桃坂先輩の気持ち
行くか行かないか、しばらく葛藤を繰り返した結果、私はマンションを下りていった。
だって一生マンションに籠るわけにはいかないんだし。
明日には桃坂先輩のお家に戻らないと、律子さんが押し掛けてきそうだし。
なら今会うのも、明日会うのもおんなじだ。
マンションのエントランスを出ると、桃坂先輩がマンションの塀にもたれているのが見えた。
ほぼ同時に私に気が付いた桃坂先輩が、塀から体を起こしてこっちに歩いてくる。
一体先輩はいつからそこに立ってたんだろう。
桃坂先輩の吐く息の白さと、ほんの少し赤くなっている鼻の先を見て、私の胸の中いっぱいに罪悪感が広がっていく。
少なくとも私がベッドの上で現実逃避している時から、ここで電話をかけ続けていたことに間違いはないのだろう。
そう思ったら自然に言葉が溢れ出してくる。
「さっきは、ごめんなさいっ」
ぺこり。
九十度に折った視界に、桃坂先輩の靴先が現れた。
「謝んなよ。佐倉が謝る必要、ないだろ」
怒っている風でもない、いつもの桃坂先輩の声に頭を上げる。
ポケットに両手を突っ込み、私の前に立つ桃坂先輩は、ちょっと困ったような、ちょっと照れくさそうな顔をしていた。
「それにさ、ちょっと嬉しかったから。佐倉にバカって怒鳴られて」
「……」
先輩、変な趣味ありませんよね?
また考えがダダ漏れだったのか、桃坂先輩が眉をしかめた。
「お前、また変なこと考えてんだろ。嬉しかったっていうのはさ、あれって佐倉の本心じゃん」
確かに意識して何か言ったわけじゃなくて、腹の底からこみあげてきた本能の叫びだったような気がする。
「お前さ、なんだかんだ言って俺に本心見せたこと、ないだろ? だから嬉しかったんだ。初めて佐倉が俺に自分をぶつけてくれたみたいで」
「……」
「それに謝るのは俺の方だろ?」
ちょっと困ったように眉根を寄せた桃坂先輩の手が伸びてきて、私の頭をくしゃりと撫でる。
「嫌な思いさせてごめんな」
一瞬、先輩の胸に引き寄せられそうな、そんな気がして、私は慌てて胸の前で両手を振る。
「いいですいいです桃坂先輩の気まぐれはいつものことだしわがままにも慣れてますから」
私が早口でそう言うと、桃坂先輩は「なんだよそれ」と口を尖らせた。
時刻は午後四時半。
「母ちゃんにクリスマスケーキ頼まれたんだ」
桃坂先輩はそう言って、駅前の方に歩き出した。
クリスマスイブの夜。
駅前は華やかなイルミネーションで溢れていた。
行きかう人たちはみな幸せそうな笑顔だ。
私たちもこうやって二人で歩いていると、あの人たちと同じように、幸せそうなカップルに見えるのかな。
「もうすぐツリーの点灯時間だから見てく?」
先輩の提案に、駅前に置かれた巨大クリスマスツリーの前で点灯を待つ人垣に加わる。
キラキラ華やかに飾りつけられた街の中、そこだけぽっかりと色を失くしたツリーを眺めながら、隣に立つ桃坂先輩がぽつぽつと話し出した。
「今日の言い訳するとさ、朝、俺を起こしに来たとき、佐倉出かけるつもりだったろ? そこでもう何なのって思っちゃったんだよね」
……なんで私が一人で出かけようとすると桃坂先輩の機嫌が悪くなっちゃうんだろう。
「でさ、下に行ったら後輩どもがうじゃうじゃいて、纏わりついてくるだろ? ふと気が付いたら、お前と島田、こそこそ仲良さそうに話してんじゃん。なんかカチンときてさ、つい、佐倉も一緒なら行くって言っちゃったんだよね」
「はあ……?」
「で、カラオケ入って席に着いたら夏輝にやたら絡まれてさ。佐倉は来ないし、どこ行ったのかと思って見たら、後輩に囲まれて楽しそうにやってんじゃん。俺助けに来ないで何やってんのって、すげぇ腹が立った」
いやそれおかしいでしょ。
なんで私が桃坂先輩を助けに行かないとダメなの?
それにあの状況で私が桃坂先輩の隣に行ったら、修羅場になっちゃうでしょ。
なんであんたがって酒井さんに言われたら、ただの後輩である私には言い返す言葉ないし。
「佐倉がいなくなったのに気がついて追っかけようとしたんだけど、夏輝に邪魔されるし。やっと隙を見て脱出したと思ったら、今度は知らない男と仲良さそうに話してるし。もう俺の怒りはマックスだよね」
色々とおかしいよね?
いい加減気がつこうよ。桃坂先輩。
先輩と私、付き合ってるわけじゃないんだよ?
「あいつが、俺のこと佐倉の彼氏か聞いたじゃん。その時お前即答したよな。彼氏じゃないって」
桃坂先輩の言い方がまるで拗ねているように聞こえて、思わず私は隣に立つ先輩の顔を見上げた。
薄闇の中、私を見下ろす先輩がどんな顔をしているのかよく分からない。
「……事実、ですよね?」
小さな声で私がそう言うと、桃坂先輩が薄く笑ったような気がした。
「その時だよ。俺が腹立てるのがおかしいって気が付いたのは。そうだよ? 俺と佐倉は付き合ってないから、俺は佐倉の彼氏じゃない。彼氏じゃない俺は、佐倉がどんだけ男にちやほやされようが男と仲良くしてようが、それを咎める資格なんかないって」
「……」
「俺は佐倉といると楽しくて、男とか女とか関係なく一緒にいたいと思ってた。それでいいと思ってた。けど周りはそうじゃない。俺と佐倉が付き合ってないから、変な虫が近寄ってくる可能性もあるし、その時にはお互いそれをとやかく言うことができない」
それは私も同じだ。
桃坂先輩といると楽しくて、ただそれだけだった。
けど先輩の彼女じゃない私は、先輩の隣に酒井さんや他の女の子がくっついてきたとしても、何も言うことはできない。彼女じゃないから。
「だからさ、俺考えたんだ」




