拾壱・逆鱗
事件解決から三日後の事であった。
身柄を拘束された政所涼子は曽根崎歩夢殺害の犯行を認めたと、三姉妹は大宮巡査から聞かされた。
元々は健祐と歩夢は付き合っており、涼子と本来くるはずであった翔太はキャンプに参加していたが、歩夢の度重なる我儘に嫌気が差し、とうとう堪忍袋の緒が切れたという。
涼子は歩夢に協力して欲しいと車の中で会話をし、睡眠薬の入ったジュースを飲ませた。
歩夢は眠りこけてしまい、涼子は犯行のために、皐月が説明したトリックを実行したと証言したと大宮巡査は説明した。
そんな事があったとは何も知らず、また証拠不十分となっていた健祐は、昨日釈放されたが、涼子に至っては死刑確実ではないかという事も説明した。
――その日の夕暮れ、弥生に買い物を頼まれた皐月は、駅前のスーパーで買い物を済ませ、帰ろうとしていた。
「皐月ちゃん!」という大きな声が聞こえ、皐月はそちらに振り返った。
「大宮巡査?」と皐月は首を傾げる。
話を聞くと、大宮巡査は最近はじめたランニングの途中だと言う。理由は体力つくりだと大宮巡査は皐月に説明した。
「買い物かい?」
「はい。お肉とおしょうゆを。いいジャガイモが百姓の人からもらえたから、今日は肉じゃがだって」
「へぇ、僕もご馳走になってもいいかな?」
大宮巡査がそう尋ねると、皐月は少しばかり笑みを浮かべ、
「多いにこしたことはないですし、日頃お世話になってますから。大丈夫だと思いますよ」
「それじゃお邪魔しようかな」
大宮巡査はそう云うや、ジッと皐月を見つめた。
「どうかしたんですか?」
「いや、君が現場に来たとき吃驚したんだ。今回の事件、僕の力だけでやらなければいけないと思っていたから」
大宮巡査の言葉を聞くや、皐月は少しばかり視線を空へと向けた。
「瑠璃さんに怒られたんです。執行人である以上、自分のしたことにも目を背けてはいけない。私が弥生姉さんや葉月を巻き込んでしまったことを」
皐月はそう云うや、少し躊躇いながら、ゆっくりと大宮巡査を抱きしめた。
「あの時、大宮巡査に抱かれた時、凄く懐かしかったんです。まるでお父さんに抱かれてるような気がして」
皐月は悪い夢や恐い事があると、すぐに父親に抱きついてしまうほどの恐がりであった。
『寄らば大樹の陰』という言葉と同じで、そうすることで気が落ち着き、安心出来たからである。
しかし、今皐月が抱きしめているのは父親ではなく、大宮巡査であることだけは皐月自身わかっていた。
そんな皐月の行動に、大宮巡査は戸惑いを隠せないでいた。
いや、彼も皐月を同様に失った妹である彩奈に面影を重ねて抱きしめたのだから……
「皐月ちゃ…… っ――――?」
大宮巡査が声を止めた。
不思議に思い、皐月は大宮巡査の顔を見やった。
大宮巡査は目がカッと大きく開いており、口はワナワナと震えている。
「お、大宮巡査?」
皐月は声をかけるが、大宮巡査は視線を皐月にではなく、自分のうしろに向けた。
「はぁ…… はぁ…… はぁ……」と荒い息が聞こえてきた。
「お、お前は…… 朽――田…… 健すぅけぇ……」
大宮巡査は震えた声で言った。
「ど、どうして?」
「あんた達が悪いんだ。せっかくせっかく殺して、あいつの持ってる金品を全部俺と涼子のものにしようと思ったのによぉ」
健祐は目を大きく開き、大宮巡査の背中に刺したナイフを引き抜いた。
血飛沫が飛び散り、健祐の顔は真っ赤に染まる。
「あんたらが悪いんだ。あんたらがあそこにいなけりゃ……」
「そんなの運が悪かったで済むんじゃないの?」
皐月がそう云うや、健祐は手に持ったナイフを高々と振り上げた。
「あいつがいないんじゃ、俺はこの世にいても意味ねぇんだよ」
健祐は振り上げたナイフを皐月目掛けて切りつけようとした。
皐月は避けようとしたが、それが出来なかった。
切り付けられようとした皐月の目の前で、大きな背中が現れていた。
「くぁああああああああああああああっ」
その声を聞くや、健祐はナイフを捨て、路地裏へと逃げていった。
「大宮巡査? 大宮巡査ぁ?」
皐月が大声でそう呼びかける。
「だ、大丈夫かい? 皐月ちゃん」
大宮巡査の体は痙攣しているにも拘らず、自分よりも皐月のことを心配していた。
「私は切られても、何日が経てば治るの知ってるんじゃないんですか?」
「ああ。だけど…… わかっていても守ってやらないといけないだろ?」
「そんな、そんな勝手な理由で!」
大宮巡査は皐月の頬を撫で、あふれ出している大粒の涙を指で拭った。
「僕は妹を守れなかったんだ。助けられたはずなのに僕は……」
大宮巡査はそう云うや、ガクンと体を落とした。
皐月は自分の中にあった忌々しい過去を思い出していた。
それは奇しくも六年前、転落した車の中で皐月が父親にされた時と全く同じものであったからだ。
「―――― 大宮巡査?」
皐月は目の前で起きた事が理解できなかった。いや理解しようとしていた。
皐月の目の前には、大切な人の、真っ赤に染まった体が横たわっていた。
「いやぁああああっ!!」
皐月は悲鳴を挙げ、大宮巡査の体にしがみつく。
「いやぁっ! 大宮巡査! やだぁ! 死なないで! 死なないでぇ!」
皐月は半狂乱となっている。
皐月が顔を上げると、先ほどまで健祐が使っていたナイフが地面に捨てられていたのが視界に入った。
――――皐月本人の記憶はそこで途絶えた。
手を真っ赤に染めた健祐は逃げるように路地裏を走っていた。今はただ家に着くまで誰一人出くわしたくないからである。
「はぁ…… はぁ…… んっ?」
目の前に誰かが立っており、健祐はとっさに近くにあった電柱に隠れた。
息を殺し、気配が健祐に近付いているのを肌で感じる。
気配はスーッと消え、健祐はそれを確認し、一度深呼吸をして、その場から離れようとした時だった。
健祐は背後から誰かに押され、転倒する。
「な、なにしやがるっ?」
健祐が怒鳴るが、それは有無を言わさずに健祐の体を蹴り飛ばした。
「な、なんだよ? なんだってんだよ」
健祐は這い蹲りながら、ソレから逃げようとした。
しかし、逃げれるわけがないのだ。人間とソレとは格が違いすぎるのだから。
健祐を決して殺そうとはしない。ソレは痛めつけるために態と殺そうとしていなかった。
身勝手な理由で目の前で大切な人を傷つけられて――皐月が黙っているわけがなかった。
同じ事が以前あった。それは葉月が犯人に襲われようとしていたときである。
しかしこの時、皐月の瞳は殆どないといえた。
曇っていたのだ。まるで濁ったコンタクトレンズを入れたかのように――
「た、助けてくれ・・・ 助けてくれぇっ!!」
健祐の悲鳴とともに、グチャリという鈍い音が夕闇に小さく響き渡った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
皐月の帰りが余りにも遅く、心配になった弥生が遊火に様子を見に行くようにと命令し、遊火は神社からスーパーへの道のりを空から追っていた。
「あら、遊火じゃない?」
「エンちゃん? どうかしたの?」
目の前に現れた煙々羅を遊火は親しく話をする。
「瑠璃様から大宮巡査は何をしているのかって、気配が消えたっていってたし」
「私は皐月さまの帰りが遅いから、弥生さまにお願いされて」
遊火がそう言った時だった。
ゾワッという、背筋が凍りつくほどの禍々しい気配を感じ、遊火と煙々羅は気配がしたほうを見やった。
「い、今のって…… 妖怪? ううん違う、この感じ瑠璃さまや浅葱さまに近いものがあった」
瑠璃は閻魔王であり、橋姫である浅葱は、『浅葱橋』に建てられた祠に祭られた神である。
「でも、こんなにいやな感じはしないはずだよ?」
遊火がそう言うや、煙々羅は急いで気配のしたほうへと流れていった。遊火もその後を追った。
煙々羅と遊火は気配がした場所へとやってくると、二人とも目を背ける仕草を見せた。
直視できないのだ。
朽田健祐の骸はボロボロになっており、顔の骨はグチャグチャに腫れており、腕と足はまるで別の生き物といわんばかりにありえない方向に曲げられている。
「あ、あああ……」
かすかに声が聞こえ、煙々羅と遊火は互いを見やった。
この状態で生きているとは思えなかったのだ。
「どうしてこいつがこんな目に?」
煙々羅が少しばかり考えるや、
「遊火っ! 急いで拓蔵さんたちに知らせて! 私は皐月さんを捜してみる」
そう云うや、煙々羅はスーッと姿を消した。
煙々羅は皐月が遊火を見ることが出来ない事を知っており、遊火を向かわせても意味がないと判断しての事だった。
遊火は困惑しながらも、拓蔵を現場へと呼び、その数分後には警察が現場へと駆けつけていた。
警察が健祐のところに着く少し前の事である。
「あ、いた。皐月さ……」
煙々羅が皐月を見つけ、近付くや、その異様な空気に唖然としていた。
そこには血塗れになって倒れている大宮巡査と皐月の姿があった。
「お、大宮巡査? どうして? 一体誰が?」
煙々羅が血塗れになった大宮巡査に近付こうとすると、
「やぁ…… こないでぇ…… こないでぇ……」
大宮巡査を抱きしめていた皐月が譫言を言う。
その光景は幼い少女がくるものを拒んでいるようなものであった。
皐月の左手はグチャグチャに潰れており、そこからも血が流れていた。
「さ、皐月さん。私ですっ! 煙々羅ですっ!」
そう声をかけると、皐月の瞳は徐々に光を取り戻していた。
「一体何があったんですか?」と訊ねたが、皐月はいま自分が置かれている状況がわかっていなかった。
そう…… 朽田健祐を襲っていた時の記憶などもっていなかった。
これは彼女自身が都合よく記憶をなくしているのではない。
もうひとつの―― 皐月の体に宿っている神の仕業なのだから……
第十一話終了です。そしていい具合に最終回へと続きます。