捌・可能性
太陽が真上に昇ろうとしていた頃、車の中で燻っていた火が全て消え、漸く救命活動が行われた。
事故現場を見ていた野次馬の誰一人、車の中にいる人間が助かっているとは思っていなかった。
あれだけ長時間炎の中に閉じ込められていたのだ。助かっていたらそれこそ奇跡である。
当然その期待は裏切らなかった。
救命士が車の扉をバールでこじ開け、中から出したのは、髪が燃えてなくなった頭皮を晒した焼け爛れた女性の遺体であった。
そして今にも腐り落ちそうにボロボロになった足が晴天にさらされた。
女性の遺体と直ぐに判明したのは、女性特有の大らかな胸のふくらみがあったからである。
「警視庁の大宮と言うものですが、少し遺体を見せてくれませんか?」
大宮巡査は遺体を運び込む救命士たちを呼び止め、死体の確認をさせてほしいとお願いする。
救命士も相手が警官という事で躊躇なく遺体確認をさせた。
「被害者の持ち物は車の中に?」
「いえ、それはまだわかりません。なにせ今調べ始めたところですから」
救命士はそう云いながら、頻りに死体の足元を見ていた。
「どうかしたんですか?」と大宮巡査が尋ねると、
「いえ、私たちは交通事故の現場に出動することも度々あるのですが、ハイヒールを履いての運転は特に危険視されているはずなんです」
「まぁ、僕も車を運転しますから、危険性は知っていますが」
「ええ。本来は足全体を使って踏み込むんですが、ハイヒールの場合、踵のヒールによって支えられているとはいえ、実際は爪先立ちで、運転する場合も爪先に力が集中されるんです。それによって力が均等に入らず、ブレーキが踏まれていなかったと見解しているのですが」
救命士の言葉に大宮巡査は首を傾げた。
「ただ、車が走ったと思われる道はゆったりとした坂道でして、余程のスピードを出さない以上、ここまで飛ぶとは考えられないんです」
そう云われ、大宮巡査はうしろの崖を見上げた。
その距離はおよそ十米ほどである。
ゆっくり落ちたのならば飛び越える力がなく、ましてやガードレールにぶつかり、その場で止まっていた可能性がある。
つまりここまで飛び出すには余程のスピードで下らなければいけないのだ。
そしてそうするには踏み込みが必要となる。
「被害者が自殺したとは考え難いですね」
大宮巡査の言葉に救命士の二人は首を傾げるが、直ぐにその真意に気付く。
「ええ。確かに車を運転できる人なら、事故の危険性のあるハイヒールを履くとは考え難いですし、運転する際、履き替えるものなんですけどね」
車の中を探していた監察員が出てくるや、大宮巡査は何か見つかったのかと訊ねる。
「いえ、特に何も…… CDやカセットなどはありましたが、事故の原因になるものは何も」
発見されたものは全て車の中に入っていても可笑しくないものばかりであった。
「大宮巡査?」
「こらっ! 危ないじゃないか? 一般人が入ってきては」
うしろの方で大宮巡査を呼ぶ声が聞こえ、それを警備していた警官が止めている。
「あ、いいんです。その子は知り合いですから」
そう云うや、大宮巡査は警官に説明し、皐月を現場へと入れた。
「皐月ちゃん、体の方は大丈夫なのかい?」
大宮巡査はそう尋ねると、皐月は今にも倒れそうなほどにフラフラであった。
「うん。ごめんなさい…… それでやっぱり自殺なんですか?」
「いや、僕は自殺ではなく他殺と見ている。先ず、車を運転しているからこそわかるんだけど、自分が事故に遇う原因を作るものは極力下げると思うんだ。女性の場合、ハイヒールなんか特にね。男性だとサンダルかな」
「要するに力が前進にいきわたらないのと、厚底ブーツの場合は引っ掛かってしまって、そのまま猛スピードになってしまうから……ですか?」
皐月の言葉に大宮巡査は少しばかり驚く。
「それって、お父さんから聞いたのかい?」
その問いに皐月は首を横に振る。実際は事件にもなっているのでニュースで知った程度である。
「車の中は調べたんですか?」
「僕はまだだけど、丁度今見ようと思っていたんだ」
それに同行させてほしいと皐月はお願いすると、大宮巡査は有無を云わずに了承した。
車の中は全て燃えており、あるのは鉄の残骸であった。
「これじゃ、証拠があっても見つからないかな」
大宮巡査は半ば諦めムードであった。
「大宮巡査、被害者は車に乗せられて、あのゆったりとした坂をブレーキも踏まずに突っ込んだでいいんですよね?」
「えっ? あ、うん。一応そう考えられるけど。何か気になる事があったのかい?」
皐月はその言葉に答えるように、運転席と助手席の間を指差した。
「サイドブレーキがかかってない」
「つまりブレーキ自体が掛かっていなかった。だけどそれだとスピードは出ても、ガードレールのところで止まっているはずだよ」
それは皐月も違和感を感じた時に気付いていた。しかし、気になっていたものはもうひとつあったのだ。
それは自身が体験しているからこそわかるものであった。
「被害者の体に異変はありましたか?」
「うーん。殺された女性の体に異変ねぇ…… 特になかったけど」
「それじゃ、どうしてシートベルトがバックルに刺さっていないんですか?」
「それは…… 確かにストラップがリトラクターに戻っているままだ。でも、自殺しようとしているのなら付けないんじゃ?」
「確かにそうかもしれませんけど…… でも、まだ可笑しいところはもうひとつあるんです」
それは何かと大宮巡査が訊ねようとしたが、己で気付いた。
「エアバッグが出ていない? 確かエアバックの仕組みは車がぶつかった衝撃で出てくるはずだけど」
「犯人は車の炎上に便乗して、被害者を身元不明にしようとしていた。だからこそ、車を炎上させるほどの距離を飛ばす必要があった」
「だったとしたら、ここまでの距離を飛ぶにはそうとうスピードを上げなければいけなくなる。サイドブレーキを元に戻した状態なら、坂道だから転げるかもしれないけど、ガードレールに引っ掛かるのがオチだ」
ガードレールは歩道を歩いている人を庇ったり、その先の崖などに落ちないようにするための役目がある。
スピードが出ている車が突っ込むとガードレールがへこむということはあっても、突き破るというのは考え難い。
「それをした方法がわかればいいんですけど」
皐月はそう言いながら灰皿の方に目をやる。そこだけ妙に他の場所よりも燃えていた形跡があった。
「もしかすると、火事の原因はこれじゃないんですかね?」
そう言いながら、皐月は灰皿を取り出そうとするが、熱で変形してしまったのか引っ付いている。
「ちょっと退いてください。今パールで取り外しますので」
外で覗き込んでいた救命士の一人がそう言いながら、バールで取り外した。
「やっぱり衝突で火が燃えなかった時のために、あらかじめ潜ませていたんだ」
「でも、これだけじゃ他殺とはいえないんじゃないかな?」
大宮巡査の問い掛けに、皐月はどうしてと聞き返す。
「いや、だって、若しかしたら被害者が吸っていたかもしれないし、女性が煙草を吸うのは珍しいことじゃないしね」
そうなのだろうか……と皐月は思った。
まだ皐月がテントで震えていた頃、煙々羅が瑠璃たちにしていた話では、被害者の女性は昨日川で釣りをしていた朽田健佑の連れの一人だと云っていた。
「大宮巡査。昨日馬鹿みたいな人が川釣りをしていたの覚えてますか?」
「あ、覚えてるよ。それがどうかしたのかい?」
「その人の連れが一人行方不明になっているんです」
「行方不明…… それじゃ、あの死体は」
「多分その行方不明者だと思うんですけど」
皐月はそう言いながら、車から降りた。
「身元を確認しようにも燃えてしまっているからね。犯人はそうするために車を燃やしたと考えるのが自然だね」
「後はどうやって、あのゆったりとした坂から、ここまで飛ばせるほどのスピードを出したのか……」
その方法としてアクセルを踏み続けたという考えは二人とも一緒だった。
「車の種類はMTだったけど…… これって最初っから殺すつもりで選んだんじゃ――」
川沿いにあるテントに戻ろうとした時、ふと皐月が言葉を漏らす。
「つまり車は所有物ではなく、レンタカーだったということかい? まぁ、確かにATだったら、Pにギアを入れておけば坂道を転がる事はないだろうし、そうなるとMTならギアを1にした状態でもアクセルを踏めば―― でも被害者は運転席で見つかったそうだよ」
「被害者自らが車のアクセルを踏んだ…… その方法が――」
その時、同じくキャンプに来ていた親子の声が聞こえた。
「アイスクリームおいしいぃ」
「ほら零さないの。それに日陰にいなさい。アイスが溶けちゃうでしょ……」
小さな男の子がソフトクリームを頬張りながら、母親らしき女性の手に引かれている。
「――アイス?」
「アイスがどうかしたのかい?」
大宮巡査がそう訊くや、皐月は大宮巡査にあるお願いをした。
「そ、そんな方法が? でも、もしそれが可能だとすれば……」
「私、甘い物が大好きだからよくケーキ屋とか、アイスクリーム屋でみんなの分を買う時にそれをもらうんです。あれはお客が家に着くまでの時間を計算して入れている。もしそれをずっとクーラーボックスに入れていたら?」
「でも、相当な量だと思うよ」
「時間なんて適当に云ってしまえばいいんです。要はそれが必要なんですから」
「それじゃ被害者は焼け死んだのではなく…… それが溶け切った際に車内で満たされたそれで死んだということかい?」
大宮巡査は皐月の考えに少しばかり違和感があった。
「夏とはいえ、ここは山だから町よりも涼しいはずなんです。それにクーラーをかけていた可能性だってあるし、犯人が被害者を眠らせて、運転席に乗せた可能性だってある」
「そして犯人は降りる時にサイドブレーキをかけなかった。MTだからこそ出来る方法と言うわけか……」
大宮巡査がそう云っている中、皐月は少しばかり頭を抱える。
大宮巡査はそれを見るや、近くにあったペンチに皐月を座らせた。
「大宮巡査からお父さんの話を聞いて、少しだけ思い出したんです。あの時…… みんなでキャンプに行った時の帰り、目の前から蛇行運転している車が来て、その時はお父さんは難なく避けたんですけど、今度はブレーキが効かなくなって――」
「それじゃ転落した理由って、ブレーキが効かなかったからなのかい?」
「車はATだったから、多分そうだと思います。MTならサイドブレーキをかければいいわけですし。だからこそお父さんは町に下って大災害を起こすよりも、崖の下に落ちる方を選んだ」
ギアをPにしたとしても、ブレーキ自体が壊れていればそれは意味がないことになる。
アクセルから踏み外していても、車は何処まで走り続けるかわかったものではない。健介の判断は何とも無鉄砲な話である。
「それが原因で、君たち三姉妹は半死の状態で生き返ったということか?」
「それを知ってるのは私だけなんです。あの時転落した車の中で気がついたのは私とお父さんだけでしたし……」
皐月がその先を言おうとした時だった。
「――あの時、誰か車の上に乗ったような音が聞こえて……」
「誰かが車に気付いて、君たちを助けようとしたんじゃ?」
大宮巡査の質問に皐月はわからないと答える。
(それはないと思う。もし助けようとしていたのなら、私に睡眠薬みたいなものを吹きかけない。それに私や弥生姉さん、葉月を残して、お父さんとお母さんだけを車の中に出した理由も――)
皐月は心の中で呟いた。