俺と兄貴とバスケットボール
佐倉がキッチンに立つと、当然のように兄貴がそのあとを付いていく。
そして朝ごはんを作る佐倉の手伝いという名の邪魔を始めた。
「こころちゃん、卵いくつ取る?」
「ええと、三つで」
「はいどーぞ。あとは何がいる?」
「あ、今は大丈夫です」
「じゃあお皿取るよ」
「あ、どうもすみません」
「わー。こころちゃんって料理上手だよね」
「どうも」
「すごいねー。いいお嫁さんになるねー。よかったねえ静流」
「……」
「こころちゃんは進学するの? 就職するの? あ、お嫁さんでもいいよね」
「……進学です」
「へー。もう第一志望決まってるの?」
「一応、N大です」
「えっ。そうなんだ。僕、N大」
「そうなんですか?」
「そうそう。えー。うれしいなあ。こころちゃんがうちの大学に来てくれたら大歓迎するよ」
佐倉が入学する時には、兄貴は卒業してるだろ。
一人、ダイニングテーブルに座って兄貴と佐倉の会話に心の中で突っ込む。
てかなんなの? この状況。
なんで俺部外者みたいになってんの? おかしくない?
三人分の朝食が並び食事が始まると、俺の機嫌はさらに降下し始めた。
「それでねー、東側にあるカフェの隠しメニューってのがあってね」
そう。佐倉の第一志望の大学に通っている兄貴と佐倉が、大学の話で盛り上がっているのだ。
いや別に、俺はそこに行かないからって、拗ねてるわけじゃないんだけど。
目を輝かせて大学裏情報を聞く佐倉が、過去に見た兄貴に想いを寄せていた女の子たちの顔とダブる。
黙ったまま全然美味しく感じない朝食を口の中に放り込み、俺は席を立った。
洗面所で顔を洗い、二階に上がり、ジャージに着替える。
そのまま二人に黙って家を出た。
玄関のドアを開けた時、俺を呼ぶ佐倉の声が聞こえたような気がしたけど、振り返らずにドアを閉めた。
むしゃくしゃした気分のまま、冷たい空気の中、走り出す。
兄貴のことで腹を立てるのはよくあることだけど、なんでここまで不機嫌になるのか、自分でも分からない。イラつく自分を振り切るように、頭の中を空っぽにしてひたすら前へ進む。
ふと気がつくと通っていた中学のグラウンドに来ていた。
どうやらいつものジョギングコースを無意識で走ってきたらしい。
乱れた息を整えて、俺は学校の敷地に入っていった。
ぶらぶらと何の目的もなく学校の敷地を歩く。
先生たちはもしかしたら校舎の中にいるのかも知れないけど、グラウンドにもクラブハウスの周りにも人の姿はなかった。
誰かいたら話相手になってもらうのにな。
そんなことを考えていたら、バスケのボールがひとつ転がっているのに気がついた。
あーあ。だめじゃん。
こんなの顧問に見つかったら、大変なことになる。
部員全員、気の遠くなるほど走らされて、ぶっ倒れるまで筋トレさせられるのは間違いない。
ボールを拾い上げ、クラブハウスの壁に取り付けてあるゴール目がけて投げる。
ここしばらくバスケとは遠ざかっていたけど、ボールはゴールに吸い込まれていった。
バスケをやっていて、シュートが決まる瞬間が一番気持ちよかったな。
バスケを始めたのは兄貴の影響だ。
よっつ年の離れた兄貴は、俺が物心ついた頃にはバスケをやっていて、俺のヒーローだった。
闊達で物おじしない性格。それでいて気配り上手なイケメンバスケ少年。
それが俺の兄貴だった。
兄貴に憧れていた俺は何も考えることなく兄貴の背中を追うようにバスケを始めていた。
その時は思わなかったな。本当に兄貴の背中を追い続けるしかないってことの意味。
俺に付けられたのは『雅人の弟』という有難くない称号だった。
もともと運動は大好きだったし、バスケを始めて同い年の連中には誰一人負けることなかった。
けど兄貴は俺とは比較にならない位、ずば抜けた才能を持ったバスケットプレーヤーだった。
身長、俊敏さ、持久力、精神力。バスケに必要とされる全てを兄貴は持っていた。
ただ一つ、欠けていたのは運だけ。
残念ながら兄貴はチームメイトにだけは恵まれなかった。
兄貴がどんなに優れたプレーヤーでも、中学のチームでは県大会を勝ち進むことは出来なかった。
だから全国大会出場は、俺の悲願だった。
『雅人の弟』の呼び名は、兄貴が卒業していっても変わることはない。
俺が、桃坂静流として周りに認めてもらうには、兄貴が出来なかった全国大会出場を果たすしかないと思っていた。
身長は思うように伸びなかったけど、俺は仲間に恵まれていた。
仲間と一緒に、本当に泣くくらいしんどい思いをして掴んだ全国大会の切符。
もちろん周囲は喜んでくれた。
全国大会ではそこまで勝ち進むことは出来なかったけど、俺は満足だった。
監督の言葉を聞くまでは。
『このチームの時に、雅人がいたら全国制覇も夢じゃなかったな』
それは俺に言ったんじゃない。
誰も気がつかないくらいひっそりとつぶやいた監督のひとりごとだった。
もういいや、と思った。
兄貴は高校バスケ界でも有名な選手になっていた。
バスケを続けていく以上、やっぱり俺は『桃坂雅人の弟』から逃れることはできない。
監督の言葉に、俺はそれを思い知らされた。
兄貴は俺の欲しいものを何でも簡単に手に入れるんだよな。
ぽんと投げたボールはゴールリングに弾かれて、転がっていく。
佐倉の気持ちも、兄貴に持っていかれちゃうのかな。
ころころと遠くに転がっていくボールを目で追いながら、俺はぎゅっとこぶしを握り締めた。




