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終止符を打つ


 レティシアは以前にも増して屋敷を訪れるようになった。ニコラスもそれを拒みはしない。


「もうニコラスったら」


 自分とそっくりな顔で、しかし自分にはできない明るく機知に富んだレティシアの会話を聞きながら、私たちは全く違う人間だとフィーネは思った。


 ニコラスが自分では満足しなかった理由がよくわかる。フィーネでは、レティシアのように演じることができない。


(でも、それも当然よね……)


 ニコラスがそう教えなかったからだ。いや、教えることはできないと判断したからだろう。レティシアの明るさや、貴族である自分を誇りに持つ姿は、生まれ持ったものだった。ニコラスがそう振る舞えとフィーネに教えたところで、彼女には無理な話だった。


(――では私は一体なんのために……)


「フィーネ?」


 ぼんやりとしていたのを、具合が悪いと勘違いしたのか、レティシアが心配した様子でフィーネに声をかけた。


「フィーネ、どうしたんだ」


 ニコラスもまた体調が悪いのかと、腰を浮かせた様子でこちらを見ている。ユアンだけが、フィーネと視線を合わせようとせず、お茶を口にしていた。


「……ごめんなさい。少し、体調が良くないので、部屋に戻らせていただきます」

「大丈夫かい。私もついて行こうか?」


 立ち上がったニコラスに、いいえとフィーネは微笑んだ。


「一人で大丈夫です。どうぞそのままお話なさっていて……レティシア様も、ユアン様も。せっかく来てくださったのに、途中で抜けてしまってごめんなさい」


 申し訳なさそうに謝るフィーネに、レティシアがとんでもないと首を振った。


「私たちのことは気にしないで、ゆっくり休んでちょうだい」


 こんな時でもレティシアはフィーネを労わってくれる。


「本当にごめんなさい」


 やっぱり謝ることしか、フィーネにはできなかった。


***


 部屋にそのまま戻る気になれず、フィーネは庭園へと向かった。


 一人になりたかった。誰にも見つからない場所に身を隠したいと、フィーネは物陰へ入り、段差のある、二人ほど座れる所に腰を下ろした。


 いざ一人になると、先ほどのレティシアとニコラスの楽しそうに会話する姿が自然とまぶたに浮かぶ。


 ニコラスは、レティシアを愛している。そして彼女も彼を愛している。


 フィーネは自分の存在が二人にとって何なのか、今まで必死に考えないよう努めてきた。答えは決まっているからだ。苦しくなるからだ。


(あと、少しだけ。ほんの少しだけでいいの……)


 誰かに許しを請うように、フィーネは繰り返した。


「こんなところで、かくれんぼでもしていらっしゃるんですか」


 そっと顔を上げると、ユアンが薄っすらと笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。不思議と驚きはしなかった。なんとなく彼は自分を探しに来るような気がしていたのだ。


「お隣、よろしいですか?」


 返事をしないフィーネに、ユアンは黙って隣に腰を下ろした。顔を合わせることも、話すこともない。くっきりと別れた日陰と日向の境界線をフィーネはただじっと見つめていた。


「それで、どうするつもりですか?」


 ふいにユアンがそう言った。


「どうするとは?」


 フィーネは、はぐらかすように曖昧な返事をした。それでも、ユアンは容赦なくフィーネを追いつめようとする。


「これからあなたがとる行動のことですよ。愛する婚約者殿の前からこっそりと消えて、彼に死に物狂いで探させでもするんですか?」


 ユアンはあくまでも楽しそうに尋ねる。

 久しぶりで忘れていたが、この男は本来丁寧な物言いで、自分の心を的確に傷つける人間だ。


「そんなことしません」


 フィーネはそれだけ答えた。ユアンは器用に片眉を上げた。


「おや、それは残念です。ようやくあなたがあの男から目を覚ましたかと思いましたのに」


 フィーネは今とても醜い感情が腹の中をのたうち回っている気分だった。フィーネという存在ではない別の生き物が、何もかも壊してしまいそうな凶暴さで、今にもフィーネの体を乗っ取ろうとしていた。


「……私は、ニコラス様から離れません」


 自分でもぞっとするほど冷ややかな声だった。


 ユアンはフィーネの言葉に、すっと無表情になる。怖い、とは思わなかった。

 なんとなくこちらの方が、彼の本当の顔のように思えたのだ。今までの笑顔は、全て自分を怖がらせないための嘘の表情だと。


「ニコラスはレティシアのことが好きなのに?」

「ええ」


 薄暗い日陰側に座り込む自分は、まるで重大な罪を犯した犯罪人のようだ。日の当たる部分に座るユアンは、罪人を裁く裁判官。


「あなたは、ニコラスのために、自分の全てを捧げた。故郷も家族も捨てて、貴族という煩わしい世界にさえ足を踏み入れた。レティシアという本物が見つかってもなお、あなたは諦めようとせず、ますます献身的になって、ニコラスを愛した。そしてとうとう、命まで差し出した」


 ユアンは事実を一つ一つ確認するように、淡々と話し続ける。本物、というのは以前彼が話してくれた、ニコラスの運命の相手という意味だろう。前世の記憶があるフィーネには、別の意味にも聞こえた。


「それでも、あなたはニコラスの心をとらえることはできない。もう、与えられるものなんて、何一つないことを、あなたは誰よりもよくご存知なのではありませんか」


 ふるりと、フィーネの体が震えた。負けるなと、自分を叱咤して、フィーネは男に己の気持ちを叫んだ。


「……それでも、それでも、そばにいたいんです。離れたくないんです。ニコラス様のことが好きなんです」


 ユアンが、ふいにふっと微笑んだ。憐れみとも違う、本当にちょっと面白いことを見つけたような、そんな表情。


「何が、可笑しいんですか」

「どうして俺がレティシアの婚約者になったと思いますか」

「え?」


 質問に質問で返され、さらに思わぬ言葉に、フィーネは困惑する。ユアンはそうでしょうと歌うように言った。


「おかしいとは思いませんか。彼女ほどの人柄と容姿なら、俺なんかよりもっとましな婚約者を選べたはずでしょう」


 何より、と彼は目を細める。


「いくらレティシアがニコラスを好きだからといって、あまりにもあからさまではありませんか? 好意を示し過ぎだとは思いませんか? 俺自身の態度もです。この国に訪れた俺は、レティシアと一緒にいる時間より、あなたと過ごした時間の方が多いと思いますよ。それをあなたは、これまで少しも疑問に思わなかったのですか?」


「それは……」


 だがすぐにフィーネは首を振った。彼の言葉に屈してはだめだ。


「レティシア様の、ご両親か親族の方がお決めになったのではないのですか」


 自分の親や親戚に勧められた、と考えれば特におかしいことではない。だがユアンは笑って否定した。


「いいえ。むしろ彼女の両親は俺と婚約することに反対でした。もっとましな人間にしろと、俺の目の前ではっきりとそう忠告されました。ちなみに俺の親戚も、ですね」


「……あなたの人間性に興味はなくても、家柄には惹かれるものがあったのではないでしょうか」


「亡くなった親の財産が吐いて腐るほどありますが、彼女の家ほどではありません。爵位も、たいしたものではありませんね。そもそも、レティシアはそんなものにこだわる人ではありません」


「……では、どうして?」


 くるりとユアンがフィーネの方に体を向けた。答え合わせの時間だと、唇を吊り上げて。


「レティシアに頼まれたからですよ。自分の理想の恋人に会うために、婚約者の振りをしてくれと」


 なんてことのないように、すらすらとユアンは秘密を教えてくれた。


「彼女の容姿はそれなりにいいですからね。おまけに家柄もそこそこ良くて、金もあった。蛾や蟻が次々と彼女に群がって跡を絶ちませんでした。それでまあ、彼女も煩わしくなったんでしょう。俺に直接交渉を持ちかけたんです。ちょうどよかったんでしょうね。本気にならない、途中で捨てても後腐れのない、気楽な関係。あと彼女の隣に立っても、見劣りしない容姿。ね、とてもよい条件でしょう」


「……あなたはどうしてそれを引き受けたんですか」


 断れば、よかったのに。


「俺も彼女と同じ口だったからですよ。結婚なんて煩わしいこと、絶対にしたくない。けれど親戚は早くしろと口を揃えて文句を言ってくる。いい加減うんざりしていたところに、レティシアが話しかけてきたというわけです」


 レティシアも、ユアンも、おかしい。それともそう思うのは、自分だけだろうか。貴族の人間は、みな庶民とは違う考え方を持っているのだろうか。


「では、あなたが私に近づいたのも、レティシア様のためですか?」


 どうか否定してくれとフィーネは思ったが、実にあっさりとユアンは頷いた。


「おや、よく気がつきましたね。ええ、その通りです。レティシアに頼まれたんです。ニコラスと一緒になりたいから、あなたの気をひいてくれと。彼女もようやく自分のお眼鏡に適う人間を見つけたから、必死だったんでしょうね。あなたには多少の罪悪感を持ち合わせながらも、何度も俺に、あなたとニコラスを引き離してくれと頼まれました」


 フィーネはそう、と思った。どこかずっと疑問に思っていたことが、すべて腑に落ちた気がした。フィーネの淡白な反応も、ユアンは全て予想通りだと言わんばかりに話し続ける。


「あなたとニコラスは傍からみたら、とても仲の良い婚約者で、なかなか隙がつかめなかった。レティシアも何度も俺に八つ当たりしてきましたよ。でも、しだいにニコラスの方から自然とレティシアに声をかけるようになって、あなたも彼の邪魔になりたくないと距離を置いてくれたおかげで、上手くいきました」


 もうこれ以上聞く必要はないと、フィーネは立ち上がった。


「おや、もう行くんですか」

「ええ。もう、十分です」


 背を向けるフィーネに、ユアンはそうそうと言い忘れていたことを思い出したように付け加えた。


「ニコラスも、気づいていましたよ」


 フィーネは足を止めた。ちょうど、日向と日陰の境界線。心臓が痛いほど鳴り響いていて、胸の前でぎゅっと手を握りしめた。


 ユアンはフィーネが聞こえなかったと思ったのか、もう一度繰り返した。


「俺が、わざとあなたに近づいたことです。レティシアが打ち明けたそうですよ」


 フィーネは震えそうな唇をとっさに噛みしめた。血が出てもかまわないくらい強く。


「最初は少し驚いていたようですが、特に咎めることはありませんでした。あなたのことをよほど信用なさっているんでしょうね。退屈しのぎに楽しませてやって欲しいとじきじきにお願いまでされてしまいました」


「嘘です」


 だって彼はユアンと二人きりで話した自分に嫉妬した。だから教会へ行くことも許さなかったのだ。フィーネには認めることはできなかった。信じたくなかった。


 けれどユアンのくすりと笑う声が、フィーネを守っていた最後の砦を壊そうとする。


「そうですね。俺の存在は確かにニコラスにとってあなたの存在を繋ぎ止めておく鎖になったのかもしれない。でも、それもいつまで続くでしょう。レティシアをこの屋敷へ招き、共に生活するようになった彼は、まだあなたという存在を必要とするでしょうか」


 ユアンがゆっくりとこちらへ近寄ってくる気配がしても、フィーネは一歩も動こうとしない。動くことが、できなかった。

 彼の声が、遠くから聞こえてくる。


「あなただって、もう気づいているはずでしょう。ニコラスの心がレティシアの方へ傾きかけていることに」


 自分のすぐ目の前まできたユアンを、フィーネはぼんやりと見つめる。琥珀色の瞳が、今はぼやけて滲んで見えた。


「あなたは、可哀想な人だ」


 ゆっくりと吐き出されたユアンの言葉が、フィーネの耳に響く。

 彼が手を伸ばし、流れる涙を細く綺麗な指で拭った。可哀想だと言いながら、彼の顔はちっともそうは見えなかった。


「あの時も、あなたは泣いていらした」


 あの時とはいつだろうか。ユアンと初めて会ったあの夜のことだろうか。


「報われない想いだと気づいていた。けれどあなたは、愛すると、誓いましたね」


 そう、誓った。ニコラスに捨てられるまで、彼のそばにいようと。彼を愛そうと。


「今も、そう思っていらっしゃいますか」


 フィーネは頷こうとした。そうだと、言おうとした。


「わたしは……」


 ――ニコラス様……。


 今ここにニコラスがいてくれたら。フィーネの姿を見たら。フィーネ、と名を呼んでくれたら。……そうしたら、もう少しだけ、自分の心を欺き続けようと努力したかもしれない。


 でも彼はいない。自分ではない最愛の人と一緒にいる。


 疲れた、とフィーネは思った。あんなにも頑なに守ろうとした想いが、今は脆く消え去ろうとしている。それを引き止める気力は、もう今の自分にはない。


 ユアンは黙り込んでしまったフィーネをじっと見つめていたが、やがて見惚れるような微笑をその唇に浮かべた。


「もう、終わりにしてもいいのではありませんか」


 フィーネにできることは、もはやゆっくりと首を縦に振ることだけだった。


***


 ふと誰かに触れられる気配を感じて、フィーネは目を覚ました。


「ニコラスさま……」

「すまない。起こしてしまったな」


 離れようとしたニコラスに、フィーネは待ってと小さく呼び止めた。


「ニコラスさま」


 身を起こして、フィーネは自身の白くまろやかな肌をニコラスの首元に絡めた。普段はつつましく、決して自分から触れようとしないフィーネの積極的な行動に、ニコラスは驚いたようだったが、すぐに彼女の華奢な体を抱きしめかえした。


「どうしたんだ?」


 優しく、心配する声だった。


「フィーネ?」

「……ニコラス様、お願いです。私のそばにいてくれませんか……」

「どうしたんだ急に?」


 いつになく甘えてくるフィーネに、ニコラスは少し困っているようだった。


「お願い。眠りにつくまででいいんです……」


 そうしたらレティシアのもとへ行っていいから。だから今だけは――


「……ああ、いいとも」


 抱擁を解くと、ニコラスは艶やかなフィーネの亜麻色の髪を優しく撫でてくれた。沈黙が心地よく、二人はお互いの目を見つめ合っていた。


「ニコラス様」

「なんだい、フィーネ」

「……いいえ、何でもありません」


 ふっと言いたい言葉が溢れたが、全て消えてしまった。

 カタカタと窓の揺れる音に耳を傾け、フィーネはこの幸福をかみしめようと思った。


 ニコラスはかまわずフィーネの青みがかった緑の瞳を眺めていた。フィーネもまた、それに応えるように愛する人をひたと見つめる。


「ニコラス様の瞳はとても綺麗ですね」

「そうか? 普通だと思うんだが……」


 そんなことはない。フィーネにとって、ニコラスは何もかも特別な存在として映った。


「神秘的で、紫の中に見え隠れする赤色が、薔薇の花びらが舞っているように見えます」


 フィーネの言葉に、ニコラスは目を瞠り、やがて可愛らしい子どもを見るかのような優しい眼差しで彼女を見つめ返した。


「フィーネは詩人だな」

「だとしたら、ニコラス様のおかげです。私に知識と教養を授けて下さったのは、あなた様ですから」

「私は授けただけだ。身につけたのは、フィーネの努力と才能があったからさ」


 それでもフィーネはやはりニコラスのおかげだと思った。愛しい人の言葉は、すべて宝石のように大切で、水のようにフィーネの体になじんでいった。


「ニコラス様、愛しています」


 ニコラスは少し照れたように頬をかいた。


「本当に今日はどうしたんだ。いつにも増して情熱的じゃないか」


 だが悪くないと、彼はフィーネに口づけする。彼女も目に涙をためながら、それにこたえた。


「私もきみを愛しているよ。フィーネ……」

「……愛しています。ニコラス様」


 いつまでも――



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