玖・凍解
大宮巡査は湖西主任に連絡を入れ、皐月の考えは正しいのかを訊ねていた。
皐月は携帯の裏側に耳を近付ける。
かすかではあるが電話の内容が聞こえていた。
『面白い発想じゃが、それは無理じゃな。ドライアイスは氷点下七八・九度の極低温物質でな。保存するにもそれ以上低いところでないと熱で溶けてしまうから保存できん。クーラーボックスどころか、一般家庭の冷凍庫にだって保存する事は先ず無理なんじゃよ』
それを聞くや、皐月は申し訳ない表情を浮かべた。
『じゃが、普通の氷はどうじゃ? これくらい葉月ちゃんでもしっとると思うがね?』
「普通の氷? あっ……!」
皐月は何かに気付き、自分の携帯を開いた。
「昨夜の気温―― 夜中の気温は十六度だから、車の中はそれよりも下…… クーラーをかけていたとしたら、車の中の気温はそれよりも下になるんじゃ?」
皐月の言葉が聞こえたのか、湖西主任が『普通の氷ならクーラーボックスに入れることも、かちわりじゃったら、買いに行く事も可能じゃろうな』と伝える。
「後はそれをどう証明するかだけど…… さすがに僕の力じゃ」
犯人がどうやって殺害したのかと言うトリックがわかったとしても、それを照明するためのものを準備する事は難しいことである。
『わしもそれは無理じゃな。上の許可をもらわんといかんし、何より犯人の目星はついても、証拠がなければ何も出来まいよ?』
皐月もそのことはわかっていた。
「でも、あの人たち、一泊で帰るだろうし、私たちも今日帰る予定だから」
それまでに犯人を捕まえたいと思っていた。
「でも、あの車が彼らの乗っていたものなのかという証明も出来ないし…… ナンバープレートも燃えて変色してしまっているからね」
レンタカーのみならず、ナンバーブレードは所有者証明書という意味があるため、誰のものなのかというのは調べればわかる。
「一応車種はわかるんですよね? ワゴン車くらいの大きさだったから」
「それはね。でもワゴン車といっても多種多様だから細かいところまでは。それに、それを半日で調べようと思うのも……」
大宮巡査はその先を口にしなかった。無理だとわかっているのは皐月だってわかっていると感じたからだ。
「皐月ちゃんの考えが証明できればいいんだよね?」
「えっ? あ、はい。でもそれをするには」
皐月は躊躇う仕草をする。
「僕が借りて来た車は4WDだけど、MTなのは覚えてる?」
それを聞くや、皐月は小さく声を挙げると同時に……
「やめてっ! 下手すると死ぬかもしれないんですよ?」
皐月はこのトリックを実験するのは危険極まりない事だと言う事は想像できていた。もちろんそれは大宮巡査自身もわかっている事である。
しかし証明する方法はそれしかないのだ。
大宮巡査は皐月の頭を撫でながら、「大丈夫だよ」と一言いった。
皐月は一瞬だけ身震いを覚えた。
「あんた、警察の人間だったんだな?」
ふと大宮巡査に声をかけてくる男性がおり、大宮巡査と皐月はそちらに振り向いた。
そこに立っていたのは朽田健佑と政所涼子であった。
「警察がこんなところで油売ってていいのかよ? こっちは人捜してるっていうのに」
健祐が愚痴を零す。
「ああ。貴方たちにひとつ訊きたい事があったんです。昨夜不信な車が山を下っていったという目撃証言がありましてね。その車は貴方たちのものかもしれないというらしいんですが?」
大宮巡査がそう健祐と涼子に訊ねる。もちろんそんな証言はなかった。
「不信な?」と涼子が聞き返す。
「ええ。ワゴン車のようでしたので、所有されている各家庭に訊いて回っていたんです。そうしたら、貴方たちの車だけ駐車場にないことがわかったんですよ」
「不審な車は俺たちが乗ってきたやつだってのか?」
「ええ。まぁ、そうなりますね」
大宮巡査の言葉を聞くや、健祐は少しばかり考える。
「それって、さっきから騒いでる転落事故と関係あるのか?」
「いやそれはまだ。所有物でしたら、現場に連れていきますが――」
大宮巡査がそう尋ねると、健祐はお願いしますと答えた。
それから小一時間経っての事だった。
大宮巡査は鑑識にお願いして、遺体の写真を一枚もらい、それを葉月に霊視してもらっていた。
葉月は何度も写真を手で摩り、死者の声を聞こうとするが――
「だめ…… 全然聞こえない」
「聞こえないって…… そのままの意味?」
弥生がそう尋ねると、葉月は答えるように頷いた。
「つまり被害者は死ぬ直前、皐月ちゃんの考えと同じ状況だったってことか」
「皐月お姉ちゃんの考えだと、被害者は眠らされた後、サイドブレーキをかけておらず、そのトリックを使えばって事になるからそうなのかもしれない」
葉月は何度も霊視をしながら、問答する。
「でも、もしそれが可能だとしたら、計画以外のなにものでもないわよね?」
「ええ。だからこそのMTだろうし、だからこその殺害方法なんだと思う。だって、素人じゃアクセルとブレーキの場所は知っていたとしても、対処は出来ないでしょ?」
皐月はそう云うや、煙々羅を見やった。
「煙々羅、被害者の周りに不信なものはなかったのよね?」
「ええ。まず被害者はシートベルトをしていなかった。首を絞められたり、刺された形跡もない。それに皐月さんの考えがあっていたとしても、それを証明するものは、文字通り蒸発してしまっている」
「打つ手はなしということですか?」と瑠璃が尋ねる。
「いえ、転落したさい、遺体が運転席から離れていなかった事が不自然なんです」
煙々羅の言葉を聞くや、皐月と大宮巡査は互いを見やった。
「それって、動かなかったんじゃなくて、動けなかったってことになるんじゃ?」
「眠っていた状態でも転落し、車が横転してしまえば、少なくとも動いているはずだろうし…… それじゃ、縄で縛っていたって事になるんじゃ?」
「でもそれだと縄の痕がつくんじゃ」と海雪が訊ねる。
「だからこその火事なのよ。死体は焼け爛れていて、皮がボロボロになってた。それって遺体の身元をわからなくする以上に、縄の痕を消すためでもあったんじゃない?」
「だったとしても、それをどうするかですね? 全部が燃えきらなかったら―― 煙々羅。シートベルト以外、不信なものは何もなかったんですよね?」
瑠璃の問い掛けに煙々羅は頷く。
「若しかしたら…… でもそれだったら片方は気付くはず」
大宮巡査の小声が聞こえたのか、葉月がそれに対して問いかけた。
「いや、ちょっと思い出したんだけど――」
大宮巡査は考えを皐月たちに説明した。
「その方法なら可能じゃない? 転落した時はまだ被害者が眠っていた。そして車の中で火事が起きる。転落してドアは変形してしまって出る事が出来ない。車の中に煙が蔓延してそれを吸い込んでしまった」
「そして被害者を縛っていた縄にそれをしていたとしたら、なるほど、すべては燃えてしまうというわけですか?」
弥生と瑠璃が驚いた表情で納得する。
「でもこれは証明しようにも…… 他のやつなら可能なんですけど――」
大宮巡査がその先を言おうとしたときだった。
「君かい? 大宮巡査というのは」
駐車場のあるほうから老人がゆっくりと皐月たちの方へと近付いてくる。
「え、ええ。そうですが…… あなたは?」
「そうじゃね。名乗るには先ず自分の名前を言うのが先か…… わしの名は野中虚空というものなんじゃがな、ちょっと話を聞く限りじゃと、そのトリックを証明したくても出来んようじゃな?」
老人、野中虚空は少しばかり笑みを浮かべながらそう訊ねる。
「え、ええ。大まかな部分は出来るんですが……」
「どうじゃろうな? その犯人と思われる人物には後で遺体確認をしてもらって、殺害方法を証明する実験は明日すると言うことで」
その言葉に大宮巡査はもちろん、皐月たちも驚いていた。
――が、ただ一人、瑠璃だけは怯えた表情で野中虚空を睨んでいた。
「どうしてそんな事が出来るんですか?」と皐月が訊ねると、「いやいや、ただの余生がない爺の暇つぶしじゃよ」と野中虚空は笑って答えた。
その後、朽田健佑と政所涼子は遺体確認のため警官らに遺体が置かれている死体安置室へと案内された。
そして遺体は行方不明となっていた曽根崎歩夢本人であることが判明された。