◇4◇ それぞれの真実と後悔
次の休みに、恵達は再び祖母の家に集まっていた。
この間恵と会ったことを知鶴は水瀬に話していないのか、その話題について彼から触れられることはなかった。恵は襖から座布団を取り出し、机の周りに並べていく。
「どうぞ、座って下さい」
「ああ、ありがとう」
水瀬が腰を下ろすと、恵も彼の向かいに座った。
「ねえさんは人形でも見ていて下さい。そんなに大した話でもないですから」
水瀬の隣に座ろうとしていた知鶴に水瀬がそう告げると、彼女は少しむっとした表情を見せた。そして水瀬の横から恵の隣に移動すると勢いよくそこに座り込んだ。
「わたしも聞く」
「でも……」
「陽くんは忘れてるかもだけど、わたしが水瀬探偵事務所の所長なんだからね」
「忘れてないですよ。分かりました、あまり楽しい話ではないのですが」
水瀬は小さくため息をつくと、諦めたように話を始めた。
「まずこの写真を見て下さい」
水瀬はジャケットの胸ポケットから封筒を取り出し、中の写真を机に並べた。
「これ、春美叔母さん?」
そこには恵の叔母の春美と親しげに並ぶ男性の姿が写っていた。
「見たことない男の人だな。それにこの写真何だか隠し撮りっぽいような」
ここで恵はこの写真が何なのか気が付いて顔をあげる。
「まさか、これって――不倫?」
水瀬は少し困ったような表情をして頷いた。
――なるほど、これはちづちゃんに聞かせたくないわけだ。
「少し気になって君の叔母さんについて調べたんだけど、偶然別件で彼女の不倫相手の奥さんから依頼を受けていた人物がいてね。といっても決定的な写真は撮れなかったらしいんだけど」
「けっていてきな写真……」
知鶴がそう繰り返したのを聞いて水瀬は、
「そこはあまり気にしないで、ねえさん」
とにこりと笑って誤魔化した。また意味を思い出してもやっかいだ。
「それで本題はこれから。ほら、ここ見て」
「これ、ばあちゃん……?」
水瀬が指し示した写真の隅に小さく写っていたのは、確かに恵の祖母であった。
「どうしてばあちゃんが」
「偶然だとは思うよ。この場所は電車を使えば、ここからもそう遠くない場所らしいし。ただ、春美さんの家からは遠いみたいだから気を抜いていたのだろうね」
水瀬は一通り写真を見せ終えると、再び写真を胸元へしまい込んだ。あまり知鶴に見せていたくなかったのだろう。
「おそらく、高良君のおばあ様は知っていたんじゃないかな」
「春美叔母さんの不倫を……? もしかしてばあちゃんの事故や泥棒とそのことが関係しているってことですか」
「いや、春美さんがその事故に関係しているかどうかは分からないけどね。今となっては証明も難しいだろうし。真実を知っているのは本人達だけ――つまりは春美さんだけとなったわけだ」
「そうですか、そうですよね」
少し落胆した声を出した恵の顔を、知鶴が心配そうに覗き込む。彼女が最初に心配していたのはこういった展開だったのだろう。そんな知鶴とは対照的に、水瀬は落ち着いた様子のまま言葉を続けた。
「ただ一つ言えるのは、春美さんがあの日――高良君のおばあ様が階段から落ちた日、ここに来ていたということ」
「どうしてそんなことが分かるんですか? 誰かが見ていたとか?」
「いや、見られていたのは高良君の方かな」
「俺?」
「高良君がここに来たのは土曜日だったと聞いたけど」
「え、はい。確か土曜の昼頃でした」
「春美さんは高良君が『学校帰りに』と言っていた。君はお使いを頼まれてまっすぐここに来たはずなのにだ」
「――そうか、制服。ばあちゃん家に行ってから、帰りに学校に寄るつもりだったから、俺制服着てたんだ。春美叔母さんにはその日に病院で会ってないから、制服姿の俺の姿を見たということは……」
「この場所で君の姿を見たということだろうね。そして制服を着ていたことから学校帰りだと思い込んだ」
実際恵は学校帰りに祖母の家に寄ることが多かった。春美はそのことを彼の両親から聞いていて、制服イコール学校帰りと結び付けてしまったのかもしれない。
「そして、春美さんが高良君を見たのが、君がおばあ様を発見したのと同じタイミングだと仮定すると空き巣の謎も解ける」
「まさか家を荒らしたのも春美叔母さん? でもどうして」
「春美さんも聞いていたのかもしれない。おばあ様のうわごと、『やねのうら』を。屋根の裏に何かが隠してあると思った。だから屋根裏を探した」
水瀬は天井を見上げてから、再び恵の顔を見た。恵は黙ったまま、水瀬の話に耳を傾ける。
「二階を見た時、どちらの部屋にも床に真新しい傷跡があった。その場所は天井点検口の真下だったんだ。おそらく天井裏を見る時に梯子を置いた時につけた傷だろう。まあ、屋根の裏と言ったら、まず屋根裏にあたる二階の天井裏を調べるよね」
恵は水瀬の言葉に同意するように何度か頷いた。
「調べたはいいが二階の天井裏には何もなかった。それならと、一階の天井裏を調べることにした。だけど、一階の天井裏を見るのは大変だ。まず荷物をどけなくちゃいけないし、板を外すのも経験がない人には難しい。そうこうしている内に時間がなくなってしまって、部屋を元に戻すことが困難になってしまった」
「だから逆に荒らしたのか。元に戻すよりは散らかしてしまった方が早いから」
水瀬の言おうとしていたことが分かり、恵の口から思わず声が漏れる。
「そんなことしたら騒ぎになるのは当然だけど、焦っていてそこまで頭が回らなかったんだろうね。天井裏を見ようとしていた上手い理由を思いつかなかったからというのもあるかもしれない」
「叔母さんは天井裏に何が隠してあると思ったんだろう」
恵の独り言に近い言葉に、水瀬は落ち着いた声で答える。
「まあ、普通に考えて不倫の証拠だろうね。もしかしたら春美さんは君のおばあ様に何か言われていたのかもね」
「不倫相手と別れるようにとかですか?」
「そこまで踏み込んだことじゃなくても、一緒にいた男の人が誰だったか聞かれたとかね」
「どうしてばあちゃんは俺に叔母さんのことを言わなかったのかな。結局、ばあちゃんは俺に何を伝えたかったんだろう」
疑問が一つ解決しては、また疑問が生まれる。恵は自分の考えを上手く整理できずに黙り込んだ。すると、今まで静かに話を聞いていた知鶴が口を開いた。
「おばあ様が伝えたかったのは『屋根の裏』で間違いないと思いますよ」
恵だけではなく、水瀬も少し驚いた表情をして知鶴を見た。おそらく彼も何も聞いていなかったのだろう。
「ちづちゃん、何か分かったの」
「それを確かめる為に、今日はここに来たんです」
知鶴は立ち上がると、どこか確信めいた表情を見せた。
知鶴に促されるまま、水瀬と恵は人形のある二階の部屋へ入る。知鶴は部屋の中へ入ると、棚の扉という扉を突然開け始めた。
「ちづちゃん、何探してるの?」
「ありました、多分これです」
窓に近い棚の一番下の扉を開けたところで、知鶴は手を止めた。彼女が開けた扉の奥に入っていたのは小さな家――ドールハウスであった。赤く塗られた屋根に、白い壁。中には小さなアンティーク調の家具が、きれいに並べられている。
「こんなに色々なお人形があるのですから、もしかしてと思ったんです」
「そう言えばこの前、俺にドールハウスがばあちゃん家にあるか聞いてたね。これがどうかした?」
「わたし、屋根の裏という言葉がずっと引っ掛かっていたんです。だって天井裏に何かを隠しているのなら天井裏と言えばいいじゃないですか。なぜわざわざ屋根の裏と言ったのか」
知鶴は膝をついて、ドールハウスの屋根に手を掛ける。屋根は乗せてあっただけなのか、すんなりと持ち上がった。
屋根は三角の箱状のものであった。裏についている板の端には、輪になった小さい紐が一つ。知鶴はその紐を引っ張り板を外そうとしたが、思ったよりもきっちりはまっているのか板はびくともしない。見かねた恵はその場に座り込むと、屋根を彼女から受け取り紐を引いた。すると板が外れ、空洞になっている屋根の中から沢山の封筒が出てきた。
「手紙……?」
「おそらく、高良さんのおばあ様が伝えたかったのはこれの在り処だったのでしょう」
「もしかしてこれに叔母さんの不倫の証拠が?」
「いや、それはないと思うよ。この封筒に貼られている切手はかなり古いものだし、封筒も随分汚れてる」
「この宛名、結婚前のばあちゃんの名前だ。住所もこことは違うし、昔の知り合いから?」
恵は人の手紙を読んでいいものか迷った。だが、真実を知りたいという思いから関係ない人間まで巻き込んだのは自分である。けりはつけるべきだと思い封筒を開けた。
「これ、ラブレターだ。しかもじいちゃんからじゃない他の人からの」
知鶴は大体想像がついていたのか、さほど驚いた顔もせず恵の話を聞いていた。
「何でばあちゃんはこれの在り処を俺に?」
「高良さんのおばあ様はその手紙の差出人のことが好きだったんだと思います。きっとおばあ様はその人のことをずっと忘れられなかった――」
恵の後ろで話を聞いていた水瀬の表情が微かに揺れる。彼のそんな様子には気付かないまま、知鶴は立ち上がりながら話を続けた。
「おばあ様はおそらく、春美さんに後悔して欲しくなかったんだと思います。春美さんが別に好きな人がいるのなら、その人を諦めて後悔して欲しくないと。自分と同じ思いをして欲しくないと」
「ばあちゃんは後悔したから――」
「高良さんのおばあ様がずっと後悔していたかどうかは分かりません。ただ、少なくとも幸せだったとは思いますよ」
「どうして?」
「亡くなった後も、こんなに思ってくれる孫がいるんですから。幸せだったに決まってます」
生まれ変わった経験がある知鶴が言うと説得力がある言葉である。
「これで水瀬探偵事務所に依頼頂いた調査は完了です。今回のことを春美さんに伝えるかどうかは高良さんにお任せします」
「うん、ありがとう。ちょっと考えてみるよ」
恵は力なく微笑む。予想外のことばかりで、少々戸惑っているのだろう。祖母が昔の恋人からの手紙を大切にしていたこと。そして、叔母が祖母を階段から突き落として逃げたかもしれないことに。
だからこそ恵は、『屋根の裏』にあった手紙のことを春美に伝えるべきなのか考え込んでしまった。
「春美叔母さんは、ばあちゃんから不倫のことが叔父さんに伝わることを恐れた。だから階段から落ちたばあちゃんを残して逃げたのかな。助からなければいいって思ったのかな」
自分自身に確認するかのように、小さな声で恵は呟く。
座り込んだまま手紙を眺める恵を見て、知鶴は彼に声をかけた。
「春美さんが階段での事故と関係がないのなら、恵さんを見かけた後普通に家に入って来たはずです。でも、もし事故に関わっていたとしても、逃げたはずの春美さんが高良さんの姿を見ているのはおかしくありませんか」
「じゃあ、俺の姿を見たわけではなかった?」
「いえ、おそらく高良さんの姿は見たのでしょう」
知鶴の言いたいことが分からない恵は、黙って彼女の次の言葉を待った。
「わたしは、高良さんの叔母様は引き返してきたのだと思います。おばあ様が何らかの原因で階段から落ちた後、一旦は怖くなって逃げたけど、心配になって戻って来た。その時に高良さんを見かけたのかと」
「ちづちゃん……」
高良が顔を上げると。そこには少し悲しそうな顔をした知鶴の姿があった。
「人の善意に関して、私はどちらかというと否定的です。ですが――」
優しい、どこか寂しげな笑顔を見せる知鶴。それは「千歳」の顔なのかもしれない。
「高良さん、あなたは違うでしょう?」
***
事務所で水瀬とオセロをしていた知鶴は、扉を叩く音に気が付き顔を上げた。水瀬は立ち上がろうとした知鶴を制止して扉を開ける。そこには手土産のお菓子を携えた恵が立っていた。
「いらっしゃい、高良君」
「こんにちは、お久しぶりです。といってもまだ一、二週間しか経ってないですね、あれから」
恵は水瀬に挨拶を済ませると、知鶴が座っているソフェに近づいた。そして、ほぼ真っ黒になっているオセロを見て苦笑する。
「ちづちゃん、本当にオセロ強いね」
前回対戦した際、知鶴は絶対黒しか持たないと聞いていたのだ。恵に褒められ、知鶴は小さく胸を張った。
「ねえさんはチェスも将棋も囲碁も強いよ」
「すごいね。一番得意なのは何?」
「麻雀です」
「え、なにジャン?」
小学生の口から麻雀という単語が飛び出たことに、恵は自分の耳を疑った。知鶴の前世が大人だったと知った後もどうにも慣れない。
だが何事もシンプルな思考が一番。恵は難しく考えるのをやめて、お菓子の入った紙袋を差し出した。
「ちづちゃん、クッキー食べる?」
「食べます!」
「水瀬さんもどうぞ。お土産、というより今回の件のお礼です」
「ああ、わざわざすまないね。ありがとう、頂くよ」
「わたし、お茶入れてきます」
「ああ、いいよ、ねえさん。俺が入れてくるよ」
「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて待ってるわ」
恵は知鶴の隣に座ると、斜めがけのバッグを背中から降ろした。そして、水瀬が隣の給湯室へ入ったのを確認した後、小さな声で彼女に訊ねた。
「ちづちゃん、俺が千歳さんのこと知ってるって水瀬さんに言った?」
「言ってないです」
「そうだったんだ。どうして?」
「高良さん、言ってもいいですよ」
「え、別に俺は言わなくてもいいかなって」
おそらく恵も知鶴と同じことを考え、水瀬には言わない方が良いと判断したのだろう。
一見、人当りは良いが、あれはかなり面倒くさい人間だ。
「楽しそうだね、何話してたんだい」
「大した話じゃないです」
水瀬は笑顔だが、どこか目が笑っていない。この人はロリコンではなくシスコンだったのか、と恵は一人で納得してしまった。
「それで、高良君、今日はこれを渡しに来ただけなのかい」
恵の前にお土産のクッキーとお茶を置くと、水瀬は話を切り出した。恵はお礼を言い、お茶を一口だけ飲み込んだ。
「叔母さんに話したんです。先週、法事があって親戚が集まったんでその時に」
水瀬は恵の向かいに腰を下すと、彼の話に耳を傾けた。
「ドールハウスの屋根の裏からばあちゃんの昔の恋人からの手紙が出てきたって。叔父さんには内緒にして下さいねって」
「そうか。何か言っていた?」
「しばらく黙った後、『そう』って一言だけ。俺も上手く表情作れなくて、叔母さんの顔を見れなかったので、叔母さんがどんな顔してたかは分かりませんけど」
カップの花柄を恵は親指で撫でる。どこか情けない自分の顔が紅茶の上に浮かんでいた。
「でも、きっとばあちゃんは俺にそうして欲しかったんだと思います。だから俺に屋根の裏にって言葉を伝えたのかなって」
恵は顔を上げ、どこかぎこちなさが残る笑顔を見せる。それが彼が彼なりに考えた、後悔の残らない選択だったのだろう。
「髙良さん、わたし駅の近くでパフェのおいしいお店見つけたんです」
「え、うん」
「今から一緒に行きませんか? お疲れ様会です」
依頼人と依頼された側がお疲れ様会というのはおかしい話ではある。だが、恵は知鶴が自分を励まそうとしてくれていることに気が付いて、思わず「いつもの」笑みがこぼれた。
「ちづちゃん、ありがとう。俺やっぱり本当のことを知れて良かったよ」
「わたしも良かったです。高良さんが今笑っていてくれて」
子供らしい満面の笑みを浮かべた知鶴を見て、水瀬も表情を緩めた。
「それでパフェはどうしますか」
期待を込めた眼差しで恵を見つめる知鶴。気を使っただけではなく、本当に食べたかったらしい。
「うん、じゃあ行こうか、せっかくだしね」
「苺のパフェがおいしいですよ。苺がこーんなにいっぱいで!」
「ねえさん、晩御飯が食べれなくなりますよ」
「駄目?」
知鶴の小動物のような瞳の前で大人は――水瀬などは特に――無力である。
「――じゃあ俺と半分こしましょう」
「わたし先に下行っているね」
「道路に出ないで下さいね」
「分かってる!」
知鶴は待ちきれなかったのか、上着を着ると勢いよく事務所を出て行った。
「高良さんも早く!」
階段の下から恵を急かす声が聞こえてくる。
「今行くよ」
立ち上がり、バッグを肩にかける。その時、事務所から出ようとしていた恵を水瀬が呼び止めた。
「高良君、ねえさんにはああ言ってたけど、本当に今回依頼をして良かったと思った?」
水瀬にそんなことを改めて聞かれるとは。恵は少し面食らったが、すぐに彼の問いに答えた。
「良かったですよ。何も知らないでいるよりは、知っていたほうが。消化には時間がかかるかもしれないですけど、それでも俺は知ることが出来て良かった、です」
「そうか、君は強いね」
「そんなことないですよ。今回はさすがに驚きの連続で参りました」
手を横に振りながら、苦笑いで応えた。真実を知るということは、なかなかに気力と体力を消耗するものである。
「春美叔母さんのこともですけど、ばあちゃん――祖母に忘れられない人がいたなんてちょっと驚きましたし」
「人には誰にも知られたくない思いの一つや二つあるものだよ」
「そういうものですかね」
「そうだね、少なくとも――」
水瀬の言葉がそこで途切れる。そのまま何も言わずに遠くを見つめ、再び口を開いた。
「少しは話し込んでしまったね。ねえさんがお待ちかねだ。俺は戸締りしてから行くから、高良君は先に下りていて」
「すみません、じゃあ先に下行ってます」
恵は水瀬が言いかけた言葉の続きが少し気になったが、本当に少しだったのでそれ以上は聞かないでおいた。
水瀬は給湯室の片づけを軽く済ませてから、開けていた事務所の窓に手をかけた。心地よい風に頬をなでられ、目を細める。窓の下では知鶴と恵がなぜかじゃんけんをしていた。こうして見ると仲の良い兄妹のようである。
水瀬が少しの間二人の様子を眺めていると、窓際に彼がいることに気が付いた知鶴と目があった。
「陽くん、支度出来た? 早く行きましょう」
明るく無邪気な知鶴の声。水瀬はその声に答えるように呟いた。
「ええ、すぐ行きます。義姉さん」
事務所の窓をそっと閉めると、水瀬はただ静かに微笑んだ。