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突然、ツインベットの間に置かれたサイドテーブルの上のデンワが鳴っ
た。二人は同時にデンワに目を遣ってから、顔を見合せた。そして、わた
しは立ち上がってベットの間を通ってデンワの受話器を取った。
「あっ、もしもし、もしもし、失礼ですが高橋さんですか?」
デンワの相手はツアーの担当者だとすぐに分った。
「そうですが」
「あっ、どうも、お早うようございます」
「おっ、お早うございます」
気が付かなかったけれど、すでに夜は明けていた。担当者は名前を名乗っ
てから、
「ええーっと、失礼ですが、もうすぐ出発の時間になりますが、ご朝食は
まだお済みじゃないですよね。お風邪を召されたとお聴きしたものですか
ら心配してますが、あのーっ、お体の具合はいかがですか?」
端から今日のツアーには参加するつもりがなかったわたしは、担当者から
自分が風邪を引いていることを教えられたので、誘い水に流された。
「実は申し訳ないんですがまだ熱が退かなくて、今も頭がボーっとしてま
して・・・」
「あああ、そうなんですか・・・、それはそれは・・・。何れにしてもご
無理をされてはいけませんので、あのーっ、失礼ですが、今日はご参加さ
れないということでよろしいでしょうか?」
「ほんとに申し訳ないんですが、皆さんに移してもいけませんので・・・」
「ああ、そうですね、分りました。どうかお大事になさって下さい」
「ありがとうございます」
「あのーっ、失礼ですが一つだけお聞きしたいんですが、ツアーに参加さ
れてる賀川さんなんですが、さっきから何度もお部屋にデンワをしている
んですけど、どうもお部屋にいらっしゃらないようなんですが、失礼です
がご存じじゃないですよね?」
わたしは何と答えていいのか迷って、送話器に掌を押し当てて彼女の方を
窺った。彼女はわたしの受け答えからデンワの相手が誰であるかをすぐに
察して、
「いいわ、出るわ」
そう言って立ち上がった。わたしは静かに、
「あのーっ、賀川さんはここに居るので代わります」
と答えると、担当者は相当驚いたようで断末魔の獣の悲鳴のような喚き声
を発した。そして、
「どっどっどっどうして、そっそっそそこに居るんですか???」
わたしはそれには何も応えずに、近付いてきた彼女と入れ替わってデンワ
を預けた。その時、彼女の長い髪から女性特有の動物的な匂いが鼻腔に触
れた。その瞬間わたしは時間を止めて甘美な陶酔に浸った。それは、たぶ
ん好意を持ち合わせていなければ遠ざけたくなる鼻を衝く臭いに違いなか
ったが、もしも彼女がわたしの欲求を諾ってくれるなら、時間を戻さずに
何時までも嗅いでいたかった。就中、人と人との相性というようなものは
、大袈裟には思想や哲学にしたところで、その本質の如何を問わず、それ
ぞれが養ってきた習性から生まれる嗅覚に委ねられている。仮に純粋理性
が無臭であるなら、経験知がもたらす思想や哲学は情熱とか精神といった
感情に培われた臭いを放っている。我々は馴染みのない臭いを遠ざけるよ
うに、まず始めに思想や哲学の奥に潜む臭いを嗅ぎ分けて、理性的ではな
い臭いで善し悪しを判別しているのだ。そもそも理性は思想や哲学など語
ったりはしない。
「まあ、誤解されても仕方がないですが、ただ、ずーっとお話をしていた
だけです」
彼女はすこし語気を荒げて担当者の怪訝を払拭しようと試みたが、その怪
訝とは男女関係に他ならなかったが、弁明以外に何一つ証明するものはな
かった。とはいっても、担当者も執拗に糾してみたところで何一つ報うも
のがないので彼女の弁明を受け入れた。わたしは彼女の頑なな意志に少し
怯んだ。彼女は、
「だって、嘘で汚されたくないから、嘘で自分を守りたくない」
と言った。




