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元自衛官の吉崎さんは頭を丸刈りにしていたが、ところがバランス
を取るためなのか口や顎に髭を蓄えていた。仮に顔の上下を逆さにし
てもそんなに違和感を与えないに違いないその人相を、他人が見て危
ない人物かもしれないと怪しんだとしても仕方なかった。私が彼から
の誘いを避けていたのもその厳つい面構えによる先入観からだった。
見た目で人を判断してはいけないと言うが、見せる方がそのつもりで
威圧的な風貌を拵えているのだから相手に伝わらないはずがない。バ
ラの棘は決して飾りではない。ところがその風貌に反して彼は到って
穏やかな人物だった。何日か彼に着いて一緒に仕事をしているとすぐ
に気付いたが、こんどはその穏やかな性格が仕事上に拵えられたもの
かもしれないと疑いが残った。私はその疑いを残したまま彼を誘った
。そして寒空の下で凍てついた身体を解凍もせずにサウナに投げ込ん
だので急激な体温上昇がわだかまりを溶かし二人は打ち解けた。もっ
とも打ち解けて語り合うには些かその話題は相応しくなかったが。
「どうすれば中国とうまくやって行けるんですかね?」
「元へ返ればいいんじゃないの」
「もと?」
「そう、国交を結んだ頃に」
そもそも私はあまり政治には関心がなかったのでその経緯を詳しくは
知らなかった。
「中国との間で対立している問題は40年以上前にすでに話し合われ
ていたんだ」
「尖閣の問題とかも?」
「もちろん、ただ棚上げにしただけだけどね」
「じゃあ棚上げのままにしておけってことですか」
「戦争したくなければそれしかないだろ。靖国参拝問題にしたって中
国側は二分論によって日本の指導者にその責任を負わせたのだから、
戦犯が祀られている靖国に指導者が参拝するのは合意に反すると非難
されても仕方ないだろ」
「何、にぶんろん?」
「ああ、二分論というのは日中交渉で日本側の謝罪に対して中国側は
、戦争責任は指導者にあっても国民はただ軍国主義者に騙されただけ
だと理解を示してくれた」
「なるほど、それで戦犯が祀られている靖国参拝が許せないのか」
「つまり、日本が恩義に背いて軍国主義者を崇めていると言う訳だ」
やがてサウナ室には仕事を終えた人たちと思われる客がぞろぞろと入っ
て来たのでそんな話をすることが躊躇われた。
サウナを後にすると外は雪が舞っていた。吉崎さんはすぐ近くの「
焼鳥」と書かれた赤提灯がぶら下がった小さな店に飛び込んだ。その
店は四人掛けの座敷が三卓とカウンター席が十席余りしかなかったが
まだ客は居なかった。カウンターの中には黒のバンダナにTシャツを
着た店主と思しき中年男が親しげに吉崎さんを迎えた。吉崎さんは私
を紹介するとカウンターの奥の席に陣取って隣の席を勧めた。すると
奥の暖簾を割って店主と同じ格好をした女将さんらしき女性がオシボ
リを持って現れた。吉崎さんが、
「まずは生ビール!」
と注文すると彼女は、
「二つ?」
と訊いた。吉崎さんが私の方を見たので私は黙って肯いた。さっそく
乾杯をして一気に喉へ流し込むとサウナで渇いた身体に雑巾が水を吸
うように浸み亘った。吉崎さんは一呑みでジョッキを空にすると、
「大将、串盛り二つといつもの酒」
と店主に注文してから私に何を飲むか訊いた。私は同じでいいと言う
と、女将さんはすぐにもっきり酒の升を二つ運んできた。それはグラ
スからこぼれ落ちた酒が升からも溢れんばかりに注がれていた。たぶん
そのうちに升にこぼれた酒を受けるためのより大きな升が必要になるに
違いない。
「これは北海道の酒なんだ」
「へえ」
「ほら、おれずーっと北海道に居たからさ」
そう言うと手を使わずにグラスに口を近づけて最後に「チュウ」と音
を立てて啜った。その飲みっぷりから酒好きなのが覗えた。
「ああ、そうなんですか」
と言いながら、私はグラスの酒を升にこぼしてから嘗めてみたが、彼
の飲みっぷりが想像させた酒の旨さを共有することはできなかった。
それはちょうど子供がビールや酒の旨さが分らないように、味覚器官
からもたらされる旨さではなく味覚をつかさどる脳そのものが麻痺して
味覚が機能しなくなって旨いと勘違いしているだけに違いない、などと
思いながら、それでもチビリチビリやっていると私の脳が次第に麻痺し
てしまい、いつの間にか升にこぼれた酒まで飲み干していた。そして、
「これ旨い酒ですね」
と言うと、焼き上がった串盛りと一緒にすかさず二杯目のもっきり酒
が運ばれてきた。すると吉崎さんは、
「ここの焼鳥はちょっと他所とは違うよ」
と言ったが、見た目はまったくどこにでもある焼鳥だった。
「何が違うのですか?」
「まあ食べてみればすぐ分かる」
と言うので恐る恐る口にすると、
「なんか肉がすごい軟らかいですね」
「なっ、違うだろ」
「ええ。なんでこんなに軟らかいのですか?」
すると吉崎さんは店主に向かって、
「大将、何でか教えてやって」
と言うと、店主は鳥を焼きながら、
「タンドリーチキンというのを知ってますか?」
「確かインドの方の料理ですよね」
「ええ、そうです」
「あれはヨーグルトに漬け込んで肉を軟らかくするんです」
「じゃあ、この肉もヨーグルトに漬け込んでいるんですか?」
「ええ、一晩漬け込んでいます」
すると吉崎さんが口を挟んだ。
「大将は自分でヨーグルトまで作っているんだって」
「へーっ、そうなんですか」
「ええ、まあ。うちはあくまでも和風の焼鳥なんでね」
「なるほど」
日暮れから降り出した雪は止む気配がなく、玄関の硝子戸越しに見え
る外の景色は行き交う車のヘッドライトに照らされるとうっすら雪化
粧が施されているのがわかった。店主は、
「もう今日は客は来ないだろう」
と呟いた。二人は脳細胞の麻痺によってもたらされた旨い酒と、他では
味わえない美味しい焼鳥に舌鼓を打ちながら、過去も未来も忘れて現
実の幻想に酔い痴れた。




