最後の賭け
その後数日経って、フィーネはニコラスに体調がすぐれないので、しばらく実家に戻って療養したいという旨を申し出た。その内容と、初めてニコラスに願い出たこともあってか、彼はずいぶんと驚いた様子でフィーネの方を振り返った。
「フィーネ。そんなに体調が悪いのか?」
そばに駆け寄ってきた彼の手を握りしめ、フィーネは努めて冷静に話をする。
「心配なさらないでください。ほんの少し、疲れがでただけですわ」
「なら、何も家へ帰らなくてもいいじゃないか」
フィーネは困ったように言った。
「……あなたに迷惑をおかけしたくありません」
「迷惑だなんて、そんなこと気にしないでくれ。ここはきみの家なのだから」
フィーネはその言葉が、涙が出るほど嬉しかった。たとえニコラスがフィーネをここに留めておくために、とっさに出た言葉だとしてもフィーネはかまわなかった。
「ありがとうございます。私もこの屋敷を、自分の本当の家のように思っておりますわ」
「だったら――」
「でも、やはり離れたところできちんとこの体を治したいのです。そして万全の体調で、あなたのそばにいたいのです」
ニコラスはまだ納得いかない様子で繋いだフィーネの指をなぞった。彼女は辛抱強く彼に話し続ける。
「これはあなたのためでもあるんです」
「……」
「それに、久しぶりに父と母の顔が見たくなりましたの」
だからお願いしますと、フィーネはニコラスに頭を下げた。
しばらくして、顔を上げてくれと、少し不機嫌そうな声が沈黙を破った。言われた通りに顔を上げると、厳しい表情をしたニコラスが目に入る。
「わかった。きみが実家に帰ることを許す」
「ありがとうございます。ニコラス様」
ほっとした様子でお礼を述べるフィーネに、ニコラスはようやく強張った表情を崩し、苦笑いした。手を離して立ち上がると、背を向けたまま「少しがっかりしたよ」とあくまでも明るい調子で恨み言をぶつけてきた。
「きみが今度こそまともなお願いをしてくれると聞いて、楽しみにしていたら、まさかこれだとはね」
フィーネは何と答えるべきかわからず、目を伏せた。振り返ってこちらへ戻って来たニコラスはベッドに腰掛け、フィーネのこぼれた髪を耳にかける。
「いや、いいんだ。今まできみにはずっと無理をさせ過ぎていた。ゆっくりと家で休みたいと思うのは、当然だ」
ニコラスの声に、フィーネはごめんなさいと繰り返す。
「謝らないでくれ。きみが出ていくと聞いて、つい動揺してしまったんだ」
ニコラスがフィーネの頬に手を添えたので、彼女はそっと目を開けた。アメシストの瞳には、ほのかに赤い色が混じっている。それをフィーネは、まるで薔薇の花びらが舞っているようだと、いつも思う。
華やかで、美しい人。フィーネには、決して届かぬ、どこまでもきれいな人だ。
「フィーネ、一つだけ約束しておくれ。必ず帰ってくると」
「……ええ。約束しますわ」
こうしてニコラスは、フィーネが実家へ戻ることを許した。
数年ぶりにフィーネは実家へと帰ってきた。久しぶりに帰ってきた我が家は、他人の家のように立派に様変わりしており、自分の家へ帰ってきた気がまるでしなかった。
彼女の里帰りを、両親や兄弟姉妹、そして以前よりも大勢増えた使用人たちは、みな動揺したように受け入れ、何かとんだ粗相をしたのではないかとフィーネに問い詰めた。
フィーネは何もしていないと答え、逃げるようにそそくさと部屋へ引きこもった。一人用の寝台に横幅が狭い書き物机、小さな本棚。掃除があまりされていないのか、部屋の隅にはうっすらと埃がたまっていた。
(自分が育った家なのに、まるで懐かしさが湧いてこない……)
寂しかった。その感情を紛らわすように、彼女は黙々と自分の部屋を片付け始めた。部屋に置いてあったのは、ニコラスに勧められて読んだ本や、会って間もなくプレゼントされた装飾品や洋服の類。自分で選んだものも、前世でニコラスが好きだと言ってくれたものに近いもの。
フィーネを作ったのは、すべてニコラスだった。
フィーネはそれを、全て処分することにした。そうすれば部屋の中はがらんとしてしまった。何もない部屋。空っぽだ。虚しくて、フィーネは乾いた声で笑ってしまった。
実家に滞在している間、ニコラスからの手紙が定期的に送られてきて、フィーネは当たり障りのない返事を書いた。
最初は頻繁に訪れていた手紙も、やがてその数は途絶えていく。
「フィーネ、これはいったいどういうことなんだ!」
フィーネの父親が、顔を真っ赤にして怒鳴った。母親がその後ろでオロオロと狼狽えており、他の兄弟姉妹は、睨んだり、呆れたり、楽しそうに父と娘の成行きを見守っている。
噂好きの社交界では、ニコラス・ブライヤーズがフィーネ・ティレットと婚約破棄して、レティシア・フェレルと婚約したという話で持ちきりらしい。
それはつまり、今までニコラスの援助によって豊かな暮らしをしていたフィーネの家族は、また貧乏人に戻ってしまうかもしれないことを意味していた。
「お前が怪我などせねば、ニコラス様に気に入られたままだったというのに……!」
ぱしりと乾いた音がして、叩かれたのだとぼんやり思った。
前世でも確かこういうことがあったなと思い出す。唯一機嫌がよくなったのは、ニコラスがフィーネを引き取りたいと申し出た時。娘の身と引き換えに大量の金貨が得られた時。
あの時と、何も変わらない。
(この人たちにとって、わたしはどこまでも道具なんだわ……)
フィーネが怪我をして目を覚まさなかった時も、家族の内誰一人として見舞いに訪れなかった。手紙一枚さえも。きっと彼らは狼狽えていた。これまでの生活が終わってしまうことに怯え、そして役立たずの娘に怒りを抱いた。今のように。
物言わぬ娘に、父親もあきれ果てたのか、張り合いがないのか、好きにしろと吐き捨てて、入れ替わるように母親が泣いて縋りついてきた。
どうしてこんなことになったのだの、あなたのせいじゃないわ、お母様が悪いのよ、でもこれからどうやって我が家は生活していけばいいのと錯乱した様子だった。
フィーネは大丈夫よと母親を慰め、部屋に連れていく。
婚約が無かったことになるにせよ、ニコラスとはきちんと話さなければならない。フィーネはそう、自分に言い聞かせた。
「――こんにちは、フィーネ。久しぶりですね」
フィーネはその顔に、もはや驚きはしなかった。彼は自分のもとへ訪れるだろうという根拠のない予感があったからだ。そしてそれは見事的中した。
「よく私の実家がおわかりになられましたね、ユアン」
「調べたんです。ニコラスがなんだかんだはぐらかして教えてくれなかったので、あの手この手で。大変でした」
ユアンはフィーネのどうやってここがわかったのかという質問にも淡々と答えた。
「それは、どうも。ですが、すぐにお帰りになった方がよろしいですわ」
お茶を差し出しながらも、フィーネはそっけなくユアンに言った。
父親が彼のことを知れば、きっと良い顔をしないだろう。あらぬ誤解で、彼を巻き込んでしまうのは、フィーネの本意ではない。
「ああ、大丈夫ですよ。そういう悪意には慣れていますから」
けれど実にあっけらかんとした様子で、ユアンは気にしないよう言った。彼のその顔を、フィーネは思わずまじまじと見つめてしまう。
「なんですか?」
「いえ、以前から存じ上げていましたが、あなたはずいぶんと神経が他の方とは違うようですね」
「ありがとうございます。よく言われます」
「別に褒めていません」
むしろそういうところだと、気にせずお茶を飲むユアンに、フィーネは呆れ、とうとう笑ってしまった。乾いた笑いは、涙が出そうだった。
ユアンはそんなフィーネの様子に目を見開いて、しばらく驚いていたようだったが、やがて観察するように彼女の顔をしげしげと眺めた。
「いえ、ごめんなさい。あなたと話していたら、なんだか自分の悩みが馬鹿らしく思えてきて」
自分がまだ笑えることにフィーネは内心驚いていた。そもそもこうして声を出して笑うこと自体、初めての体験かもしれない。
「婚約者に振られ、捨てられるというのにおかしいですよね」
「あなたは……」
ユアンが何かを言おうとしていることに気づいたフィーネは、はい? と口元を手で抑えながら聞いた。
「そうやって笑っていらっしゃる方が、俺は好きです」
いつもの、人を揶揄う笑みでもなく、貼り付けたような笑みでもなく、慈しむような珍しい類の笑みだった。ユアンのそんな表情にフィーネはぴたりと笑うのをやめた。
「……そう、ですか」
フィーネはどう答えていいかわからず、曖昧に返事をした。ユアンははい、としっかりと頷き、お茶を口にする。
静かな雰囲気が、ただフィーネには気まずかった。
「どうしてあの屋敷を離れたんですか」
しばらくして、ユアンが再び口を開いた。
「そんなこと、あなたならよくご存知ではないのですか」
フィーネは皮肉めいた口調で返したが、ユアンは首を振った。
「あなたの口から直接お聞きしたいんです」
「……最後の賭けだったんです」
窓の外の、さわさわと風に揺れる木々を見つめながら、フィーネは答えた。
「私はこれまで、私の持ちうるすべてをニコラス様に捧げて、愛情を示してきたつもりです。彼の期待に応える努力も欠かさなかった。それでも、」
だめだったんです、と言った自分の声は消え入るように小さかった。
「もう、私があげられるものは、何もありません」
顔を上げて、フィーネはユアンに微笑んだ。寂し気な笑みだった。
「今の私にできる唯一のことは、ニコラス様とレティシア様の幸福を祈ることだけなんです」
カチャリとユアンはソーサーにカップを置いた。
「だから、手紙にも当たり障りのないことを書いたんですか。療養したいからと嘘をついてあの男から身を引いたんですか。あの男がレティシアに関心を持つよう仕組んだんですか」
ユアンの話ぶりだと、自分がまるでたいそうな策士家みたいでフィーネはおかしかった。
「私は何もしていませんよ。自然と、なるがままになっただけです」
そう、二人はあまりにも完璧で、誰の目から見ても美しかった。まるで以前からそうであったというように、フィーネの存在など最初からなかったように、ニコラスとレティシアはぴったりと寄り添い、自然であった。
世間もしばらくは彼らのことを噂するだろうが、すぐに二人の完璧さに、こちらこそが正しい姿だと納得するだろう。
「偽物の役割は終わって、彼は今度こそ本物と結ばれる。あなたが以前おっしゃった運命のお相手と」
運命の相手など、認めたくなかった。でも、もうフィーネにはどうすることもできない。
ユアンはこちらをじっと見つめ、何を考えているかわからない顔で、フィーネの全てを知ろうとする。
「ある日忽然と姿を消して、ニコラスに血眼になって探させようとは考えなかったんですか」
「そんな馬鹿なことしません。あなただって、以前そうおっしゃったではありませんか」
理解できないと眉を寄せるフィーネに、ユアンは憐れんだように笑った。
「たしかにあなたがおっしゃるとおり、馬鹿な行動かもしれません。でも、それは、その人間にとって最後の愛の告白なんです。ある日愛する人の前から突然姿を消すことで、その人にいつまでも自分という存在を忘れないでいて欲しいという、身勝手で、捨て身の、後先考えない、けれどどうしようもなく愛に満ちた、行動なんです」
俺は、とユアンはそこで一呼吸置いた。
「あなたなら、そうするとどこかで思っていました。そうする資格があると」
「……たとえ資格があっても、私にはできませんよ」
そうだ。自分にはできない。
きっとどこまでもニコラスの幸せを考えるから。
フィーネが行き先も伝えず姿を消してしまえば、ニコラスはきっと心配する。フィーネが無事かどうか確かめるために、必死に、それこそ血眼になって探すだろう。
それは、彼の手を煩わせることだった。フィーネには、そんな自分の行動を許すことはできなかった。
だからユアンのいう、黙って姿を消すという行動は、フィーネにとってただ不愉快な、理解できないものだった。
療養したいからという言い訳をニコラスに伝える時でさえ、フィーネは罪悪感で押しつぶされそうになったのだ。それでも結果的にニコラスのためになると判断したからこそ、彼女は苦渋の決断をした。
それまでじっとフィーネを見つめていたユアンが、目を伏せてぽつりと聞いた。
「俺を、憎んでいますか」
フィーネはいいえと冷めたお茶を見ながら答えた。
「いつか別れがくると、わかっていました。あなただって、そうだと思ったから、私に事実を述べたのでしょう? 早く目を覚ましなさいと」
だからちょうどいいきっかけだったのだ。フィーネは、今は心からそう思えた。
「だから、あなたを憎んではいませんよ、ユアン」
「……ニコラスとの別れには、俺もいましょうか」
「いいえ。これは私の問題です。私が彼に話します」
きっぱりとした物言いに、フィーネが考えを改めるつもりはないと伝わったのだろう。それ以上彼は何も言わなかった。
ただ帰り際、至極真面目な表情でユアンは振り返り、一つだけ訂正を申し出た。
「あなたは捨てられるんじゃない。捨てたんです。捨てられるのは、あの男の方です」