第一話:卒業
「てんちょーーー」
語尾が消えぬまに、次の叫びが追い討ちをかける。
「ひゃくよんじゅうさんえんですよーーー」
バイトの吉岡の緊迫した声だ。
オレはあわてて事務所を飛び出した。
向かいのガソリンスタンドの価格看板を見上げる。
「レギュラー¥143」の非情な文字。
「けっ、やりやがったな」
舌打ちしたあとの唾液が苦い。
その苦味が胃まで落ちてきて、キリキリと痛みだす。
ここは国道バイパス沿いに5軒のGSが密集する激戦地だ。
そのなかでも、うちの向かいの店が無人店に転換した先月から、
うちとその店は泥沼の戦争状態に陥った。
向こうは無人店、うちは有人店。
コスト的に向こうが有利なのは自明だ。
最近のガソリン小売価格は150円を越えている。
しかし、ここでは無縁の数字だ。
向かいの無人店が価格競争を仕掛けてきて、
先週「145円」の看板を掲げた。
その価格をシカトするか、追随するか。
本社のおえらいさん方が喧々諤々の議論をしたらしいが、
けっきょくのところでた結論は、
「3円差で追随する」という中途半端なものだった。
「こっちは有人だろ。無人に負けてどうするんだ。
有人で3円差なら勝てる。サービスで客をひきつけろ」
営業本部長の激は、ほとんど脅しだった。
向こうが145円なら、こっちは148円。
価格に敏感になっているドライバーの流れは歴然だった。
先週、日量3キロリッターの販売実績を割り込む日が続いて、
ついに本社が折れた。
「徹底的に追随しろ」。もう意地みたいなものだった。
すかさず「145円」の看板を挙げた。三日前のことだ。
それが今日、向こうの返事「143円」の看板だ。
「店長、どうするんですか」
オレの顔色をうかがうように、吉岡が訊いてくる。
「本社が徹底的にやれと言ってるんだから、
やらないとしょうがないだろ」
吐き捨てるようにオレはつぶやく。
「採算割れだな」
胸のうちでささやいたつもりが、声に出ていたらしい。
吉岡が「えっ」と叫んで、オレの顔を覗き込んだ。
「お前はバイトなんだから、気にしなくていいの」。
吉岡の頭を軽くはたきながら、話題をそらせた。
「吉岡、お前もうすぐ大学の卒業式だろ?」
「はい、来週です」
「親から仕送りも受けず、うちの安いバイト料で
二年間よくがんばってくれたよな。
新しい就職先でもがんばれよ」
「はい、ありがとうございます」
吉岡は明るく答えたものの、そのあとのトーンは低かった。
「ボクが辞めたあとの補充は、めどがついてるんですか」
「この戦争状態だろ。本社は経費を切り詰めろってさ」
「えっ、じゃあ補充なしですか」
「そういうこと。オレに死ぬ気で働けってことだろうよ」
つい、愚痴がでてしまった。
「ボク、店長を尊敬してたんですよね。
明るく元気に大きな声で挨拶しろって教えてくれたの、
店長でしたからね。
お客さんからクレームを言われても、誠実に対応しろ。
油を売るんじゃない、自分を売れ。
人のいやがる仕事を率先してやれ。お客さんはそれを必ず見ている。
自分でも不思議なくらいいろんなこと覚えてるんですよね」
吉岡は胸のうちを吐き出すように、一気にしゃべった。
そして、ぼそっと、
「店長の愚痴、好きじゃない、みたいな…」
タメ口風に冗談めかしてつぶやいた。
走り去る吉岡のうしろ姿を追いながら、
「やれやれ、バイトに教えられ、か」
自嘲のため息。
「よし、オレも愚痴は卒業」
はっきり声に出して言ってみた。
「いらっしゃいませーー」。
吉岡の元気な声が、弥生の空に溶けていった。
<つづく>