弐・鬼胎
鬼胎:心中ひそかに抱くおそれ。
『今日の夕方、警視庁所属の刑事が何者かによって襲撃に遭いました。犯人は朽田健祐(25)。犯人は逃亡中、何者かに襲われ、現場に駆け付けた警察によりますと、朽田健祐は瀕死の状態でしたが、辛うじて息をしていたとの事です』
時計の針が夜十一時を回り、テレビに映っているニュースでは、淡々と記事を読んでいくキャスターが映っている。
それを弥生と葉月は睨むように見詰めていた。
『襲われた刑事は重傷を負っており、ただいま警察病院で治療中。回復次第詳しいことを訊……』
葉月がキャスターの言葉を聞き終える前に、半ば乱暴にリモコンでテレビの電源を切った。
「大丈夫だよね? 大宮巡査……」
葉月は今にも泣き出しそうな表情で弥生と拓蔵に訊ねる。
「湖西主任の話だと、大宮くんが重症を負っているとは云っておったが、問題は何故襲った朽田健祐が生きていたかということじゃな」
拓蔵は朽田健祐を襲ったのが、暴走した皐月である事に気がついていた。
「皐月さんが宿している摩訶迦羅が、何かしらの理由で呪詛もなしに現れたということでしょうか?」
煙々羅が聞き返すように言う。
煙々羅は大宮巡査が発見される前に皐月を神社に帰していた。
それは彼女が犯人ではないかという疑いから逃がすためであると同時に、グチャグチャになった左手の治療をするため、神霊の力が強い本堂へと早く連れていきたかったためである。
「皐月お姉ちゃん、大丈夫なの?」
「何とか骨の形状、細胞組織の再構成を終え、今は修復した体に馴染みはじめたといったところですが――」
葉月の問い掛けに、煙々羅は少しばかり俯いた。
「ただ、今回皐月さんは自分の意思で摩訶迦羅の力を得ていないので、今後力を使おうとすれば、拒絶反応があるかもしれないんです」
その言葉に弥生と葉月は首を傾げた。
「その力が失っている危険性があるかもしれんということか?」
「今はご自身の部屋で安静されていますが、神霊の力はただ使うものの力が強ければいいというわけではありません。『心技体』という言葉があるように、今の皐月さんは大宮巡査が目の前で襲われ、自分のせいで重症を負ってしまったという恐怖心がありますから」
煙々羅はそう云うや、皐月の部屋がある方へと見やった。
「弥生。皐月が全快するまでは警察からの依頼を断ってくれんか?」
「わかってる。皐月はそうだけど、葉月も気持ちが揺らめいていて、とても霊視が出来る状態じゃないしね」
弥生はそっと葉月をうしろから抱きしめた。
「大丈夫よ。大宮巡査はあの時、他の刑事たちが逃げていく中、ひとりだけ残っていたんだから。ああいうのは神様に護られているか、ただの馬鹿かの両極端しかないんだから」
葉月は直接見ていないのですぐにはわからなかったが、舞頸と皐月が川で対峙していた時の事を弥生は話した。それに付け加えるように「本当だったら掠り傷で済むはずがない」とも云った。
そんな会話を知ってか知らずか、皐月は自分の部屋の隅で布団に丸まり、膝を抱えて震えていた。
その姿はもはや見られるものではなく、近くで見ていた遊火は、自身も泣き出しそうな表情を浮かべていた。
「それじゃ、行ってくるね」
一両日経ち、皐月が家の玄関から学校へと出かけるのを弥生が呼び止める。
「皐月、怪我大丈夫なの?」
本当は怪我の事よりも精神を心配しての事であった。
「大丈夫よ。あれくらいの怪我、半日で治るから。それにあと少しで夏休みなんだし、休めないでしょ?」
皐月は笑みを浮かべながら言うと、そのまま神社を後にした。
「――遊火」
弥生にそう呼ばれ、遊火は姿を現した。
「あの子が元に戻るまで見守っててくれる? 姉妹だからってわけじゃないけど、あなたも皐月が無理してるのわかるでしょ?」
そう云われ、遊火は頷き、無数の火の玉となって外へと出て行った。
皐月は力の弱い妖怪や幽霊を感じることはできても、視野に入れる事が出来ない。
遊火なら偵察に出すには丁度いいと弥生は判断してのことであった。
――その日の夕方、何事もなく皐月は普段と変わらない様子で帰宅するや、誰もいない本堂で二天一流の稽古をし、夕食を終え、風呂に入り、自分の部屋で学校の宿題を終えていく。
――が、寝る時だけは部屋の隅でガタガタと震えている。
「わたしのせいだわたしのせいだわたしのせいだわたしのせいだわたしのせいだ……」
表情は虚ろで、唇は震え、譫言を呟いていた。
みんなの前では普段の自分を装っている皐月を見るに耐えられなくなった遊火は、大宮巡査が入院している警察病院へと消えた。
当然の事であるが夜中という事もあり、病室の電気はもちろん、窓も開いてはいなかった。
大宮巡査の病室が見える窓まできた遊火だったが、窓が開いていなければ中に入ることが出来なかった。
鬼火は霊とも云われており、それにより妖怪と幽霊の間に位置されていることが多い。
皐月の代わりに一目だけでも大宮巡査の容体を見たかった遊火は窓を睨みつけ、消えようとした時だった。
「何をしてるんです? 遊火」
病室の方から聞きなれた声が聞こえ、遊火はそちらに振り返った。
何時の間にか病室の窓が開いており、遊火は恐る恐る病室を覗き込んだ。
「え、閻魔さま?」
月明かりに照らされた病室の中にはひとつのベッドしかなく、そこに大宮巡査が眠っている。
その傍らに丸椅子が置いてあり、瑠璃はそれに座っていた。
「皐月は……」
と、瑠璃は皐月の様子を遊火に訊ねようとしたが、遊火の表情を見て、大丈夫ではない事を悟った。
「閻魔さまはどうしてここに?」
遊火は首を傾げながら、瑠璃に尋ねる。
「私は、忠則くんの監視をしているだけですよ」
「どういうことですか?」
遊火がそう聞き返すや、瑠璃は掌を目の前に掲げた。
すると何もない空間が裂け、そこから大きな鏡が現れ、「浄玻璃鏡?」
と、遊火は呟いた。
「あなたも知っての通り、この鏡は死者が生前に行った全ての事を見る事が出来ます」
浄玻璃鏡の役目を知ってはいるが、それが何なのだろうかと遊火は思った。
「先ほど私はこの子の監視をしていると云いましたよね? それは不意の事故だったとはいえ、彼が妹を殺した事に変わりはないんです」
その言葉に遊火は大宮巡査を見やった。
「彼は溺れ沈んでいく妹を見殺しにし、それを見ていないという妄語を吐いた罪により、『大叫喚地獄・唐希望処』へ連行される事は決まっているんです」
瑠璃は、その事を大宮巡査に話してはいないと言うが、彼が罪を償っていけば多少なりとも罪は軽くなるだろうと付け加えた。
「だから、僕は妹が好きだったおまわりさんの道を選んだ」
その声を聞くや、瑠璃と遊火は大宮巡査を見やった。
「気が付きましたか?」
と、瑠璃は大宮巡査の意識を確認する。
「ええ、おかげさまで……。まぁ、好い加減起きないと妹に怒られそうだったので」
「えっ? っと……」
遊火は言葉の意味がわからず、釈然としない表情で首を傾げる。
「夢に出てきたんですよ、妹が……。いつも世話焼きでね。起こす時、よく僕のおなかの上で跳ねながら起こしていましたから」
「いい兄妹ですね。だからこそ、彩奈はあなたを怨まなかった。本当に大好きだったのと、あなたは潜水が苦手で、だから自分を助ける事が出来なかったというのがわかっているからでしょうね」
と、瑠璃は安心させるように笑みを浮かべる。
地蔵菩薩とも言われている閻魔王は、地獄裁判のない時は六道へと足を運び、救われない衆生や、親より先に死んだ幼い子供の魂を救っている。
賽の河原で獄卒たちに虐められている子供の霊を守るという、最も弱い立場の人々を最優先で救済する菩薩と言われている。
結局衆生は何かしらの罪を背負いながら、転生していくのを知っているからこそ、瑠璃はどんな形であれ、子供を見守る事が何よりも好きだった。
だからこそ、大宮巡査が見ていた夢の内容を聞き、自然と笑みが零れていたのだ。
「怪我の具合は大丈夫ですか?」
「ええ。まだあちこち痛いですけど、もしかしてあの時、閻魔さまが護ってくれたんですか?」
大宮巡査は朽田健祐に襲われた時、死ぬかも知れないと思っていた。
「いいえ、私は何も……ですが、人の想いを宿したものには、不思議な力があるんですよ」
そう言いながら、瑠璃は視線を壁にかけられた上着へと向けた。
上着には財布が入っており、大宮巡査は体を起こし、それを出した。
「妹が助けてくれたんでしょうか?」
大宮巡査の問い掛けに、瑠璃はただ笑みを零すだけである。
大宮巡査の財布に一枚の写真が入っている。そこには楽しそうに笑っている兄妹の姿があった。
HPとタイトルが違うのは、読み返して、当てはまらないと判断したからです。あと遊火が壁を通り抜けられないのはそういう力がないからです。ようするに風が壁の向こうにすり抜けられないのと一緒。