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契約社員としての警備員の仕事はその日その月を凌ぐだけで精一
杯だったが、協働で作業しなければならない仕事よりはうんと気が
楽だった。とは言っても、例えば交通誘導員の仕事は逐一無線で相
方の指示に従わなければならないし、何よりも勝手に持ち場を離れ
るわけにはいかなかったので生理現象が催してきた時には困った。
仕方なく衆人の眼の届くところで用を足したこともある。主に野外
での任務がほとんどで、穏やかな日ばかりではなく、猛暑や酷寒の
日でも、そして雨が降ろうが槍が降ろうが旗を振らなければならか
った。つまり、人への気遣いから解放されたからといっても決して
楽な仕事とは言えなかった。始業前にラジオ体操が始まり朝礼が終
わって持ち場に着くと、その場を離れられない現実に拘束された自
由意思は思索へ遁れようとした。赤い旗を上げろとか白を下げろと
かの指示に体は無意識に反応しても、頭の中は作業とはまったく関
係のない想念で満たされた。仮に、それらすべての想念を文字化し
て記述できたとしても、たぶん仕事に関する一言の言葉も見当たら
なかっただろう。つまり、彼もまたその仕事に対して使命感を持て
なかった。
「どうして自分はこんな境遇に陥ってしまったのか?」
と、寛は紅白の旗を上げ下げしながら考えた。それまでにも不採用
通知が届く度に自分の不甲斐なさに落ち込んだが、しかし彼ひとり
だけが就職できなかったわけではなかった。実際、希望する会社に
上手く就職できた者など自分の周りでも限られていたし、また、希
望する会社に就職したはずの先輩たちの話を聴いても将来の明るい
見通しを口にする者などいなかった。それどころか会社に馴染めず
既に辞めてしまった者さえいた。それらの情報に接して次第に自分
だけが著しく劣っているわけではないと自らを慰めた。やはり、長
引く経済成長の停滞によって社会に歪みが生じ、そのしわ寄せが「
ロスジェネ」を生み、さらにグローバル経済によって「失われた二
十年」へと継がれて今に至っているのだ。そして、多分それは一時
的な停滞だとは思えなかった。これまでの国家間格差がグローバル
化によって国境の壁が低くなったために国内格差へと移行し、どこ
の国でも貧富の格差が拡大している。これまで一人に一個のリンゴ
が分け与えられてきたとすれば、これからは一個のリンゴを二人で
、否もっと多くの人と分かち合わなければならなくなるだろう。だ
とすれば、われわれはこれまで望んでいた豊かさを見直すかそれと
も分かち合うべき豊かさを他人から奪い取るかしか残されていない
。彼は、奪い合うこと、つまり本来の目的を見失う競い合いからい
つも身を引いてしまうので、いま身を置く境遇を甘んじて受け入れ
るほかないと悟った。そして、これまで斯くあるべきと望んでいた
理想を見直して、いま在ることの中から喜びを見つけ出すしかない
と思った。