっかけに見えた。

 美しい花は、ニコラスの愛した薔薇を。窓から差し込む光は、彼の温かな微笑みを。楽しい冒険物語は、彼の声を。


 本当は忘れたいのに、ニコラスの笑顔が、声が、フィーネの心を強く揺さぶるのだ。帰って来いと、きみがいる場所は自分の隣だと。

 フィーネの魂に強く刻まれたニコラスの全てが、フィーネという存在を糾弾する。


「まだ、愛しているんですか」


 わからないとフィーネはかぶりを振った。


 ニコラスへの想いは、フィーネ自身にも理解できない、歪んでねじれ曲がったものだ。綺麗で透明な気持ちは、きっともう残っていない。


 好きだ。嫌いだ。

 幸せになってほしい。幸せになんかならないでほしい。

 愛しい。憎い。愛しい。


 矛盾した感情が、フィーネを襲い、心が引き裂かれそうになる。

 愛したいという感情は、本当は憎しみともいえる歪なものなのかもしれない。


「彼は今ごろ、あなたを取り返そうと必死に画策しているでしょうね。あるいは、あなたが帰ってくるのを待っているかもしれません」


 フィーネはじっと、痛みに堪えるように目を瞑った。


 彼女は、今ならニコラスが自分を引き取ろうとしたその心情を理解してやることができた。失くしたものを取り戻す。彼は、本当にレティシアを愛していたのだ。この苦しみを紛らわせてくれるものがあるのならば、人は禁忌とされた手段にも手を伸ばしてしまうのだろう。


「愚かな人だ」


 ユアンの囁きは、まるで悪魔の言葉のように甘く、フィーネの心を暴く。細く長い指がフィーネの髪をするりともてあそんだ。


「可哀そうなことにあなたは今でもあの男の虜。魂を握られている」

「やめて。それいじょう、いわないで」


 涙を流して許しを請うフィーネを、ユアンは妖艶な笑みで見つめた。跪き、彼女の手を握りしめる姿は、一見迷える子羊を導く神父のように見える。


 だがその瞳の奥に見えるのは、熱に浮かされたような欲の塊。


「安心してください。俺が、あなたをあの男のもとへ帰したりしません」


 ぎしりとソファを軋ませ、フィーネをゆっくりと押し倒したユアンは、壊れ物を扱うかのような手つきで彼女の白い頬を撫でた。


「あなたの魂の半分があの男のものだというなら、俺の半分をあなたにあげます。それであなたは、俺と完全に一つになれる」

「それは、」


 どういう意味だ、と聞こうとした言葉は彼の口づけによってかき消された。触れるだけの、優しい口づけだった。顔を離すと、ユアンはフィーネをじっと見つめた。


「フィーネ」


 自分の名を呼ぶ男の声が愛していると聞こえて、フィーネの頬には一筋の涙が零れ落ちた。



 ユアンはフィーネが一人悲しみに浸ることを許さなかった。わざと彼女が怒るようなことを言い、涙を流させる。ニコラスへの想いも、憎しみも、すべて吐き出させようとする。


「あなたには、わかりませんわ」


 フィーネは震える声で、ユアンに八つ当たりした。

 自分がいかに最低な人間であるか自覚しておきながら、彼女は子どものような癇癪を彼にぶつけた。


「ええ、わかりません」


 ユアンはフィーネの苦しみや悲しみにも、ちっとも動じる素振りを見せず、ただ全てを受け入れるかのように彼女の言葉に真摯に耳を傾けた。


「どうしてあなたがあの男をここまで好きなのか。別れを告げてもなお想い続けているのか」


 はらはらと流す涙を、ユアンは少しも目を逸らさず見つめる。そこにはいつもの揶揄する表情は少しもない。いいや、こちらに来てから、彼は気味が悪いほどフィーネに優しく接して、それがまた彼女をよりいっそう困惑させるのだ。


「だから、教えて下さい。苦しみも悲しみも、俺にぶつけて下さい」


 その言葉のなんと甘いことか。フィーネは耐え切れず、縋るように、この男の胸で泣き喚いた。慰めを求めて誰かに縋るのは、初めてだった。


「私には、あの人しかいない。あの人を失った今、もう、どこにも行けない。私という存在は消えてしまう!」


 真っ赤な目で、フィーネはユアンを見上げた。


 フィーネは誰かに助けて欲しいと思った。そしてその誰かは、この男しかいないように思えた。


「私が、今まで周囲の人間に何と言われてきたか、あなたはご存知ですか?」

「ええ。レティシアによく似た人形だと」


 そうだとフィーネは笑った。


「あなただってそう思って、今まで私と接してきたのでしょう」


 ユアンは何度だってフィーネに馬鹿だと言った。それは自分の存在を笑ったからだ。

 子どもが駄々をこねるような理屈で、フィーネはユアンを責めた。


「俺はあなたをレティシアと同じだと思ったことは一度もありませんよ」

「嘘です」


 フィーネがにべもなく答える。ユアンは嘘じゃありませんよと彼女の顔を自分の方に向かせた。


「あなたは見かけによらず意地っ張りだし、すぐに内にため込んでしまう。決して人に弱みを見せようとしない。見せてもすぐに隠そうとする。何でもないふりをするのが上手で、とても下手です」


 それから、とまだ続けようとするユアンの口をフィーネは乱暴に塞いだ。


「もう、いいです」


 だがユアンは彼女の手を掴んで、優しく微笑んだ。


「とても寂しがり屋だ」


 フィーネは涙でぐしゃぐしゃになった顔を見せまいと、彼の胸に押し付けた。

 ユアンはそんなフィーネをいつも痛いほど強く抱きしめる。彼女が消えてしまわないように、繋ぎ止めるように。そして最後に決まってこう言うのだ。


「フィーネ、あなたは、あなたです。誰かの代わりでも、都合のいい人形でもありません。自分を、見て下さい」



 ユアンに連れられて、とある村を訪れたことがあった。なんてことのない、辺鄙な村で特に目新しいものは何も見当たらなかった。どうして彼がここに自分を連れてきたのか、フィーネにはまったく見当がつかなかった。


「ユアン? ここに何かあるんですか?」


 彼は答えなかった。まるで目的地など最初から決まっているかのようにフィーネの手を引き、さらに開けた場所へと案内する。


 どこまでも続きそうな緑の中、放牧されている牛や羊が草をはみ、今にも朽ち果てそうな小屋がぽつぽつと建っている。どこにでもあるような、ただの簡素で、みすぼらしい景色。


 だがフィーネはふいに自分が本当の場所へ帰ってきたような気がした。前世で生まれ育った、本当の故郷。もうはっきりと思い出せないのに、狂おしいほどの懐かしさが胸にこみ上げ、フィーネはその場に座り込んだ。


「うっ……くっ……」


 喉がひりつき、目に熱い涙があふれる。フィーネは堪えきれず、嗚咽をもらし、やがて大声で泣き始めた。


 どうして今自分が泣いているのか、フィーネ自身にもよくわからなかった。けれど遠い昔に何かを失ってしまった悲しみが、今になってはっきりと突き付けられた気がした。


 あの時、ニコラスがフィーネのもとへ訪れなかったら、レティシアによく似た少女を引き取りたいなんて申し出なければ、自分はいったいどんな未来を歩んでいただろうか。貧しい生活であったことに変わりはないだろう。彼に引き取られるより、ずっと辛い目に遭っていたかもしれない。


 それでも、誰かの代わりとして生きていく辛さは知らないままだった。


 両親に愛されていたとは言えない。ニコラスに与えられたものはたくさんある。身代わりでも、愛されていたことは確かだった。


 どちらの人生が幸せか、考えるだけ無駄だ。過去(あの時)には決して戻れない。戻れても、幼い自分にはきっと何もできなかったと思う。意味のないことだ。それでも、だからこそやるせないし、この気持ちをどうすればいいかわからなかった。


「フィーネ」


 後ろからそっとユアンが自分を抱きしめてくれて、フィーネは声が枯れるまで泣き続けた。


 失ってしまったもの。手に入らなかったもの。捻じ曲げて、道を間違えて、それでもまた自分は戻って来たのだと、彼女は思った。



 それからまた何回か季節が巡り、ようやく周囲の人間は見目麗しい青年と令嬢に好奇心の目を向けることに飽き始めていた。


 フィーネの嵐のような感情も静まり、穏やかなものに変わりつつあった。けれどその代わり、今度はぽっかりと空いた穴が自分を引きずり込んでいく気がした。


 ユアンに連れて行かれたあの場所、あの光景を見てから、何をしても身が入らない。どうして自分はここにいるのだろうという虚無感にフィーネは襲われる。


 それでも月日は当たり前のように過ぎてゆく。


 月の美しい夜だった。ユアンは窓を開け放ち、春のほんの少し寒い風を部屋の中へ招き入れた。


「フィーネ」


 本をめくっていた彼女は顔を上げ、ユアンを見つめた。


「美しい月ですよ。あなたもこちらへ来て一緒にご覧なさい」


 ユアンの言葉に、フィーネは本を閉じて椅子から立ち上がった。

 彼の言う通り、真っ暗な夜空にぽつんと月が浮かんでおり、煌々と輝いていた。太陽と違い、月は直接見つめても眩しくない。それがフィーネにはいつも不思議だった。


「本当に、とても綺麗な月ですね」

「……あの日、あなたは月を見ていました」


 窓から視線をそっと離し、琥珀色の瞳がフィーネの青みがかった瞳を優しくとらえた。


「フィーネ。俺は一つ、あなたに嘘を述べました」

「嘘?」

「ええ。レティシアのために、あなたに近づいたと述べたことです」


 ニコラスと一緒になりたいから、代わりにフィーネに近づいて欲しい。レティシアはそう婚約者のふりをしていたユアンに頼んだ。


「最初はたしかにそうでした。レティシアはお礼をしてくれると言いましたからね。対価に見合った働きはしないといけません」


「とてもよい働きぶりでしたわ」


 ユアンはフィーネの嫌味にも、笑みを深めるだけだ。


「俺は、あなたがあまりにも一途で、見ていて可哀そうになった。ニコラスと別れた後のあなたは、いったいどうなってしまうのだろうと思うと、自分がしてきた行いが、本当に正しいのだろうかと、不安にもなりました」


「そうは、見えません」

「本当ですよ、自分でも信じられませんが」


 ユアンの細い指が、フィーネの頬を撫でた。


「あなたが、あの男のために命まで差し出そうとして、それで怪我をしたとまで聞いて、俺は笑いそうになりました。どこまであなたは馬鹿なんだろうって。そんなことをしても、レティシアとニコラスが喜ぶだけでしょう。このままあなたをニコラスのそばにいさせたら、あなたは本当に壊れてしまいそうだと思いました。だから、俺の役割を打ち明けたんです」


 フィーネはユアンだって馬鹿だと思った。こんな自分に同情して、こんな自分を救うために、わざわざ憎まれ役を買うなんて、なんて愚かな男だろう。

 ここに住むのだって、彼が何を犠牲にして、捨てたのか、フィーネの頭ではとても考えられない。


「フィーネ。俺には、今のあなたの心情がわかりますよ。あなたは、今、とても怖いのでしょう? ニコラスのために必死に良い子を演じてきた自分が、とても空っぽに思えるのでしょう?」


「あなたは、本当に意地の悪い人ですね」


 ユアンは否定せず、その通りだと笑った。


「でも、間違っていないでしょう?」


「……ええ、あなたの言う通りです。私は今までずっとニコラス様のために、自分を作ってきました。言葉遣いも、服装も、趣味も、すべて。だから、ニコラス様から離れた自分が、これからどう生きていけばいいか、まったくわからないんです。自分を見失ってしまいそうで、怖いんです」


 ニコラスへの未練も何もかも消えてしまった時、フィーネという存在も一緒に消えてしまいそうで。


 手で顔を覆ったフィーネに、ユアンがかける言葉はない。きっと呆れたのだろう。まるで中身が空っぽの人形だと。いっそ笑ってくれればいい。


「大丈夫です。俺が教えてあげます。あなたという存在を」


 手をどけて、ユアンがフィーネに優しく微笑む。その表情が、フィーネにはどこか泣いているように見えた。


「俺が知らない部分があるなら、一緒にこれから知っていきましょう」


 ユアンの言葉は、魔法だ。彼が大丈夫だと言えば、本当にそんな気がしてくる。

 この先ユアンとずっと一緒にいれば、きっと自分は心穏やかに過ごすことができるだろう。けれど――


「わたしは、きっとあなたを愛せません」


 残酷に、フィーネは告げた。自分でもなんて酷い奴だろうと思う。

 けれど誰かの優しさを犠牲にして、自分を慰めたくはなかった。ユアンを傷つけるのが怖かった。いいや、きっと自分にはもう一生誰かを愛することはできないのだと思った。


「ええ、いいですよ」


 それなのにユアンはどこまでも優しく微笑んでくれる。


「永遠なんて、俺は信じません。あなたが愛してくれるまで、俺は待ちます。嫌っていうくらい、あなたのことを愛してあげます。あなたが泣いても止めませんので、どうか覚悟して下さい」


 馬鹿な男だ。こんな自分に絆されて、愛しているとまで告げた。

 フィーネは喉を震わせ、必死に涙を押し留めようとした。この男に出会ってから、自分は泣かされてばかりいる。ユアンが彼女を覆い隠すように抱きしめた。それに安心を覚えるようになったのは、いったいいつからだろう。


「大丈夫ですよ。誰も見ていませんから、思う存分泣いて下さい」

「っ、泣いてなんか、いません」

「おや、そうでしたね」


 とぼけたふりをするユアンの胸を叩いて、端正な顔を見上げた。琥珀色の瞳は、フィーネの存在を優しく照らしてくれる月のようだった。


「あ、あなたは、大馬鹿者だわ」


 フィーネは赤くなった目で、ユアンを精いっぱい睨んだ。


「だったらお似合いですね」


 ユアンは、フィーネの言葉に嬉しそうに答えるだけ。フィーネはまだ何か言ってやろうと頭を働かすが、にこにこと次の攻撃を待つ男に、とうとう根をあげた。


「……ユアン」

「はい」

「そばに、居てもいいですか」

「最初からそう言っています」


 額をコツンと合わせて囁くユアンに、フィーネはくしゃりと笑った。


 レティシアを演じていたフィーネはもういない。ニコラスを愛していたフィーネも、きっといつか消えてしまうだろう。


(さようなら、フィーネ)


 フィーネはそっと、別れを告げた。




 

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