漆・些細
昨夜、大宮巡査と別れ、テントの中で眠っていた皐月は、大宮巡査から自分の父親である初瀬神健介の話を聞いたことで、奥底に眠っていた記憶が夢という形で現れていた。
それは昔の――皐月がまだ小さい秋の頃であった。
秋の涼しい風が優しく吹いている中、そこだけはまさしく興奮の坩堝と云わんばかりに熱気で満たされていた。
一定の間隔に空けられたスタートライン(グリッド)でエンジンを蒸かしているF1マシンから伝わってくる振動と緊張感。
エンジンによって熱せられたアスファルトからのぼってくる蜃気楼。
そして何よりも、それを見守っている観客たちの興奮が、より一層この固定された世界を際立たせていた。
スタートシグナルが赤に変わるや、ブレーキを押したまま、アクセルを踏み込んだかのように、先程とは打って変わって、エンジンの音が激しくなっていく。
ゆっくりと赤が増えていき、そしてランプが消えるや、マシーンは一斉にスタートした。
「お父さん、頑張れぇ!」
観客用スペースのフェンスをよじ登るかのように身を乗り出し、まだ小学校に上がったばかりの皐月が必死になって応援していた。
そのうしろでは弥生と葉月、そして母親である遼子が並んで椅子に座っている。
遼子の隣が皐月の座る場所なのだが、終始興奮していたため、レース中は殆ど座っていなかった。
レースも終盤に差し掛かる最終周回。そのトップを走っているF1マシンが最終コーナーに差し掛かろうとしていた。
そのうしろにはおよそ百米離れて、二台のF1マシンが追尾しており、その一台が初瀬神健介の乗るF1マシンであった。
「さぁて、今日もこれで終わりかぁ…… ったく、初瀬神も期待させんなよなぁ、いっつも二位どまりじゃねぇかよ」
うしろで野次を飛ばす男性を皐月はキッと睨みつけた。
言葉の意味はわからなくとも、ただ単純に大好きな父親が馬鹿にされたことを幼心に感付いてのことだった。
「なんだぁ、このくぅそがきぃ」
先程野次を飛ばした男が皐月を睨みつけた。
――が、それを遼子が割って入って男性を宥め始める。
「うちの娘が失礼なことを云って申し訳ございません」
「あ、あんたの娘だったんかい? 誰の応援かは知らねぇけどよぉ? 少しは躾たほうがいいぜ?」
「ええ…… ですが、あなたみたいに他の方が応援している選手を馬鹿にする事をなんとも思わない子に育てた覚えはありませんよ」
遼子の声はそれこそ物静かな口調であったが、聞いた人間にとっては喧嘩を売っているとしか言いようのないものであった。
「くっ……」
男性はその言葉に少したじろいた時だった。
周りの歓声がそれこそレース中とは比べ物にならないほどの騒々しいものに変わったのだ。
「いっけぇっ! お父さんっ!!」
皐月の応援する声が最高潮に達した時だった。
健介のマシンが唸りを挙げるようにスピードをあげながらコーナーへと入ろうとしていた。
目の前は緩やかなカープではあるが、それでもトップを走っているマシンが内側を攻めているため、感覚的にはスピードを落とさなければ、曲がるときに重力が掛かり、横に流されてしまう。
下手をすればコースから外れるが、運が良ければクッション代わりに積まれたタイヤの壁にぶつかってしまう。
運が悪ければそれは即死を意味する。まさに自殺行為である。
トップを走っているF1マシンがコーナーを曲がりきった時だった。
そのマシンに乗るレーサーは突然背筋が凍るものを感じたのだ。
まるで自分のレースはその一瞬の奇跡への序章であり、そして噛ませ犬だったのかと……
うしろからまるで獣のような唸り声が聞こえ、それは一瞬に遠く前方へと消えていった。
チェッカーフラッグが激しく振られ、観客は最高潮の歓声を挙げた。
『わ、私たちは夢を見ているのでしょうか? 最終コーナーを本日最高速スピードで曲がりきった選手を…… 私たちは目撃したのです』
実況アナウンスの声が興奮を抑えようとしている。
『た、ただいま入りました情報によりますと、初瀬神健介選手のマシンが、最終コーナー付近から入るまでのスピードは380キロ。そしてコーナーを曲がり切り、最後の直線では――370キロと…… 殆どスピードを落とさずにコーナーを曲がりきっています』
アナウンスが終わるや、その結果を聞いた観客たちが歓声を挙げた。
レースが終わり、授賞式。一位の場所には健介の姿があった。
「それでは優勝の初瀬神選手。今日はすごいレースでしたね」
会場アナウンサーが健介にマイクを差し出す。
「ええ。もしいつものとおり、あのまま安全に運転していたら、いつもと同じよくても二位止まりだったかもしれません。でも、今日は家族が見に来てくれていましたし、何より娘の応援が聞こえていたんです」
アナウンスを聞いた皐月はキョトンとする。
確かに応援はしていたが、この騒音の中聞こえていたとは思っていなかった。
勿論、実際に健介の耳に届いていたわけではない。
が届いていたのだ。皐月が必死になって応援しているその熱意が――
そしてそれがあの最終コーナーに置ける暴走を奇跡へと繋げたのだから……
『だから僕は勇気が出たんです』
ゆっくりと夢から現実へと意識が引き上げられていく。
大宮巡査から父親の話を聞いた皐月は、先程の夢が現実に起きたことであることだと気付いてはいなかった。
しかし、まだ幼い自分が必死に父親を応援していたことだけは、そして父親が最後に云った言葉だけは薄らと思い出していた。
その夢から覚め、起き上がろうとした時、弥生から山火事だと教えられ、それが車の転落事故であることを知り、皐月はトラウマに首を絞められるかのように、恐怖に戦いていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
皐月を心配しながらも、大宮巡査・弥生・葉月の三人は転落事故があった峠へと来ていた。
事故の事を聞きつけた他のキャンプ客がそれこそ野次馬のように群がっている。
「すみません。警察のものです。道を開けてください」
大宮巡査が警察手帳を取り出し、野次馬たちに見せる。
消防車と救急車が峠近くで停まっており、消化活動と救命活動を行なっていた。
車の周りは炎と化しており、それを消そうと消防車から放出される消化剤の含んだ水によって周りが蒸気で見えなくなっていく。
「あれ? あの煙……」と葉月が大宮巡査の袖を引っ張って教える。
その先には紫色した煙が意思があるかのように、火の車に入っていった。
――それから数分後、海雪から戻るようにと言われ、弥生と葉月は何事かと首を傾げながら、テントに戻った。
そこには瑠璃といまだに膝を抱え、ガタガタと震えている皐月の姿があった。
そして瑠璃の隣には紫色の長髪をした死装束を着た少女の姿があった。
その容姿は皐月よりも幼く、十一、十二ほどの印象があった。
「煙々羅? それじゃさっきの煙って……」
葉月がそう言うと、煙々羅は小さく会釈し、瑠璃から頼まれた事を皆に報告した。
『車の中に女性の遺体がありました。恐らく昨日皆さんがお会いした朽田健佑とその連れである政所涼子と一緒にいた女性と考えて間違いないでしょ』
「車はその健佑のものと考えて間違いないでしょうね」
煙々羅と海雪の話を聞くや、
「それじゃ、歩夢さんが自分で運転したってこと? でも健佑さんの話だと免許持っていないって」
弥生はそう云うが、実際その証言を信じているわけではなかった。
『それとひとつ気になったことがありまして』
「気になること?」
『些細なことかもしれませんが……』と煙々羅は先を言うのを躊躇う。
「自分が気になったことは、どんな些細なことでも話しなさい。それが事件解決になる切っ掛けになるかもしれないのですから」
瑠璃にそう云われ、煙々羅は少し深呼吸をするような仕草をする。
『殺された被害者ですが、皆さんとお会いした時、ハイヒールを履いてましたよね? いくらキャンプにハイヒールを履いてくる馬鹿だったとしても、まさか車を運転するというのに、躊躇いもなくハイヒールを履くものでしょうかね?』
煙々羅が顔を歪めながら言う。
「つまり、運転していたんじゃなくて、座らされていた。そして何かしらの方法で車を崖から落としたということでしょうかね?」
瑠璃は葉月を見遣る。先程お願いした霊視が出来たのかと訊ねたかったのだ。
しかし葉月は何も感じなかったと説明する。
「若しかしたら、眠らされていた……と考えるのが自然じゃない? 葉月の力は霊が最後に聞いた音を聞くことだから」
「だとしても、どうやって車を発進させるの?」と弥生が訊ねる。
「うーん。私あんまり詳しくないからね。まぁそういうのに一番詳しいのがあの状態だし」
海雪が隅っこで座っている皐月を見遣った。
皐月は皆の会話に参加せず、ただただ震えているだけだった。