トリックアート
高校の美術部にいた俺は、大学に進んでも、相変わらず美術部にいた。
美術部の部室の壁には、部屋にさらに奥行きをもたらすような絵がかけられている。
本当の部屋より倍以上大きく見せるためだ。
この絵がとても好きで、俺は大学でも美術部にはいると決めた。
部員は俺を入れて5人。
しかも1年生は俺一人で他の先輩はみんな女性だ。
「何で男がこないんでしょうね」
俺は、同じ部室内で油絵を描いている副部長に聞いた。
部屋の中には、油の匂いが充満していたために、少しでも新鮮な空気が吸いたくて、俺は窓を全開にして、出来る限り窓寄りで水彩画を描いていた。
「そりゃあ、美術に興味がないからでしょう。たまにくる風変わりな人以外は」
「俺って風変わりなんですか」
「そうかもね。でも、ここに来てるし、私は別に構わないと思うよ」
副部長は、絵筆を止めて、俺を見た。
「この美術部って、大学ができた時に創設されたんですって。その時から、男子の数は多くても5人程度だったらしいわ。女子の人数は、その10倍ほどあった時代もあったらしいから、昔から男は美術部に来なかったみたいね。だから気にする必要はないわよ」
「気にする必要がないのは分かりました。でも…」
「でも?」
副部長にこのことを言ってもいいのかどうかが分からなかったが、ここまで言ったのだから、最後まで言う必要があるような気がした。
「実は、大学に入ったら彼女ができたらいいなって考えてたんです」
その時点で、副部長は吹き出して、大笑いをした。
「笑わなくてもいいじゃないですか」
俺は少し拗ねたように、副部長から目線を外し、窓の外を見た。
腕を組んで歩いて行くカップルが見える。
ちょっとした並木道になっているそこを歩く彼らを、とてもうらやましく思いながら見ていた。
「私も大学入った頃には、彼氏が欲しいと思ってたんだよ。でも、2年も経つと、だんだん分かってくるんだよね。この大学に、私と付き合いたいと思う人って、きっといないんだって」
「そんなことないです!副部長は、とても可愛らしいと思います!」
俺は泣きそうになっている副部長をはげまそうと思って、勢いで言った。
「そうかな」
「そうですよ。胸だって大きいし、スタイルだっていいし。付き合いたいなら副部長とがいいです!」
はっきり言えば、俺の好みはもうちょっと胸に小さな人なのだが、ここまでくれば些細な問題に思えた。
ちょうどそこで部長がやって来た。
「おはよー。あれ、2人だけ?」
何も言わずに、普通に接してきた。
あんな大声を出したのだから、聞こえていても不思議じゃないと思ったが、どうやら聞こえていないようだ。
俺は何も言わずに少し硬くなった絵の具を洗うために、パレットを持って部室から出て行った。
副部長は俺に何かを言おうとしていたが、俺は聞かなかった。
翌日、授業が終わって昨日の続きをしようと、気まずく思いながらも、足は自然と美術部の部室へ向かっていた。
ドアノブを回し、部室へ入ると、部長と副部長がいた。
「おはようございます。今日は部長早いんですね」
「ええ、ちょっとあってね」
思い当たる節がいくつかあったため、何で怒られるのかということが分からなかった。
だが、その内容のヒントとして副部長がいるということらしい。
ということは、考えられるのは昨日の出来事ぐらいだった。
「あの絵、どんな種類の絵か分かる?」
部長は俺を椅子に座らせてから、あの壁にある絵を指差した。
「トリックアート。トロンプルイユです」
「そ。日本語では騙し絵とか言われているわね。人間の脳が目からの情報を誤って認識することを利用した絵ね。これは人の心理にも当てはまる」
一気に本題へ入るようだ。
「人の心は、自らが好ましい方向に騙されるという傾向があるの。昨日の会話は、全部聞こえてたわ。あれは、副部長を慰めるだけに言ったのか、それとも本心か。答えて」
ここがこれからを大きく左右する決断ということは、はっきりとわかる。
「俺は…」
正直に言おうとする心と、副部長へといったことを真実にしてしまおうかという心が揺れ動いている。
そんな俺を見透かすように、部長は俺の目をじっと見つめてくる。
副部長の表情は、俺がいるところからは見えない。
顔を伏せてながら俺の言葉を待っているようだ。
「俺は、副部長のことが好きです。正確に言えば、そのスタイルと性格が好きなんです。付き合えるものなら付き合いたいです」
俺は、真実を覆い隠し、嘘を言った。
「だそうよ。どうするの」
部長は今度は副部長へ聞いている。
「……付き合う」
やっと出した声は、か細かった。
部長は、俺と副部長を交互に見て、最後に言った。
「わかった、二人とも、幸せになりなさいね」
それから、部長は用事があると言い残し、部室から出た。
俺は、再度副部長に聞いた。
「付き合って、もらえますか」
「ええ、付き合ってもいいです」
やっとあげた顔には、涙の跡とともに、笑顔があった。