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明けない夜  作者: ケケロ脱走兵
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 自転車で街の中を駆け抜ける爽快さは、街や通行人を置き去りに


して走り去る快感だ。それなら車やバイクの方がもっと速く走り去


ることができると言うかもしれないが、それらは自らの運動によっ


て車を走らせているのではないから実感が湧かないし、一瞬で通り


過ぎるために周りと間に感情の摩擦が生じない。摩擦のないものを


置き去りにすることはできない、ただ通過するだけだ。ドライバー


はドアを閉めた瞬間に周りから隔てられて世界を共有できなくなる


。たとえば、自転車を漕いで10キロ走った時の実感は、車で10


0キロ走ったとしても決して得られないだろう。諸々の感情は運動


からもたらされるのだ。運動と繋がっていないスピードに実感が追


い付かない。例えば、新幹線の駅のホームで通過する「のぞみ」を


見ても、「のぞみ」は一瞬で消え去って感情の取り付く「暇」がな


い。だから「のぞみ」を待つ人々は押し並べて言葉少なで、仮に個


人的な話でもしようものなら場違いに気付いて「空気を読んで」口


を噤む。すでに東京は到る所が所謂「近代社会」を象徴する都市化


が進んで、そして新幹線の駅のホームのようなよそよそしい場所ば


かりになってしまった。人々は動かなければならない「不自由」を


奪われてしまい、つまり感性を奪われて、所作をなくして理性に身


を委ねるしか術がなくなり、気分に従って道草を食ったり目的以外


のことに関心を寄せたりすることが無意味に思えてくる。すでにわ


れわれ自身も自動化された社会の中を流れる規格化された人格で個


性を矯められて画一化を迫られ、そして規格からハズレた者はハネ


られる。こうして、近代都市東京では「完璧で決定的な蟻塚のよう


な社会が奇跡的に到来しているのを目の当たりに」できる。(ポー


ル・ヴァレリー「精神の危機」より引用)


その日暮らしの切り詰めた生活をしていると不安が先立つ。彼も


「何とかして貯蓄を残しておかないと」と思い、家賃の安い部屋に引


越すつもりでいた。だから自転車で走っていても途中の街の様子だ


ったり「空室あり」と貼紙されたアパートに目がいった。それどころか


、もしも失職して収入が途絶えた時のことまで想定して、かねてより


寝袋を買っておこうと思っていたので、時間があったのでホームセン


ターに立ち寄って、さんざん迷って一番高価なものを買った。実際、


家賃の振込が遅れて何度か督促されて、ホームレスになってしまう


不安を感じたこともあった。そんな時に、たとえば自分が女で、身を


任せることにさえ耐えれば何カ月分かの生活費を手にすることがで


きるとすれば、後々の後悔など犠牲にすることにそれほど迷わなか


っただろう。


 途中でラーメン屋が目に入って空腹を覚えたのでペダルを漕ぐの


を止めた。特別にラーメンが好きというわけではなかったが、何よ


りも早く食えるのでこの頃はラーメンばかり食っていた。東京はや


たらラーメン屋が増えたが、ただラーメンが美味しいからという理


由よりも気軽に「早く」食えることから人気があるのじゃないだろう


か。つまり麺類は日本に古くからある食べる者にとっての「ファスト


」フードなのだ。だからラーメンを並んでまでして食べたいとはまっ


たく思わなかった。もしも、味覚というものが口の中で咀嚼すること


から生まれるとすれば、たぶんラーメン好きの者は味覚オンチに違


いない。何しろ咀嚼などせずに一瞬で呑み込むのだから味なんて覚


えない、ただ通過させるだけだ。その店もかつては行列ができるほ


どの人気店だったが、最近では次々に現れる新しい店に客足を奪わ


れて落着いてしまった。昼時が過ぎて客も疎らになった店内に入って


カウンター席に座ると、応対してくれた店員に見覚えがあった。その男


の顔を見ながら「誰だったかな」と思い出そうとしていると、相手も同じ


ように自分の顔をじっと見て、


「高橋?」


と、寛の名前を言った。するとすぐに寛も、


「もしかして大島?」


と彼の名前を思い出した。彼とは経済学部の同期生で一時期よく話をし


たが、寛が転部してからは会わなくなり、留年してすっかり忘れてしまっ


た。ただ、彼の方は二年前に卒業してリクルーターが羨む大手商社に就


職したと人の口から聞いていた。だから寛は、


「何で、こんなとこに?」


と言ってしまった。彼は笑いながら「ああ」と言って、会社を辞め


てしまったことを打ち明けた。そして、


「簡単に言ってしまえばさ、世の中って搾取する者と搾取される者


がいるだけなんだ。もちろん何をするかもあるけどさ」


「じゃ、搾取する側になるためにラーメン屋を選んだのか?」


「って言うか、もうそういうのにうんざりして、独りでも食ってい


ける仕事を探してたんだ」


奥で腕を組んでいた店長と思しき中年の男が、


「おい、大島!余計なことばかり言ってねえでさっさと注文訊かね


えか」


と怒鳴った。彼は首を竦めて、いずれ独立して自分の店を始める


つもりだ、と小さな声で寛に言った。

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