参・一途
大宮巡査が目を覚ました翌朝、警視庁に意識を取り戻したという連絡が入った。
それを聞いた刑事部の刑事たちは安堵の表情を浮かべていく。
「一応命は取り留めたということか。まったく運がいいやつじゃな」
佐々木刑事は淡々と云うが、
「佐々木刑事、お茶が零れてますよ?」
岡崎巡査にそう言われ、佐々木刑事はハッとするや、自分のズボンを見た。
湯飲みの縁が唇に当たっておらず、ダラダラとお茶が下に零れて落ちている。
「これで、後は朽田健祐を襲った犯人が捕まれば、この件は万事解決じゃな?」
西戸崎刑事は阿弥陀警部を見ながら言うと、阿弥陀警部は少しばかり考えてから、
「すみません。ちょっと出かけてきます」
と言い、刑事部を後にした。
阿弥陀警部が向かった先は稲妻神社や、大宮巡査が入院している警察病院ではなく、全焼した阪野章宅であった。
瓦礫は撤去され、残っているのは無残な空気しかない。その土地を見渡しながら、阿弥陀警部はどうして全焼したのかを考えていた。
他の三件と比べて、この被害だけがあからさまに大きいのだ。
もちろん最初の二件における小火騒ぎも、下手をすれば家を全焼させるほどの危険性があり、油に火が点いての被害に関しても、部屋がひとつ燃えただけという、はっきり云って、運がよすぎるといっていいほどの被害だった。
誰かが意図的にやったのかと、阿弥陀警部は思考を働かせる。家に誰もいない時間帯、そしてその周りに人がいたというのに、誰一人放火犯を目撃していない。
阿弥陀警部はこれがただの火の不始末によるものだとは考えていなかったが、これが火の不始末ではなく、放火によるものだとすれば、それは立派な事件となるが、放火や万引き、痴漢と云った突発的犯行は、犯人が現行犯である以外逮捕する事は出来ないとされている。
もちろん事前にそのような疑いがあり、後日当人に話を聞いたとしても、職務質問とされ、逮捕状がなければ、当然逮捕する事は出来ない。
はたして阪野章は事故死によるものなのかという疑問が、阿弥陀警部の脳裏に引っ掛かっていた。
「おや?」
と、阿弥陀警部が阪野章の家に背を向けた時だった。
目の前から一人の老人が阿弥陀警部の方へと歩み寄ってくる。
「まったく……タバコの不始末つぅんは、物騒なもんじゃなぁ……。肺ガンになる危険性があるのに、未だに吸い続けておるからこうなるんじゃよ」
「失礼ですが、あの家にいた方のお知り合いで?」
阿弥陀警部が老人にそう尋ねる。
「ああ、中毒者にやめろと言って、素直にやめる人間もいれば、馬鹿みたいにやり続ける人間もおるからなぁ。隠れてやっていたなんてのは日常茶飯事じゃろうよ」
老人は、まるで事件の内容を知っているかのような口調である。
「一応皆さんに訊いたところ、ここ最近被害者がタバコを購入したという目撃証言はないんですけどねぇ?」
「あんたも刑事なら、人間の言い分なんぞ信用してはならんぞ――阿弥陀如来?」
老人がそう云うや、阿弥陀警部は咄嗟に老人から間合いを広めた。
「――何のことでしょうかね?」
と、阿弥陀警部は笑みを浮かべるが、その笑みはぎこちないものであった。
『阿弥陀如来……久し振りに自分の名前を聞きましたけど、しかし彼がここに居るとは、いやはやまったく、予想もしてませんでした』
阿弥陀警部はそう考えながら、老人を見やるや、ゾッと悪寒を感じた。
突然老人の顔が眼前に現れ、阿弥陀警部は咄嗟に身をかわした。
「ほうほう、こっちに長くいたせいで、体が鈍っておるかと思うたが――」
老人が指を弾いた瞬間、阿弥陀警部は跪いてしまう。
「くぅっ?」
阿弥陀警部は体勢を整えようとするが、立ち上がることが出来なかった。
それは彼の左足が存在していなかったからである。
阿弥陀警部は傍にあった壁に寄りかかるように立ち上がった。
「それで……、この前、朽田健祐を襲った犯人を、警察が捜しているというのを小耳に挟んでなぁ、あんた知らんか?」
「こちらもその犯人を探しているところなんですよ。あなたも何か知っていたら……」
阿弥陀警部が訊ねるや、老人は再び指を弾いた。
阿弥陀警部の両足が存在しなくなり、ゆっくりと倒れるどころか、無理矢理体を地面に叩きつけられるように倒される。
「あがぁっ!」
「好い加減、呆けるのは止めにせんか? 阿弥陀如来……」
「ご丁寧にどうも。あなたみたいな人が『こちらにいる』こと自体が可笑しいんじゃないんですか?」
阿弥陀警部がそう言うと、老人は三度指を弾く。
「げぇほぉっ!!」
突然阿弥陀警部は吐血し、目を虚ろにさせる。
「がはぁっ! げぇっ! ごほぉっ!!」
「人間の姿に権化するには、それ同様の組織細胞と、それを維持するほどの力が必要じゃろうが? 権化になっている状態では塵芥同然の存在じゃからな。五臓六腑のうちひとつでも意識から亡くしてしまっただけでその有様とはなぁ」
老人は笑みを浮かべながら説明する。その表情は禍々《まがまが》しく、見るものを不安にさせるものであった。
「さて、わしの質問に答えてくれんかなぁ。朽田健祐を襲った犯人は誰なんじゃ?」
「……さっきも云った通り、私たち警察も犯人の行方を――」
「知っているから訊いておるんじゃろうが? ガタガタ理屈吐いておると身を滅ぼすぞ?」
老人が再び指を弾こうとした時だった。何者かが近付く気配を感じ、老人は舌打ちをする。
「今日はこの辺にしておこうかのぉ……何を理由にしておるかは知らんが、わしの片割れがやったことを見てみぬふりをし続けるのは好くないと思うがなぁ?」
そう云うや、老人はスーと姿を消した。
「はぁ……はぁ……」
と、阿弥陀警部は荒い息を整え、ゆっくりと深呼吸する。
『足は……よかった。忘れてはいないようですね』
阿弥陀警部は自分の両足を見て、ホッと息を吐く。
「阿弥陀警部?」
少女が阿弥陀警部に駆け寄り、容体を確認する。
「おや、自分の役割はきちんとした方がいいんじゃないですかね? まだ大宮くんは安静にしていなければいけないんでしょ?」
阿弥陀警部はそう言いながら、地面に座りなおし、壁に凭れかかった。
「いったい、何があったんですか?」
「虚空蔵菩薩が……あなたの片割れがやってきて、訊ねたんですよ。朽田健祐を襲った犯人は誰なのかってね」
それを聞くや、少女――瑠璃は表情を強張らせた。
「虚空蔵菩薩が? どうして今頃になって」
瑠璃はガタガタと肩を震わせる。
「先日のキャンプで、あの人と会っているとは思ってもいませんでしたが、もしかしたら大宮くんが襲われた本当の理由は……」
阿弥陀警部はそう言いながら、瑠璃を見やった。
「あの子達の精神を壊すため――?」
瑠璃がそう訊ねるや、阿弥陀警部は少しばかり考え、小さく頷いた。
「私はあなたが選んだ事をとやかく言いませんし、死んでいない弥生さんたちが賽の河原にいたのを助けたのは、家族ならば助けるのが道理でしょうからね」
「わたしは――彼を愛している事だけは偽りを持っていませんが、そのせいであの子達を」
「あなたが六年前に起きた転落事故について全く調べられないのはやはり」
阿弥陀警部が尋ねるが瑠璃は返答に困っていた。
「それはわかりませんが、おそらくそう考えてもいいでしょう」
瑠璃は手を握り締める。強く握り締めていたせいか、手の内から血が零れ落ちている。
「どうして……、罰を受けなければいけないのは私だけのはずです? だからこそ、私は自分が人間に権化していた時の記憶を拓蔵だけにしか残さなかった!」
瑠璃の目からは大粒の涙が溢れ出している。
「虚空蔵菩薩は、その事を赦さなかったんじゃないんでしょうかね?」
阿弥陀警部にそう云われ、瑠璃は表情を歪ませた。
「それで、どうします? 大宮くんが意識を取り戻したというのを報せに行こうと思っていたんですけどね」
「それは遊火にお願いしてます。ただ、それを聞いた皐月がどう反応するかわかりませんが、嫌な予感しかしませんね」
その言葉に阿弥陀警部は表情を曇らせた。
――瑠璃の心配は奇しくも的中する形となってしまった。