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「ずっと容子の匂いを嗅いでいたい」
寛は、その匂いだけが残こされたベッドで、容子に囁い
た言葉を思い出しながら胎児のように丸まって彼女の追憶に浸っ
ていた。容子と別れれてほぼ一月が経っていた。今となっては追
憶の中でしか彼女に会えなかったが、それでも彼女の居ない今を
忘れさせてくれた。寛は、容子と大学のゼミで出会った。彼はそ
れまで専攻を変更したりして留年を繰り返したので彼女より年は
2コ上だったが、彼女は二人姉妹の次女で現実的で、傍目にも二
人の年の差はまったく感じられなかったし、それどころか口論に
なればいつも寛の方が鼻白んでしまい、彼女の鼻を明かすことが
できなかった。やがて就活の時期を迎えると、就職氷河期と言わ
れて久しい時代だったが、それでも容子はあっさり大手スーパー
の採用内定を得たが、いったい自分が何をしたいのかさえ定まら
ない寛は、仕方なく卒業後の生活の糧を得るためと、何よりも容
子を安心させてこれからもずっと一緒に居たいという思いから、
進まぬ気持ちを無理やり就職という進路へ追いやったが、まるで
その思いを見透かしているかのようにことごとく面接で落とされ
た。それは進路の選択というより迷路の選択だった。そして、「
何だ、社会とはそういうことで成り立っているのか」と、つまり
組織に服従しない者は社会で生きていけないことを改めて知らさ
れた。もちろん、これまでにも書店でのアルバイトや深夜のコン
ビニ、また、いわゆる「マックジョブ」と呼ばれる仕事も経験し
てきたが、それらは地方出身の彼が東京で糊口を凌ぐためのもの
で自らの本分ではなかった。つまり、彼の家庭は彼が学生として
の本分を修めさせるために援助できるほどの経済的余裕はなかっ
た。
迷路から抜け出せないまま4年生になって、卒論に追われてそ
れに没頭しているうちに、ところで彼の卒論のテーマは「マルク
ス『資本論』への生物学的批判」というものだったが、それは、
そもそも彼は経済学部専攻で入学したのだったが、マルクスが云
うところの余剰価値は労働者の搾取によってたらされるという考
えに生物学的視点から違和感を覚え、つまり、すべての生命体は
増殖、即ち剰余価値を生むために生存しているではないか。そし
て、資本の生産過程が細胞の分裂増殖過程と類似していることに
着目して、逡巡の末に生物学部に専攻を変えて再入学し直して、
とくに生命体を形成する細胞が分裂増殖するしくみを解明しなけ
れば資本主義の本質は見えてこないと思ったからで、たとえば、
細胞はやがて成体を形成すると増殖を制御して安定するのだが、
ところが資本主義は生産された剰余価値を資本に投下して制御な
き増殖を繰り返す。それは生物学的に見れば明らかに偏った姿で
あって、制御できない細胞の増殖とは細胞のガン化であり、成体
を志向できない資本主義はやがて破たんするにちがいないと思っ
たからだ。ただ彼は、自分の研究課題がいまや全盛の万能細胞の
研究からかけ離れていることから教授陣に疎んじられ、再び文学
部へ再転部して容子と知り合った。
そうだ、容子との関係を説明するつもりだったが話が逸れてし
まった。いずれ機会をつくって寛の考えを詳しく述べたいと思う
が、こんなふうにして寛は卒論に取り組んでいる間は容子のこと
は最小化してタスクバーの片隅に追いやった。一方、容子は社会
心理学のゼミも掛け持ちして、分けても消費者心理に興味を持ち
、もちろんそれは就職に有利になると思ったからで、希望してい
た大手スーパーに履歴書とともに学習の成果をレポートにして提
出すると、すぐに担当者から直接デンワが掛ってきて称賛され、
間もなく内定をもらった。もっとも、それらは先進国であるアメ
リカの研究論文を翻訳した文献からのパクリがほとんどで、他人
の引用文を自分の言葉で繋いだだけのレポートだった。そして、
卒論さえもそのレポートを拡大して焼き増しただけの使い回しで
ひと月も費やさずに書き終えて提出した。進路も決まって後は学
生生活最後の青春を思いっ切り楽しみたいと思っている容子にと
って、いつまで経っても迷路から抜け出せずに、昨日認めた文章
を今日は否定する思索に耽る夜々を送る寛が次第に頼りなく思え
てきた。じっさい寛は容子の何でもない買い物の誘いさえも断っ
た。暗闇に慣れた寛の眼に容子の居る光あふれる世界は眩しすぎ
て、自分を見失いたくなかった。
「いまは女の時代だから」
寛のことばを容子は黙って聴いた。
「就職にしたって女性はいずれ辞めてくれるから採り易いんだよ
」
「そうかもしれないね」
容子は、寛のことばを聴いてやることが彼の慰めになると思った
。しかし、傷つけないように気遣い、自分の思いを打ち明けられ
ない相手から気持ちは冷めていった。たぶん、思っていることを
言って口論したほうが後腐れがなかったかもしれない。
「ずっと容子の匂いを嗅いでいたい」
ベッドで寛が容子にそう囁くと、容子は、
「じゃあ、眼をつぶって」
寛が言われた通りそうすると、容子は寛の鼻を舐めた。
「何、これ?」
「わたしの匂いするでしょ」
「うっ、臭い!」
その日を最後に容子はもう寛の部屋に来ることはなかった。
寛が書き直して卒論を提出したのは年が改まった期限ぎりぎりだ
った。
就職できない寛を落ち込ませたのは、容子への思い以上に、親
父と離婚してから女手ひとつで大学まで行かせてくれた母を安堵
させることが出来ないことだった。それまでにも母に勧められて
地元の会社の入社ガイダンスにも眼を通したが、容子の居る東京
を離れて母と一緒に暮らす決心がつかなかった。容子の居る華や
かな東京は母の居る肩身の狭い地元ととは比べものにならなかっ
た。夢の中で、足を滑らせて断崖に落ちた自分を崖上から容子と
母親が手を伸ばして叫んでいたが、ところがいくら踏ん張っても
足元が滑って、まるで蟻地獄に落ちた蟻のようにもがけばもがく
ほど彼女らの手から遠退き、ついには奈落の底へと転がり落ちた
ところで眼が覚めた。汗まみれだった。
卒業して働き始めるとすぐに新人研修があって、東京を離れる
ことになるのでこれまでのように会うことはできなくなるという
容子の言葉どおり、メールの遣り取りだけで会えなくなった。そ
して、そのメールもこれまでの他愛もないやり取りとは違って関
われない研修の報告のようなものばかりで、ただ「がんばって」
とか「いいね」とか他人事のような返事しか返せなかった。
一方で、寛自身も好き勝手な生活を送る免罪符だった学生証を
返納して、いつまでも遊んでいるわけにもいかないので、派遣会
社に登録して働き始めると、派遣先の職場で仕事を教えてくれる
男が同じ大学を同期入学した顔見知りだったことに嫌気が差して
すぐに辞め、しばらくは短期のアルバイトで食い繋いでいたが、
いろいろ考えた挙句、出来るだけ他人と関わらずにそれなりに暮
らしていける仕事、当座の生活を凌ぐための非正規だったが警備
会社の警備員として働き始めた。すると二人を繋ぐ共通の話題は
いよいよ無くなりメールさえも途絶えがちになった。警備会社の
仕事はイベント会場の警備から道路工事の交通誘導員まで現場は
様々だったが、ただジッと立って行き交う人々を眺めているだけ
で退屈さが紛れた。ちょうど動物園の飼育員のような眼差しで人
間を監視した。人々は彼の制服を見てその社会的な存在を理解し
たが、彼はその社会的な存在に隠れて私的な好奇心から彼らの振
る舞いを覗った。すると他人を監視する者の自由さえ感じること
ができた。それは服従を強いられた人々が奪われた自由なのかも
しれないと思った。支配される者が奪われた自由は支配する者の
手に入る。自由を奪われることを搾取されるというなら、自由も
また資本主義の「商品」なのだ。否、人は自由を手に入れるため
に生産するのだ。労働者の搾取によってもたらされる剰余価値と
は資本家が自由を手に入れるための手段に過ぎない。つまり、労
働者が搾取されているのは自由なのだ。資本家は奪った自由によ
って選択の自由を得るが、労働者はただ自由を提供するしかな
い、「しかない」選択しか残されていない。つまり、お金が保証
するのは社会的自由なのだ。これまでそんな風にして社会を見た
ことがなかった彼は、結構この仕事が気に入った。もちろん搾取
されてはいるが、大概のことは自分の裁量に委ねられて、社会的
自由を奪われずに報酬に与ることができた。しばらくして容子の
ケイタイは繋がらなくなった。