弐・腹痛
稲妻神社の、境内から少し離れた場所には、参拝客用にと設けられたトイレがある。
広さはそれほどではないが、男女それぞれに個室が三部屋備えられている。
「――はぁ……」
女性用の方から小さな溜息が漏れた。その声の主は皐月である。
彼女はこの神社に住む三姉妹の次女で、もちろん実家である母屋にもトイレはあるのだが、今現在、なぜ彼女が態々境内の方を使っているのかというと――。
事の発端は家のトイレの水漏れが酷く、修理のため三日ほど使えなくなったせいである。
男である神主は立ちションで小を済ませられるが、女性である三姉妹はそうは云ってられなかった。
元々このトイレ、特に女子トイレの方はあまり使いたくなかったのが皐月の言い分である。
その理由は――
『出ませんように……出ませんように……』
まるで祈るように用を足すと、皐月は急いで下ろしていたショーツとジーンズを上げる。
水を流し、ドアノブに手を掛けた時だった。
うしろから何かが動く気配を感じるや、皐月は声のない悲鳴をあげた。
彼女は大黒天の力、いや破壊神の化身である摩訶迦羅の力が使える。
しかしそれは妖怪に対しての力であって霊には何の意味もなかった。
このトイレに住み着いているのも妖怪と云えば妖怪なのだが、皐月は小さい頃からこの正体の見えない音が怖かった。皐月は逃げるように個室から出て行く。
――音を鳴らしていた妖の正体は【家鳴】という悪戯好きの小鬼であった。
慌てて出てきたせいで手を洗っていない事に気付くと、少し考えながらも家で洗えばいいかと好い加減な自問自答をした直後だった。
皐月はお腹に違和感を感じ、お腹を摩る。
女性特有と云えばそうなのだが、それが来たのはつい先日の事だった。普通だったら少なくとも一ヶ月くらい後の話で、それが妙に不快感を与えている。
痛みがある訳でもなく、吐き気を催している訳でもなかった。
ただ、妙に腹回りを押されているような感触がする。――それも中から……。
再びトイレに入ろうか悩んだが、別に催している訳でもなく、少し休めばどうにかなるだろうと、皐月はあっけらかんと結論を出した。
その後夕食を済ませ、二天一流の稽古も終えて就寝。深い眠りに落ちていた時だった。
水が落ちる音が耳元からこだましている。
部屋の窓側に頭を向けて寝ているので外で雨が降っていると最初は思った。――が、普通だったら耳元ではなく、枕元から音がしてくるはずである。
皐月は寝返りを打って横を向いている訳でもなく少し眼を開けると天井が見える。
仰向けになって寝ていると云う事の証拠である。そもそも皐月は耳が悪く、本来ならば雨の音自体が聞こえない。
それならこの音は?
と思いながら皐月は起き上がろうとしたが、金縛りにあったかのように身動きが取れなくなっていた。
声を出そうにも首を絞められているかのように出せなかったが、幸い眼だけは動かせた。
ゆっくりと音がする方を見ると……。
身が焼け爛れた嬰児を抱いた女性が、じっと皐月を見下ろしていた。
が、皐月はなぜか彼女が殺意を持っているようには感じられなかった。
スーッと女性が消えると首を絞めていた苦しみも消えたと同時に、皐月を抑えつけていた何かも消えていた。
皐月は一、二度ほど深呼吸すると、机の上においてある時計を見た。
時間は午前二時四三分……。俗に云う丑三つ時である。
さきほどの事ですっかり目が覚めてしまった皐月は本殿へと行き、静かに坐禅を組んでいたが、あの女性がどうも気になってしまい集中出来なかった。
福祀町の中心から少し離れた場所に、田原産婦人科病院という、古びた病院が建っている。
そこの診察室には、一人の女性と向かい合うように真剣な表情を浮かべた老婆がいた。
「返して! わたしの子供!」
女性は怒声を放ち、老医師に食い下がる。
「あんた……西条祐子さんじゃったな。残念じゃけど、あんたのお腹に子供は最初からおらんかったよ」
老婆は突き放すように告げた。
「う、うそよ! そんなの嘘! だって私の、私のお腹の中にはあの人の……間宮雄太の子供が」
女性――西条祐子はワナワナと震えながら云った。
「すまんな……、子供を失った悲しみはわからんことではないが、最初からおらん子供に対しての哀れみも、それを偽って男を繋ぎとめようとしたあんたの気持ちに対して微塵もないよ」
老婆はそう云うや看護士を呼び、西条祐子を外に追い出した。
「よろしいのですか?」
老婆のうしろに小さな影が現れ、そう尋ねる。
「彼女が本当に子供が欲しいと思っていたのならば、あんな非道なことはしないさ――。でも、彼女は想像妊娠で、ちっともお腹に違和感を感じんかったよ」
老婆は自分の手を見ながら云う。「さすがといいますが――」
小さな影は寂しそうに言う。
「あんたも少しは顔を出したらどうなんだい? あまり会ってないんだろ? 旦那さんに――」
「出きればそうしたいですけど、こちらも色々と忙しいですからね」
小さな影は苦笑いを浮かべるや、スーと姿を消した。