記憶
マイクの声は多分石川先輩だ。
また見世物になるなんて、ほんと勘弁してほしい。
そう思いながら、体育館の入り口からそおっと中を覗き込んだ。
体育館では文化部発表の幕間時間らしく、壇上では係の人たちが忙しそうにパイプいすを片づけていた。少し前に吹奏楽部の演奏が微かに聞こえていたから、その時使ったものなんだろう。
そして壇上の真ん中でマイクを片手に仁王立ちをしているのは。
やっぱりこの人、合唱部部長、石川芳野先輩。
『来たわね。佐倉さん。さあ入って』
うわ。絶体絶命だ。
入口からこっそり覗いていたのに、見つけられてしまった。
石川先輩、私が体育館に入るまで、あそこで仁王立ちしてるつもりなんだろうか。
どうしようと思った、その時だった。
パイプいすが片づけられた壇上に、静かに合唱部の人たちが現れた。
舞台の上を移動するひそやかな足音。
ざわざわとざわめく会場の空気。
微かに聞こえるピアノの音。
それが重なった時、私の中学での最後の大会が、一気に脳裏にフラッシュバックした。
どう考えても無理だった。
みんなの気持ちはバラバラで、ハーモニーどころかテンポを合わせることもままならなかった。
だけど大会本番は否応なく迫り、焦る気持ちだけが肥大していった。
困惑に満ちた後輩たちの瞳と、不満に満ちた仲間たちの瞳、そして麻友が、私を見つめていた。
「やるしかないよ」
そう言うしかなかった。
「力を出し切って、がんばろう?」
私がもっと頭を下げればよかったんだろうか。
もっと熱意を持ってかき口説けば、みんなは私についてきてくれたんだろうか。
それとも。
私の存在がなければ、創部以来初の地区大会敗退という不名誉な結果を残すことにはならなかった?
気が付いたら両のこぶしを力いっぱい握りしめていた。
体の表面はぞっとするほど冷たいのに、体の中は焼けるように熱い。
心臓がまるで頭の中心にあるみたいに、ぐらぐらと脳を揺さぶった。
「芳野。時間よ。マイクを置いて」
静かな理子先輩の声で、私は我に返った。
いつの間にか石川先輩の隣に、厳しい顔をした理子先輩が立っていた。
一瞬、二人の視線がぶつかり合う。
すぐに石川先輩は肩をすくめ、理子先輩の言う通りマイクを下ろした。
ぐらぐらと定まらない視界に、自分の場所に戻っていく理子先輩と石川先輩が映る。
合唱が、はじまる。
何も考えられなかった。
そこにいたくなかった。
ただそれだけだ。
私は体育館にくるりと背を向けた。
「逃げるの? 佐倉さん」
体育館を後にしようとした私の背中に突き刺さる、マイクがなくてもよく通る石川先輩の声。
心臓をぎゅっと掴まれたようだった。
苦しくて思うように息ができない。
私は振り向くことさえできずに、その場に凍りついた。
「どこまで逃げ続けるの?」
そう言ったのは石川先輩の声なのか、自分自身の心の声なのか。
頭の中、うるさいくらいに自分の心臓の音が鳴り響く。
「佐倉?」
誰か、石川先輩ではない声が私の名を呼んだような気がした。
その途端。
氷の呪縛が一気に解けた。
弾かれたように、私は駆け出していた。




