伍・導
「はぁ……、はぁ……」
皐月が普段の状態で全速力で走ったとしても、風と火の妖怪である遊火に追いつくことは出来ない。
しかし韋駄天の力を使うことで、同等か、それ以上の速さで行動することが出来る。
だがその力は十二分に発揮されておらず、皐月は力が途切れたように息を荒くしながら、警察病院へと案内する遊火を追いかけていた。
「大丈夫ですか? 皐月さま」
遊火は疲れを見せている皐月を気遣って、スピードを弱めようとしたが、「私に構わないで! 全速力でお願いっ!!」
皐月は遊火にそう云う。
逢いたいという気持ちが直に伝わると同時に、言ってもきかないと感じた遊火は、皐月に気を使うように、スピードを気付かれないよう緩めながら警察病院へと案内した。
警察病院が見えてくるや、遊火は止まった。
「どうしたの?」
遊火は指で病院の門を指さした。
そこには警備員二人が門の前に立っており、遊火が裏側の方を見に行くと、そちらの方も同様だと皐月に伝えた。
「気配は消せないんですか?」
「――ちょっとやってみる」
皐月は深呼吸し、精神を統一させる。
ゆっくりと気配を消していき、病院の前を素通りしようとすると、
「ちょっと、君? こんな時間に何をしてるんだい?」
門の前に立っていた警備員の一人に呼び止められ、皐月は驚いた表情で彼を見やった。
「えっと……、今から帰るところで」
「君、まだ中学生だろ? こんな遅い時間に外で歩いてるなんて……」
警備員が皐月に職務質問をしている中、もう一人の警備員がトランシーバーを手に持ち、連絡を取ろうとした時だった。
皐月たちの前に一台の車が停まり、そこから見知った老人が姿を見せた。
「お勤めご苦労さん。ん、どうしたんじゃ?」
「佐々木のおじちゃん?」
皐月がそう云うや、佐々木刑事は皐月を見るや、驚きを隠せないでいる。
「皐月ちゃん? どうしてこんなところに……」
佐々木刑事は少しばかり考えると、皐月が病院に来た理由を悟る。
「この子は私の知り合いの孫でな。多分ジョギングしておって道に迷ったんじゃろうよ。私が家まで案内するから、お前たちは引き続き警備の方よろしくな」
佐々木刑事はそう云うや、皐月の背中を押しながら、車へと乗り込ませる。
車は走り出し、病院から少し離れたところで一度停まった。
「あ、ありがとうございます。佐々木のおじちゃん」
皐月がそう礼を言うと、佐々木刑事は皐月をミラー越しに見る。
「それにしても久しぶりじゃな? もう会わなくなって何年も経つというのに、私の事を覚えていてくれたんじゃな」
皐月は記憶を取り戻したことで、拓蔵が家に連れてきたことのある警官の事を思い出していた。佐々木刑事もそのうちの一人である。
「それで、病院に来た理由は大宮のことじゃろ?」
そう云われ、皐月は答えるように頷いた。
「しかしこんな時間に来るとはな。もう面会時間は過ぎておるんじゃよ?」
佐々木刑事は車のデジタル時計を指さしながら言った。時間は午前一時になろうとしている。
「先輩は、皐月ちゃんが病院に来ている事は知らんと言った顔じゃが、黙って出てきたって感じじゃろ」
佐々木刑事は車の窓を開けるや、タバコを一本吹かした。
「朽田健祐を襲ったのは――皐月ちゃんじゃな?」
佐々木刑事がそう訊ねると、皐月は一瞬途惑ったが、「はい」と小さく答えた。
「まぁ、大宮が襲われた事による逆上が理由ならば、正当防衛になるからなぁ。下手をすれば皐月ちゃんだってただじゃすまなかった状況じゃったろうし」
佐々木刑事は車に設置されている無線の電源を切る。
「皐月ちゃんが朽田健祐を襲ったというのは、警察の中では阿弥陀と私、湖西主任とある一部の人間以外は知らんはずなのじゃがな」
「どういう事ですか?」
「目の前で大宮が襲われた時、感情が起伏が激しいお前さんのことじゃ、自分の感情とは裏腹に力が暴走してのことじゃろ? そもそも、あれだけボロボロになった朽田健祐が生きているはずがないんじゃよ。それは最後の最後で皐月ちゃんが暴走を食い止めたということになるんじゃが?」
そう云われ、皐月は自分の左手を見やった。
「朽田健祐が倒れておった場所にコンクリート塀があってな。その塀に拳くらいの大きさがある血の跡が発見されたんじゃよ」
それを聞くや、皐月はハッとする。
それならば、自分の血液がそこに付着しているため、すぐに感付いても可笑しくないんじゃと思ったのである。
「しかしなぁ、誰の悪戯か、その血は朽田健祐のものだったんじゃよ。まるで上塗りしたようにな」
「でも攪拌すればすぐわかることじゃ」
「湖西主任も当然そうしたんじゃがな、先日起きた連続放火事件の究明に回されておってな、そっちに手がいってないんじゃよ」
「それなら部下に頼めばいいんじゃ?」
「皐月ちゃんの言う通りなんじゃがな、まるで上自体が皐月ちゃんを庇っているとしか考えられんのじゃよ」
「それって、いったい……」
皐月が考えるように俯くや、佐々木刑事は車を発進させる。
「野中虚空というのが上におってな、その人物がどうも焦臭いんじゃよ」
その名を聞くや、皐月は肩を震わせた。その異常なまでの震えを見て、「やはり皐月ちゃんと大宮くんを酷い目に遭わせたのは、それが原因か……」
佐々木刑事は少しばかり考えると、皐月に一枚の紙を渡した。
車の天井に備わっているライトを点けると、橙色の光が車内に広がる。
皐月は佐々木刑事から受け取った紙を見るや、顔を歪ませた。
『野中虚空 名前以外詳細不明』
という文字のみが書かれているだけである。
「これって、いったい……」
「先輩のコネでな、公安部の一人にお願いして調べてもらったんじゃよ。そしたらな、そもそも野中虚空という名前以外、まったくといっていいほど詳細が不明なんじゃ。むしろいるのかどうかもわからん」
佐々木刑事はゆっくりと車を警察病院の裏口に停めた。
「皐月ちゃんはちょっとそこで待っとれ、ちょっと話をしてくるだけじゃから」
そう云うや、佐々木刑事は車から降り、門の前で警備をしている警官二人に話をすると、警官二人はそそくさと正門の方へと駆けていった。
「よし、皐月ちゃん、降りてきてええよ」
佐々木刑事が車の窓を叩きながら言う。
「あの人たちは?」
「さっき皐月ちゃんが正門の方で職務質問されたじゃろ? それをちぃと利用したんじゃよ」
それって言い返せば、私にとっては不利なことになるんじゃ?
と皐月は思ったが、伽藍堂となった裏門は誰もいない。
「ここの警備員は田原先生の知り合いでな、事情を話せば入れてくれるじゃろうよ」
佐々木刑事はそう云うや、裏門を開けた。
「これ以上は私は見ておらんからな」
「ありがとうございます。佐々木刑事」
皐月は背筋を伸ばし、深々と頭を下げるや、急いで警備室まで走った。
「まったく、一体誰に似ておるんじゃろうか……。行動に関しては爺さん譲りか、性格は婆さん譲りじゃろうな」
佐々木刑事はそう云うや、タバコを一本吹かした。
「佐々木刑事? いったい何があったんですか? 表に行ったら、そんなのいないって」
警備していた警官二人が戻ってくるや、佐々木刑事に訊ねる。
「おや、それじゃ見間違いですかね。正門の近くを通った時、体長二メートルはある大きな虎猫が道路を横切ったんですけどね」
佐々木刑事がそう云うや、警官二人は呆気に取られた顔を浮かべていた。
皐月は佐々木刑事から教えてもらった警備室を探していた。
「あ、皐月さま。あれじゃないですか?」
遊火が指で示しながら言う。そこには窓からぼんやりとした灯りが零れていた。
皐月は意を決して、その部屋へと近付いていく。
コンコンと窓を叩くや、警備員がそれに気付き、窓を開ける。
「あ、はい。ええ、今来たところです」
警備員は電話越しにそう話し、皐月を見やる。
「ちょっと待っててね。いまドアを開けるから」
そう云うや、警備員は警備室のドアを開け、皐月を中に入れた。
「いいんですか? こんなことして」
「ははは……伯母には敵わないからね」
そう言いながら、警備員は大宮巡査が入院している病棟への道順を教え、懐中電灯を渡そうとしたが、「遊火…… 灯りお願いできる?」
「はい、任せてください」
と遊火はドンと胸を叩き、威張りだした。
「そう云うことですから、後は自分たちでどうにかします」
皐月はそう云うや、病棟へと走っていった。
遊火の力で、皐月の周りにぼんやりと明かりが点っている。
「えっと……大宮……大宮っと――」
皐月は、病室をひとつひとつ、入院している患者の名前が書かれているプレートを見ていく。
「大宮……あった!」
皐月はその扉前に立ち止まり、深い深呼吸をする。
そしてドアを引き、中に入るや――――
『――あれ?』
皐月と遊火は部屋の中を見渡した。そこには冷たい風が吹いているだけで、人の気配がしない。
ベッドの上は綺麗になっており、人が寝ていたという痕跡が無くなっている。
引き出しやそれどころか、ベッドの金具にかけられている入院患者の情報を示したカードもない。
「大宮巡査?」
皐月がぼんやりと、大宮巡査の名を言った時だった。
「だ、誰ですか?」
突然遊火以外の灯りに照らされ、皐月は目を細めた。
「ど、どうしてこんなところに女の子が? け、警備員! 警備員!」
部屋に入ってきた看護士の女性が皐月に警戒しながら近付いていく。
「ちょっと待って! ひとつ訊きたいことがあるんですけど!」
皐月がそう云うや、看護士は、「何?」
と聞き返す。
「この部屋に、大宮って言う男性が入院していたはずですが?」
「大宮さん? 大宮さんだったら――亡くなったわよ? 今朝、急にね」
看護士は淡々と説明する。
「……死んだ?」
皐月は看護士の言葉を聞くや、皐月はその場にへたれこむように跪いた。
「ちょ、ちょっと大丈夫?」
看護士が声をかけるようりも先に、皐月はスッと立ち上がり、部屋を出て行った。
「えっと? ちょっと、待って……あら?」
何かにハッとするや、看護士はぼんやりとその場に立ち尽くした。
「あれ……どうしてこんなところにいるんだっけ?」
看護士は首を傾げながら、開けられた窓を閉め、部屋を出て行く。
そして廊下を歩くや、目の前に皐月がソファに座っていたのを、まるでそこに存在していないと言わんばかりに、看護士は素通りしていった。