表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
明けない夜  作者: ケケロ脱走兵
27/40

(27)

 その日の宿は当地では名の通った老舗旅館で、震災による原発事故


の前ならとても一般が利用することなど憚られたが、しかし風化しな


い放射能汚染の不安から来客が途絶え、否、それどころか代を継いで


住み慣れた地元の者でさえも思いを残して立ち去る始末なので一時は


廃業さえ考えたが、しかし再びかつての暮らしが戻ってくる日がくる


ことを信じて存続させるために破格の料金で宿を提供している、と担


当者は言った。そう言われてみれば、なるほど格調のある建物や趣き


のある庭園などを目にすると他人同士の集りであるツアー客にすれば


些か敷居が高かった。


 しかし部屋はその本館ではない別棟の新館に案内され、夕食もその


別館の個室が宛がわれ、部屋には真ん中に大きなテーブルがあり、す


でに席には漆塗りを模した黒いプラスチックの折箱が蓋をして置かれ


ていた。私が部屋に入った時にはすでに「西夏の女」は席に着いてい


た。軽く会釈をして彼女とは対角の席に腰を下ろすと、彼女も座った


まま会釈を返した。すぐに二組の夫婦がやってきてそれぞれ向かい合


った空席を埋めた。遅れて担当者が現れて「失礼しました」と私の席


とは角を挟んだすぐ横の席に立って改めて自己紹介することを求めて


掌を私の方に向けた。私は座ったまま、


「高橋寛です。東京から来ました。よろしくお願いします」


と簡単に済ますと、担当者はさらに続けるものと思ってしばらく黙っ


て私を見詰めていたが諦めて隣の夫婦に視線を遣って頭を下げながら


掌を差し出した。私の簡単な自己紹介は後の者にも伝播して、最後に


「西夏の女」は小さな声で、


「カガワセイコです。よろしくお願いします」


とだけしか言わなかった。彼女は「カガワセイコ」という名前だった


。彼女のことをもっと知りたかったのに始めに自分の素性を明かさな


かったことを少し悔やんだ。食事の前に担当者が今後の日程のブリ


ーフィングを行ない、その後には振興課の課長が挨拶をする手筈だっ


たが、定員20名の募集に6名しか集まらなかったからなのか、


「失礼ですが、急に仕事が入って来れませんので割愛します」


と、担当者は「割愛」の使い方が間違っていることも知らずに資料に


目を落としたまま小さな声で言った。そして、手にした資料をぞんざ


いに傍らに置いたので、私は何気なく自分の前に置かれたその資料を


覗くと一番上に参加者の名簿があって彼女の名前が載っていた。「カ


ガワセイコ」は「賀川星子」だった。


「それでは食事にしましょう」


と担当者の掛け声によってテーブルに置かれた折箱の蓋を開けると、


色とりどりの料理が升目に並べられた角皿に詰められていた。そして


誰もが箸を止めさせない他愛もない会話をしながら夕食は始まった。


私は一切「西夏の女」、じゃなかった「賀川星子」には目もくれずに


担当者の話や夫婦同士の会話に耳を傾けていた。つまり私は彼女のこ


とばかり意識していた。ただ、彼女と一緒に歩いてこの部屋を出て行


くことが気が引けたので誰よりも早く折箱の蓋をして、


「ごちそうさまでした」


と言うと、担当者は箸を止めて、


「えっ!もう食べたのですか?」


「ええ、先に部屋へ戻ってもいいですか?」


「いいですけど」


私は立ち上がってみんなに一礼して個室を後にした。自分の部屋へ戻


る廊下を歩きながらも頭の中では彼女のことばかり考えていた。もし


かしたらケガだとかの原因によって一時的に跛行せざるを得ないだけ


かもしれない、と他人の境遇を勝手に悲観している自分を慰めた。


 しかし寝床に入っても彼女のことが頭から離れず夜更けになっても


寝付けないので起き上がって窓を開けて外を眺めた。二階の部屋は庭


園に臨んでいた。窓を開けると夜に追い遣られた冬の寒気が流れ込ん


できた。手入れされずに荒れ始めた木々の間から歩道に沿って外灯の


支柱が生えその先端の明かりが私が居る建物の入口へ至る歩道の雑草


を照らしていた。その歩道を独りの女性が跛行してこちらに近づいて


きた。彼女はしばしば立ち止まってはしばらく夜空を見上げた。何度


目かの時に私と目が合った。たぶん5階建の建物の窓に灯りが燈って


いるのは私の部屋だけで、彼女にすれば勝手に目が行ったにちがいな


い。私は思い切って声を掛けた。


「何をしてるんですか?こんな時間に」


彼女は見られていたことを気まずく思ったのかしばらく黙っていたが、


「ほら、星がこんなにきれい」


と、それまでの暗い表情ではなく笑みを湛えて上を指差した。下ばか


り向いていた私は彼女の指に促されて見上げるとそこには漆黒の夜空


を埋め尽くす無数の星々が生き生きと輝いていた。それは東京では決


して見ることのできない美しい宇宙の神秘だった。


「ね、きれいでしょ」


と、彼女は夜空を見上げながら言った。


「ああ、きれいだ」


と、私は彼女を見下ろして言った。彼女が湛える満面の笑みは満天に


煌めく星々よりも輝いていた。彼女は地上の星だった。


「でも、いつまでもそんなとこに居たら風邪を引きますよ」


「ええ、もう部屋に戻ります」


彼女はそう言うと臆することなく跛行しながら歩き始めた。私は左足


に重心をかける度に傾ぐ彼女を建物の中に隠れるまで見送った。そし


て、彼女が足が不自由なことをまったく気にしていないことを知って自


分の安っぽい同情が恥ずかしくなった。


 彼女が居なくなった後もしばらく漆黒の宇宙に光輝く神秘的な星空


を眺めていた。やがてその神秘性は星々を眺めている自分自身にはね


返ってきて、果たして自分はこの広い宇宙の中でいったい何のために


存在するのかと思い始めた。無限に拡がる生命なき宇宙の中で唯一の


生命体を有する地球とそこで生きる命こそがまさに神秘であり奇跡そ


のものではないか。星々の神秘とはそれを受け止める生命体の神秘に


他ならない。宇宙は神秘的でも何でもない、ただ在るだけだ。存在を


超えた何かなど生命体が描くイリュ―ジョンでしかない。われわれは


何かのために生きているのではない、生きるために何かを求めている


だけだ。おそらく生命の誕生以上の如何なる神秘も奇跡も宇宙では起


こらないだろう。つまり生命こそが奇跡であり神秘なのだ。命を繋い


で生存を存続させること、それこそが命を受け継いだ生命体の使命で


はないか。ところが、ここ福島では「豊かさ」というイリュージョン


のために命を繋ぐための生存環境が破壊され「在るだけの宇宙」が剥


き出しになった。たとえば「何のために生きているのか?」と問われ


れば、そんなこと解るわけがない、ただ生命体ができることは命を繋


いで生き延びることだけだ。しかし、ここ福島では命を繋ぐという神


秘的な営みが絶たれた、「豊かさ」というイリュージョンを追い求め


る自らを知的生命体と名乗る生命体の手によって。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ