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まずいミルクコーヒーの意義

 息が苦しくなって、走っていることに気がついた。

 何やってるんだろう、私。

 そうだ。逃げるんだ。でもどこへ?

 麻友から逃げられても、石川先輩から逃げられても、その記憶を持つ自分自身からは逃げられない。

  

 限界まで息が苦しくなって走るのをやめた途端、足がもつれた。

 うわこける!

 そう思った時、腕を引っ張られた。

 前へ傾いていた体が、今度は後ろに傾く。

 傾いた先、背中に何かが当たった。


「ぎりぎりセーフ」


 聞き覚えのある声に勢いよく振り向くと、桃坂先輩のドヤ顔があった。

 相変わらずタイミング良すぎるのか悪すぎるのか分からない。

 そんな桃坂先輩の顔を見た途端、思わず泣きそうになったのは絶対に、絶対に秘密です。

 




「はいどーぞ」


 桃坂先輩がそう言って渡してくれたミルクコーヒーはあり得ないほど薄くて甘ったるかった。

 一口飲んで顔をしかめた私に、桃坂先輩はにやりと笑う。


「それくそまずいだろ。このあいだ飲んだとき、まじ吐くかと思った」

「……それをわざわざ私に飲ませます?」

「いやぁ。佐倉にもこの腹立たしさを共感してもらいたくてさ」

「全力で遠慮したい味ですね」

「何事も経験だろ?」

「しなくてもいい経験もあると思いますけど」


 私がミルクコーヒーを睨みながら言うと、桃坂先輩は私の手からそれを取り上げた。


「そりゃ、犯罪に巻き込まれるとか、親しい人が死んじゃうとか、そういうのは別だけど、色んな経験が俺たちを形作っていくんじゃない? 楽しいことばっかの方が、そりゃいいだろうけど。しんどいことも、実際に体験したことがあるのとないのでは全然違うと思うけどなあ」


 そう言った桃坂先輩はミルクコーヒーを一口飲んで盛大に顔をしかめた。


「まず」

「なら飲まなきゃいいのに」

「でもさ、こんだけまずい飲み物があるって知ったら、他の飲み物の美味しさが再認識できるじゃん?」

「先輩、ポジティブすぎ」

「ポジティブだけが売りだからさ」


 あははと明るく笑う桃坂先輩の顔をぼんやりと見上げる。

 桃坂先輩の言葉を信じるなら、私の経験してきたことも、私を形成する上で必要なことだったのかな。

 もしそうだとしたら、少しは救いがあるかも知れないけれど。

 あの、自分の存在すら消したくなるような、体中の筋肉が収縮するような、忌々しい感覚を思い出してぶるりと身震いする。    

 

「あー、もうちょっとで終わるなあ。次は片づけかぁ」


 私の憂鬱な気持ちなど全く気にする様子もなく、桃坂先輩が隣で目一杯伸びをして大きなあくびをした。

 平和ですね。桃坂先輩は。

 それに引き換え、私の置かれた状況は。

 きっと体育館では私と石川先輩の話題で盛り上がってるんだろうな。

 クラスのみんなはともかく、教室に戻るまでの道のりで出くわすであろう好奇の視線を想像すると、全力で逃亡したくなる。

 そういえば。石川先輩と言えば。

 桃坂先輩は石川先輩と本当にベスパコンに出るんだろうか。


「ベスパコンは……」

「あー、ベスパコンね。忘れてたわ」


 私が言いかけた言葉に、桃坂先輩が苦い顔をした。

 まあ最初から出たくないって言ってたんだもんね。

 余程の出たがりじゃない限り、誰と出るにしても、みんなの晒し者になるのは、あんまりいい気分ではないよね。


「ベスパコン、嫌なんですか?」 

「んーそりゃね。でもま、一瞬だし。きっと俺が思うほど、周りの奴らは俺のことなんか見てないだろ」

「そんなもんですかね」

「そうそう。そんなもんだよ。自分が思うほど、周りは他人のことなんて記憶してないもんだよ」

「……」

「このくそまずいコーヒーのことも、きっと忘れちゃうんだよな」

「……そうですね。桃坂先輩ならまたうっかり買っちゃいそうですね」

「はあっ!? なにそれ。佐倉の中では俺うっかり認定なの?」

「……まあ」

「一回はっきり言おうと思ってたけど、お前の俺に対する評価はだな……」


 延々と、私と比べて自分がいかに大人なのか演説し始める桃坂先輩。

 そんなに執事喫茶での七五三発言が嫌だったんだろうか。

 

 桃坂先輩の演説をぼんやりと聞き流しているうちに、いつの間にか憂鬱だった気持ちがほんの少し浮上しているのにふと気がつく。


「大体お前はなー……」


 いつから私の後ろにいたのか分からないけど、桃坂先輩はきっと血相を変えて走る私に気がついて追いかけてきてくれたんだろう。

 なのに何がどうしたんだとか、一言も聞こうとせず遠まわしに慰めてくれる優しさと、話してしまいたいのに話せない自分の情けなさに、私はぎゅっとくちびるを噛みしめた。




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