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明けない夜  作者: ケケロ脱走兵
29/40

(29)

 宿舎へと戻るワゴン車の中でついに寝てしまった。「着きましたよ」


と呼び掛ける担当者の声で目を覚ますとすでに私以外の乗客は誰も居な


かった。たぶん西夏の女は、寝ている私にはまったく気に掛けずに車か


ら降りたに違いない。と言うのも、朝の食堂で顔を合わせた時も、それ


から私が後から車に乗り込んだ時も、それは昨夜打ち解けて話を交わし


た明るい印象からはまったく想像できないほどに無愛想で、こちらから


声を掛けても煩わしそうに目を逸らしたからだ。彼女にいったい何があ


ったのか知る由もないが、ただ、彼女の人格はもっぱら気分が支配して


いるように思えた。


 担当者に風邪を理由に夕食への出席を断って部屋で寝ていると、旅館


の女中さんが席に出された折箱を部屋まで届けてくれた。そこにはカゼ


薬が添えられていた。その気遣いに感謝しながら折詰を平らげて薬も飲


んで再び眠った。しばらくすると部屋のドアをノックする音で目が覚め


た。部屋の明かりを灯して時計を見るとすでに十時を過ぎていた。訝り


ながらドアを開けると西夏の女が申し訳なさそうに立っていた。


「カゼをひかれたとか、お体の加減はいかがですか?」


私は突然の彼女の訪問に驚いて、その表情から窺える彼女の気分を推し


測りながら、


「どうもご心配をお掛けしました。お蔭で大分元気になりました。たぶ


ん明日の視察には参加できそうです」


「そうですか、それは良かったです。何だかわたしの所為でカゼをひか


せてしまったので気になって」


ドアを挟んでの立ち話だったが、彼女は得体の知れない西夏の女ではな


く賀川星子だった。すぐに会話は途絶えて、彼女は立ち去るものだと思


っていたが一向にその気配がなかった。かと言って出会ったばかりの女


性を深夜に部屋に招くわけにはいかない。短い沈黙のあと私は口を閉じ


たまま喉の奥で咳をした。すると、


「ごめんなさい、ここでの立ち話はお体に障りますよね。あのー、もし


よければお部屋に入ってもいいかしら?」


彼女の言葉に一瞬戸惑いながら、


「あっ、いいですよ、あなたさえ良ければ」


彼女の目を見ながらそう言った。そしてずっと握っていたドアノブを引


いてドアを開いた。彼女は頭を下げてから歩くたびに体を傾げながら部


屋に入った。私は傍らを通る彼女の髪の匂いに一瞬の陶酔を覚えた。そ


れは容子とは違う新鮮な匂いだった。しかし、私はそのうしろ姿を見な


がら彼女への想いが次第に失せていくのを感じた。彼女に対する憧れの


ようなものが憐れみへと微妙に変化したからかもしれない。新館の部屋


はすべて洋式のツインルームでどの部屋も同じ造りだった。彼女はたぶ


ん部屋ごとに違うベットの上に掛かった小さなリトグラフを一瞥してか


ら窓のカーテンを開けてガラス越しに外を眺めて、


「今夜も星がきれい」


と言った。私はドアを閉めて、


「カゼがうつらなければいいですが」


「カゼなんて気にしないから」


そう言いながら窓際のベットの端に腰を下ろした。そして、


「ねえ、あなたはどうして農業を始めようと思ったの?」


と聞いた。


「えっ、どうしてって」


私は自分の思っていることを簡単に伝えることができなかったので、


「あなたはどうしてですか?」


と返した。


「わたし。わたしはもう、わたしの人生は終わってしまったから、都会


から逃げ出したかったの」


わたしはその深刻な告白にどう応えていいのか分からなかったので黙っ


ていた。


「ほら、足が悪いでしょ。事故で足を痛めてから何もかも終わってしま


ったの」


「事故ですか?」


「ええ、自動車事故」


「そうなんですか。でも足が悪いだけで人生そのものが終わったわけで


はないでしょ」


「ダメよ、片輪の女なんか。憐れみを買うばかりでいざとなったら誰も


まともに係わろうとは思わないんだから」


「そうかな、そんな大したことだとは思わないけど」


「そうよ。他人にとってはどうだっていいことなんだけど、私にとって


はそれがすべてなの」


わたしは彼女のこれまでの心の葛藤も知らずに軽々しく慰めようとした


ことを恥じた。その苦しみは彼女が言った「片輪」という言葉に表れて


いた。わたしはその言葉に驚かされた。自らの身体を淡々と「片輪」と


言い切るまでにはどれほどの心の葛藤が繰り返されたことだろうか。


「私ね、どうしても農業がしたいからこの視察ツアーに参加したわけじ


ゃないの。もちろん生きていくためには働かなければならないけれど、


もう他人の好奇の目に曝されて身構えながら生きることにウンザリした


の。だから生きるにせよ死ぬにせよ、人知れずのんびりと暮らしたいと


思ったの。でもね・・・」


彼女は現地視察に参加してのんびりと暮らしている自営農家などまった


く存在しないことにガッカリした、と言った。それはわたしも同じ思い


だった。すでに経済至上主義は限界集落で暮らす人々までも洗脳し、面


白くもないイベントやどれもこれも似たり寄ったりの特産品を取り上げ


て「村おこし」に躍起になっている。それらは成功させなければならな


い正に都市イズムそのものだった。そして農家は農業所得を増やすため


に効率化を求め、設備や重機などを揃えるための先行投資を借金をして


購い、すでに農業は機械や薬品に頼らなければ成り立たないほど近代化


が進み、そこで余生をのんびり暮らしたいと思っている定年退職者や、


都会の煩わしさから遁れてゆっくり暮らしたいと願っている新規就農者


などは思いもしないブラック企業以上に過酷な労働を覚悟しなければな


らない。こうして近代化がもたらす効率主義の波は都市を呑み込んで農


村まで及び、農村で暮らす人々は都市で暮らす人々以上に近代化を渇望


している。


「たぶん、ぼくたちは波を避けようとして波の来る方へ逃げようとして


いる」

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