表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/24

悪夢と現実


 新しく窓際に生けられた花を見ると、フィーネは自然と顔をほころばせた。


「ニコラス様。お花、ありがとうございます」


 目を覚ました時に、部屋に生けてあった花を思い出す。あれもニコラスが自分のために飾ってくれたのだろう。見るたびに嬉しさが増す。そう思ってフィーネがお礼を言うと、ニコラスはなぜか渋い顔をした。


「……それはユアンが生けていたんだ」


 フィーネはそれを聞いて驚く。てっきりニコラスが用意してくれたものばかりだと思っていた。


 ユアンが、とフィーネはもう一度その花に目をやった。花は毎日一本ずつ、途切れることなく生けてあった。ユアンが毎日かかさず見舞いに来てくれた証拠だった。


 さらにフィーネの身の回りの世話をしてくれた女性が、こっそりと後で教えてくれた。


「マクシェイン様は毎日お見舞いに来られて、眠っていらっしゃるフィーネ様に話しかけておられました」


 フィーネは眠りから覚める直前、彼の声を聞いたような気がしていた。あれは、現実世界でユアンが夢の中のフィーネに呼びかけていたのだ。


(私のことを聞いてわざわざ急いで帰国してくれたとも言っていた……)


 フィーネはユアンにお礼を言いたかった。だが彼はフィーネが目を覚まして以来、一度も屋敷へ訪れていない。欠かさず贈られ続けてきた花も、ぴたりと止まってしまった。


(どうしたのかしら、ユアン……)


 フィーネは暗くなっていく空を窓から眺め、あの少し意地悪な青年に思いを馳せた。きっと会えば、ほら見たことかと皮肉な口調で笑われるだろう。でもそれでもよかった。何でもいいからもう一度彼の声が聴きたかった。


「フィーネ。何を考えているんだい」


 だがそれもニコラスの声で中断させられる。フィーネは何でもないと首を振り、ニコラスへ微笑みかけた。と同時に身体をきつく抱きしめられる。


「きみが無事で、本当によかった」

「ニコラス様……」


 肩に顔を埋められ、フィーネは少し戸惑うものの、すぐにその大きな背中に腕を回した。


「私も、あなたにもう一度会えてよかった……」


 嘘じゃない。本当にそう思っていると、フィーネは繰り返す。


「もう一度だなんて……私たちはこれからもずっと一緒だと言ったただろう?」


 顔を上げたニコラスがやや強張った顔でそう確認する。


「……ええ。そうでしたわね」

「そうだよ。だから、安心しなさい……」


 ニコラスが額や頬、首筋に口づけを落としてゆく。フィーネはふいに泣きそうになって、縋るように彼の掌を撫でた。そうすると彼の指と絡められ、離れないようきつく握りしめられる。


「フィーネ……」


 しだいに息が乱れて喘ぐフィーネに、ニコラスが酸素を繰り返し与えてくる。けれどもっと苦しくなって、フィーネはニコラスにされるがままだ。生きるのも、死ぬのも、すべてニコラスの意のままに。


 でもそれでいい。それが幸せだ。


 ユアンのことなどもう考えることはできなくて、愛しています、とフィーネは心の中で何度もニコラスへ愛を囁いた。


***


 ようやく動いても痛みを感じなくなり、医者からもう大丈夫だと言われても、ニコラスはフィーネのことが心配でならないようだった。


 仕事の最中にも頻繁に様子を確かめにきて、顔色が少しでも悪いと、すぐに横になるようにフィーネの仕事を取り上げた。それに罪悪感を覚えながらも、フィーネは幸せだった。久しく感じていなかった平穏が訪れた気がした。


 でもこんな幸せがそう長く続かないのは、もう知っている。


「フィーネ、本当にごめんなさい。私、あなたになんてお詫びすればいいか」


 具合のよくなったフィーネのもとへ、しばらく訪問が途絶えていたレティシアがまた屋敷へと訪れた。彼女はフィーネの姿を見るなり、謝罪の言葉を口にした。


 こちらが気の毒になるほど青ざめ、全身が震えていることに、その場にいる誰もが気づいていた。だからフィーネは顔を上げて下さいと優しい声で話しかける。


「レティシア様、あなたが気に病む必要はどこにもありませんよ」


 フィーネは自分と瓜二つの顔に優しく微笑みながら、レティシアの目尻にたまった涙を拭ってやった。並んでいる二人はまるで双子の姉妹のように見える。


「……あなたは私を許して下さるの?」


 フィーネを突き落としたライノット伯爵は、もともとレティシアに恨みを持っていた。

 決して意図的ではないものの、レティシアの言動が伯爵を煽り、今回のような事件を引き起こすことになった。いわば彼女がこの事件を引き起こした原因とも言える。


 だがフィーネにはどうでもよかった。


 ニコラスさえ無事であれば、フィーネには誰が、どんな人間を憎んでようが、気に留める必要のない、些細な出来事として置き換えられる。


 ライノット伯爵が貴族社会を追放され、極刑を言い渡されようが、そんなことはどうでもよかったのだ。


「許すも何も、私はあなたを恨んではいませんわ」


 だからこの言葉も、フィーネの嘘偽りない本心だった。それでもレティシアは大きな目をさらに大きくして、唇を震わせた。


「……ありがとう。フィーネ」


 レティシアはフィーネを抱きしめ、フィーネも彼女を抱きしめかえした。

 ニコラスがそんな二人を美しい友情だとばかりに褒め称え、フィーネは黙って微笑んだ。


「ニコラス、この花、部屋に飾ってもいい?」

「ああ、いいとも」


 何気ない会話が、こんなにも気に障るのだとフィーネは冷静に自分の心情を分析しながら平静を装った。


 レティシアは頻繁に見舞いに訪れる。見舞いと称して、ニコラスに会いにくる。彼も、それを喜ぶ。


 フィーネは、見舞いの花束やら果物をニコラスに渡すレティシアにあいさつした。


「レティシア様。今日もわざわざ足を運んで頂き、ありがとうございます」

「あら、いいのよ、そんなこと」


 レティシアは、ねえユアンと一緒に訪れていた婚約者に笑いかけた。フィーネも自然とそちらの方を向いた。怪我から目を覚まして、二度目の再会だった。


「あなたにも、迷惑をかけましたね」


 フィーネが怪我をしたと知らされ、彼はすぐに船に飛び乗った、という話をレティシアから聞かされ、フィーネは本当に申し訳なく思っていた。


 すぐにでも謝罪したかったが、フィーネが目を覚まして以来、なかなかユアンがこの屋敷へ訪れることはなく、ようやく今日レティシアと一緒に訪れたのだった。


 ユアンはフィーネの顔を困ったように見つめ、呆れたように肩を竦めた。


「まったくですよ。ブライヤーズ氏をライノット伯爵から守るために後ろから体当たりしてそのまま階段から転げ落ちるなんて、まるでどこぞの物語に出てくる勇者のようですね」


 明るい声だった。

 ああ、やはりいつものユアンだとフィーネはなんだかほっとした。目が覚めた時、心底安心したように微笑んだ彼の姿を見て、なんだか気まずい思いがしていたのだ。


「ごめんなさい。気づいたら身体が飛び出していたんです」

「……本当に、馬鹿です」


 先ほどよりも、しんみりとした言い方に、今度は少し戸惑う。


 琥珀色の瞳で自分を見つめてくるユアンは、とても苦しそうで、彼の方が傷ついているようにフィーネには見えた。


 あの時と同じだ。気にするな、と言ってあげたいのに、言葉が出ず、ただお互いに見つめ合うことしかできない。


「また、あなたはそんなことをおっしゃる」

「事実ですからね」

「ひどいわ」


 本当は、こんなことが話したいのではない。他に聞きたいことが、言いたいことが、フィーネにはたくさんあった。


 毎日見舞いに来てくれたこと、きれいな花を活けてくれたこと、眠り続ける自分に話しかけてくれたこと。


 ありがとうと、たくさんお礼を言いたかった。そしてどうして自分なんかのためにそこまでしてくれるのか、フィーネはユアンにずっと尋ねたかった。


(あなたは眠っている私に、何を話していたの?)


 けれど二人がそのことについて話すことはしなかった。フィーネもユアンも、もどかしい様子でお互いをただ見つめるだけ。


 だからニコラスがそんな二人を見ていることに、フィーネは少しも気づかなかった。


「それであの、親戚の方は大丈夫だったんですか」


 会話が途切れてしまったことに焦り、必死で続きを探す。


「……ええ、大丈夫でした」

「そう、ですか」


 上手く言葉が出てこず、またもや口をつぐんでしまった。いつもはユアンがあれこれ続きを話してくれるのだが……今日に限っては彼も何を話すべきか迷っているようだった。


「ほら、暗い話はここまでにしましょう」


 気まずい沈黙に終わりを告げたのはレティシアだった。


「そうだな。せっかくレティシアもユアンも揃ったんだ。楽しまないと損だ」

「いいこと言うわ、ニコラス」


 彼女は明るく笑い、さっそくこの屋敷の素晴らしさや最近流行の小説について、フィーネが退屈しないように、会話を盛り上げてくれた。


 けれどフィーネは、ニコラスが楽しそうに、そしてとても優しい目でレティシアを見ていることに途中で何度も気づき、あまり会話に集中できなかった。ユアンもまた、話を振られたら答えるが、自分から積極的に会話に入っていくことはしなかった。フィーネはなぜかそんな彼の態度に救われた、と思った。


 過ぎてゆく時間は、二人にとってはあっという間だったのだろう。そろそろお暇しましょうか、というユアンの言葉にも、ニコラスは名残惜しそう引き留めた。


「もう遅いんだし、今日は泊まっていったらどうだ?」

「いいの?」


 レティシアがフィーネの方を見て言った。


「はい。夕食もどうかご一緒に」

「……じゃあ、お言葉に甘えて」


 レティシアはフィーネに遠慮しつつも、嬉しさの隠せない様子で微笑んだ。


 夕食も、ニコラスとレティシアの笑い声で賑やかだった。

 料理人が腕によりをかけた豪華な食事だったが、フィーネはなかなか食が進まない。


「大丈夫ですか」

「え」


 隣に座っていたユアンがこっそり声をかけてきた。気づかわしげな声に、彼女は自然と笑みを浮かべた。


「今日のあなたは本当に、お優しいのですね」

「俺はいつでもあなたに優しく接してきたつもりですが」


 そうだったかしら、と彼女は肉を切り分けようとして――磨き上げられたナイフに思わず手を止めた。忘れていたはずのライノット伯爵のことを思い出してしまったのは、ニコラスとレティシアがいるからだろうか。


「フィーネ」


 ユアンが椅子を引き、フィーネの方に身体を向けた。手袋をした彼の手が、フィーネの腕にそっと触れる。顔を上げれば、琥珀色の瞳がすぐそばで自分を見つめていた。


「――何をしている」


 鋭い声に、二人はぱっとそちらを振り向いた。先ほどまで隣のレティシアと楽しげに談笑していたニコラスが、今は強張った表情でこちらを見ていた。


「フィーネの具合がまだ悪いようなので、心配していたんです」


 言葉に詰まったフィーネに代わり、ユアンが淡々と答えた。ニコラスの視線が、ユアンから自分へと向けられる。とっさにフィーネはごめんなさいと謝罪した。それにいっそう視線が強く注がれたが、ニコラスは何も言わず、何かを堪えるように息を吐いた。


「フィーネ。今日はもう休みなさい」

「でも……」

「いいから」

「俺が送っていきましょうか」


 ユアンが立ち上がったが、ニコラスが「その必要はない」と素早く止めさせた。


「けれど心配なので」

「きみは大切な客人だ。そんなことさせられない」


 別の人間を付き添わせる、とニコラスはユアンの申し出を断った。婚約者である自分が、と彼自らが立ち上がることはしなかった。


「あの、ニコラス様。それにレティシア様もユアン様も……せっかく楽しんでいらっしゃった所を中断させてすみません」

「いいのよ、フィーネ。無理言って滞在しているのはこちらなのだから。私たちのことは気にせず、ゆっくり休んでちょうだい」

「レティシアの言う通りだ。早く休んで、また元気な顔を見せてくれ」

「……はい」


 フィーネは食堂を出る前に、ちらりとユアンの方を見た。彼はフィーネをじっと見ていた。


 まるでこれでいいんですか? と問われている気がした。


***


 大人しくベッドに入り、目を瞑ろうとしても、眠気は訪れてはくれない。一人になると、思い出すのは二人のことばかり。


(ニコラス様、本当に楽しそうだったわ)


 彼がフィーネに注意を向けたのは、先ほどユアンと話していた時だけ。あとはずっとレティシアへ微笑んでいた。二人の仲睦まじい姿を見るのが辛い。レティシアは明日帰ってくれるだろうか。客人に対して、ましてレティシアに対してそんな失礼なこと思ってはいけない。


(でもどうしてお見舞いになんか来たの? 私に謝罪するためと言っておきながら、本当は彼と会いたかっただけではないの?)


 だめだ、だめだと思うほど、醜い感情があふれ出す。レティシアに酷い言葉をたくさんぶつけたくなる。自分の弱さが嫌になる。ぐるぐると思考の海に投げ出され、フィーネは具合が本当に悪くなってきた気がした。


(もう、何も考えちゃだめ……)


 思考することを懸命に放棄し、何度も寝返りをうちながら、彼女は早く忘れようと思った。眠ってしまえば、明日になれば、きっと何とかなる――そんな根拠もない希望を抱きながら、起きているのか、眠ったのか、よくわからぬまま、浅い眠りを何度も繰り返してゆく。


 そうして――フィーネはニコラスと一緒に庭園を散歩する光景を見た。


 暖かな昼下がりの日差し。青い空に広がる緑の景色。そして自分に優しく微笑みかけるニコラスは、いつかあった光景と全く同じで、これが夢なのかフィーネには判断がつかなかった。


(夢でも現実でも、どちらでもいいわ)


 ニコラスが隣にいる。それだけで、フィーネはもう他に何もいらない。


 見事な赤い薔薇が目に入り、フィーネはそれを愛する人にもっとよく見せようと彼の手を無邪気に引っ張った。


 だがその手は突然するりと引っ込められ、フィーネがどうしたのかと思う間もなく、ニコラスが走りだした。


 どこへ行くのかとフィーネが慌てて追いかけようとすると、まるで行く手を阻むように薔薇の枝が伸びてきて彼女の身体に絡みつく。

 鋭い棘が容赦なく手に刺さり、うっすらと赤い血がフィーネの白い肌を彩った。


 夢なのに痛い、と彼女は思った。


 そうしているうちにニコラスの姿はますます遠ざかっていく。フィーネは棘が刺さるのもかまわず前へ進んだ。むせ返るような甘い香りに頭がくらくらする。


 気づいたら自身の身体をすっぽりと覆うほどの大きな赤い薔薇が目の前にあり、フィーネは悲鳴をあげる間もなく飲み込まれてしまった。


 はっとしたら燦々と輝く太陽の下にフィーネは突っ立っていた。場所は先ほどと同じ庭園のようだった。


(さっきのは、夢? これはその続き?)


 いや、少し違うかもしれない。咲いている花の種類が微妙に違う。だが目の前には、ニコラスがいた。ああ、よかったと思ったのもつかの間、フィーネは息を呑む。


 彼の隣を歩くのは自分ではなくレティシアだった。


 二人は仲良く手を繋ぎ、レティシアはつばの広い帽子をかぶっていた。ニコラスがレティシアの耳元で何かを囁き、彼女はくすくすと笑みをこぼす。現実とそっくりだった。ニコラスもレティシアも、フィーネの存在などまるで眼中にない。


(――やめて)


 幸せそうな二人の姿に、フィーネはその場を一歩も動けない。ニコラスが微笑むたび、心が軋んで、砕けそうになる。


(――そんな顔しないで。私以外に見せないで)


 心の悲鳴は届かず、やがて二人はお互いを見つめ合ったまま、薔薇の花が咲き誇る道を歩いていく。


 我に返ったフィーネはそんな二人の後ろ姿を必死で追いかけ、手を伸ばそうとするけれど、距離はちっとも縮まらず、ますます広がるばかりだった。


『ニコラス様!』


 耐え切れずフィーネは叫んだ。大声で愛しい人の名を呼んだ。


『ニコラス様! 置いてかないで! フィーネはここにおります!』


 フィーネの声はニコラスに聞こえていないようで、ただレティシアだけを慈しむような眼差しで見つめていた。


 フィーネはわっと泣きだしたい思いでいっぱいになりながら、何度も何度もニコラスを呼び続けた。行かないで。何でもするから。いい子でいるから。もっともっとその子になれるよう努力するから。だから私を捨てないで。私を――


「フィーネ」


 蹲っていたフィーネは、その声にぱっと顔を上げる。ああ、戻って来てくれた。彼は私を捨てない。涙があふれ、名を呼ぼうとして、ひゅっと息を呑む。ぞっとするほど冷たい眼差しでニコラスは自分を見下ろしていた。


「ニコラスさま……」

「お前には無理だ」


 おまえには、むりだ。


「お前はレティシアの代わりにはなれない」

「お前はただのみすぼらしい少女だった」


 ニコラスがレティシアの肩を抱き寄せる。


「お前なんか引き取らなければよかった」


 おまえは――


「あなたは本物レティシアじゃない。偽物よ」


 はっとフィーネは目を覚ました。全身汗だくで、今まで息が止まっていたかのように胸が苦しかった。目に見える景色はただただ真っ暗で、一瞬まだ自分は夢の中にいるのだろうかと思った。


(ニコラス様……)


 頬に手を当てると触れていて、それが涙なのだと気づく。先ほどの光景はすべて夢で、ここは現実。フィーネは全身の力を抜いた。安心すれば、ひどく喉が渇いたと思い身体を引きずるようにして起き上がった。


(今何時かしら……)


 上着を羽織り、のろのろと寝室の扉を開ければ、物音一つせず、使用人の気配もなかった。真夜中、を過ぎた時刻だろうか。暗闇の廊下を壁伝いに進みながら、フィーネは一階へ下りていく。


 妙な既視感があった。前世の、病に伏したニコラスがフィーネではなくレティシアの名を呟いた日。真相を確かめようと屋根裏部屋へ向かったこと。あの時あんな場所へ行かなければ、知らない振りをし続けていれば、なにか、変わっていただろうか。


(今世でも、私は彼と出会えたのだろうか……)


 ずっと不思議だった。どうしてレティシアという最愛がいるのに、また自分はニコラスと再会したのか。心のどこかで今度こそ、と願っていたのだろうか。それとも――


 灯が漏れて、誰かの話し声が聞こえてきた。どきりとした。気配を殺しながら、客間の方へとフィーネは足音を立てないよう向かう。


 そっと扉の隙間から見えたのは、ニコラスとレティシアだった。テーブルにはお酒とグラスが置いてあり、ソファに身体を預けた二人は熱心に何かを話し合っていた。


 今日の夕食の感想や、最近の貴族の振る舞い、海を渡った国のこと。フィーネはじっと耳をひそませながら、なぜかほっと息を吐いた。そしてすぐに自分の行いがはしたないと、部屋へ戻ろうとする。


「……それにしても、フィーネが本当に無事でよかったわ」


 自分の名前が出たことで、フィーネの心臓は再び激しく鼓動し始める。


「ああ。本当に」


 ニコラスの深く安堵したような言葉。嘘や冗談を言っている感じはなかった。


 ――お前はレティシアの代わりにはなれない

 ――お前はただのみすぼらしい少女だった

 ――お前なんか引き取らなければよかった


(そうだ。ニコラスさまがあんな酷いこと言うはずがない……)


きっと眠りに落ちる直前まで二人のことを考えて、不安に駆られていたから、あんな悪夢を見てしまったのだ。


それでもフィーネは自分が今断崖絶壁に立たされているような心地がした。


「でもね、私、思ってしまうの」


 フィーネは早く終わってくれと願った。聞きたくないと、耳を塞いでしまいたかった。


「あの時……フィーネが階段から転落して意識を失った時、もし……もしもあのままフィーネが目を覚まさなかったら、私とあなたは一緒になれたんじゃないかって――」


 レティシア、とニコラスが遮った。


「そんなこと言うもんじゃない」

「でも」

「彼女が亡くなっていたら、きっと今こうしてきみと話すことはできなかった。誰かの犠牲の上に成り立つ幸福なんて、辛いだけだ」

「……そうね。ごめんなさい」


 鋭く咎めたニコラスに、すぐにレティシアも謝った。そうして二人は、また当たり障りのない会話を再開する。


 フィーネはそっと足音を消して、部屋へと引き返した。喉の渇きは、もう消えていた。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ