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「社会を捉えなおす」
②
そもそも資本主義経済とは剰余価値を生むための仕組みです。マ
ルクスによると、剰余価値は生産過程で労働者の剰余労働から生ま
れるが、労働者にはその対価が支払われず資本に留保される。そし
て剰余価値は再び生産過程に投資され、この運動を何度も繰り返し
て資本は増殖する。人間以外の自然と共生して生きるほとんどの生
物は、本能的なナワバリ意識はあっても剰余価値を求めたりはしな
い。ただ彼らにとって命を繋ぐために子孫を生むことこそが唯一の
価値の創造である。私の勝手な想像だが、それは彼らが死を情報と
して本能的に知っているからではないだろうか?そもそも死とは生
の最終態であって、死の対極にあるのは過程である生ではなく始ま
り、即ち誕生ではないか。だとすれば「なぜ死ぬのか?」を知るに
は、「なぜ生まれるのか?」を知らなければならない。では、生命
体はどうして新たな命を生むことができるのだろう。旧約聖書の「
創世記」には「初めに、神は天地を創造された」から始まるように
、原始地球に於いてもまず生命体の生存環境が整ってから様々な生
命体が生まれた。つまり、生命体は地球環境によってもたらされた
。まさに母なる地球である。しかし、生まれ出でては呆気なく絶え
た数多の生命体が存在したに違いない。やがて突然変異によって生
存適性を得た生命体だけが厳しい自然淘汰を克服して種を繋いで生
き延び、そして子孫を増やした。もしも、生命体が子孫を増殖させ
ることが剰余価値を生むことだとしたら、天地創造の始まりより、
人間だけにあらず、すべての生きとし生けるものは死滅を乗り越
えて地球資本主義の下で生存競争を闘ってきたのだ。つまり、資
本主義社会は何も近代になってから生まれたわけではない。
生命の誕生という「現象」は、太陽の惑星である地球の特異な条
件、太陽から一定の距離を保って公転しながら地軸を傾けて自転し
ている、によってもたらされた。それらの条件は地球環境に様々な
変化をもたらした。寒暖の差、昼夜の別、季節の巡りなどの環境の
変化が積み重なって、やがて生命体という自ら変化するものを生成
した。『生命を捉えなおす』(中公新書503)の著者、清水博氏は
「生命体とは(生物的)秩序を自己形成する能力である」と言ってい
る。しかし、そもそも「能力」とは生命体にしか預けられていない
ので、「生命体は自ら変化(自己形成)する存在である」と言える。
それらの生命体は小さな細胞で出来ている。細胞は、何度も分裂を
繰り返してして増殖しやがて成体を形成すると子孫を残すために、
人間でいえば受精卵を作って生命を繋いでいく。それでは、いった
いなぜ細胞は分裂増殖することができるのだろうか?たとえば、水
は外界からの温度変化によって液体、固体、気体と状態を変化さ
せるが、だからといって自ら変わることはできない。しかし、水のこ
の特異な性質、流動性は生命の誕生に欠かすことのできない媒質
である。生命体の誕生は、つまり自ら変化することができるのは水
の存在なしには考えられない。しかし、生命起源論はすべて仮説の
域を越えていないし、それどころか生物進化の系統樹でさえ再三書
き改められていることから、以下はまったく私の想像ですが、単細
胞の生命体が分裂できるようになるには、その反対の細胞結合が
頻繁に繰り返されていたからではないだろうか。それは主にエネル
ギーを得るための捕食によって行なわれ、しかし消化分解されずに
体内にとどまって共生するようになった。つまり、二つの細胞が結合
して新たな一つの生命体になった。もしもそうだとすれば、結合して
できた新しい細胞が、分裂の能力を獲得したとしてもそれほど驚くよ
うなことではないのではないか。入口は出口でもある。細胞分裂のし
くみは細胞結合からもたらされたのだ。細胞同士による結合と分裂
は無限回繰り返されただろう。やがて細胞同士の結合は細胞内の
不具合を調整するための新たな器官が必要になり、細胞核を生んだ
。こうして分裂のしくみを獲得した微小生物は、生存を賄うためのエネ
ルギー摂取はほんのわずかで済むため膨大な量の養分に恵まれな
がら分裂増殖を繰り返して爆発的に繁殖した。しかし、水中に浮遊す
る微小生物はその大きさから、否、小ささから、その基準は原子の大
きさに比較してですが、おそらくわずかばかりの水の流動にも押し流
されて思い通りに動くことなど出来なかったに違いない。運動を獲得
するためには器官の発達とそれに比例した質量が求められた。分裂
と結合のしくみを獲得した微小生物にとって巨大化、つまり多細胞化
する能力はすでに備わっていた。ただ、多細胞生物への進化は分化
した器官の発達を伴うのでこれまでのような単純な分裂ができなくなっ
た。そこで、巨大化を担う細胞の分裂増殖はそれぞれの「単」細胞に
委ねられ成体維持を任され、増殖は新たな生殖器官が担い、成体維
持と生殖に分離された。もちろん、それらの組織化された器官細胞へ
の情報は細胞核によってコントロールされた。つまり単細胞生物にとっ
て、多細胞生物への進化とは組織化されることであり、多細胞生物が
集団を求めるのは性的本能によると言うよりも、たぶん、組織化された
生命体本能から芽生えるのではないだろうか。つまり多細胞生命体と
は本能的に社会的存在なのだ。そして、何よりも多細胞化によって組
織化を余儀なくされた生命体は、それまでの一元的な生存本能とは異
なった能力、つまり経験による記憶から派生した知的能力を持つように
なった。こうして巨大化を求めた微小生物によって多細胞生物は進化し
たが、やがて巨大化し過ぎた生物、その基準は地球の大きさに比較し
てですが、恐竜の絶滅によって幕を閉じ、それは彼らが「世界限界論」
に対応できなかったからだが、いまではその末裔である爬虫類は小さ
くなって草葉の陰でなお生き続けている。