伍・心的外傷
心的外傷:外的内的要因による衝撃的な肉体的、精神的ショックを受けた事で、長い間心の傷となってしまうことを指す
大宮巡査と皐月、葉月の三人は川の水を使って米をとぎ、それを飯盒に入れていく。
Y字になっている二本の木の枝に飯盒の弦に潜らせた棒を引っ掛け、火にかけていく。
ご飯を炊いている間、大宮巡査は皐月と葉月を草叢の方へと連れていき、あることをしていた。
「なにやってるの?」
葉月にそう訊かれた大宮巡査はナイフと先が細く削られた木の枝を持っていた。
「この枝を使って、そこに生えている葉っぱの裏に好きな言葉や絵をかいてみてごらん」
そう云われ、葉月と皐月は何のことかわからず、いわれた通り葉っぱの裏に各々好きなものをかいていく。
もちろん墨などついているわけもなく、一応何をかいたのかは本人しかわからないが、傍から見ればただ傷を付けているだけにしか見えない。
「これって何か意味あるの?」
文字を書きながら、皐月は大宮巡査に尋ねる。
「それは秘密さ。それにしてもこんなところにモチノキがあるなんて、佐々木刑事に感謝しないとなぁ」
「佐々木刑事?」
葉月が首を傾げ、そう尋ねる。
「先輩の刑事さんだよ」と大宮巡査は答えた。
「それで葉月ちゃんは何をかいたんだい?」
大宮巡査が尋ねると、葉月は皐月を一瞥する。
「えっと? 私がどうかしたの?」
「ううん。なんでもない」
そう云うや、葉月はそそくさと弥生たちのところへと戻っていった。
「変な子……」
「そういう皐月ちゃんは何をかいたんだい?」
「特に何も……」
そっけなく云うや、皐月も弥生たちのところへと行く。
(出来る限り、彼女たちにはいい思い出として覚えていて欲しいな…… あの事故を塗り替えれるとは思えないけど……)
大宮巡査が三姉妹をキャンプに連れてきた主旨は、六年前の事故に関する何かを、このキャンプを通して知ることにある。
しかし、楽しそうにしている三姉妹を見ていると、自分がやっていることは間違いではないだろうかと後悔している大宮巡査であった。
「あなたのやってることは間違いではありませんし、今回の主旨は六年前の事故で何があったのかを知ることにありますからね」
何時の間にか大宮巡査の横に立っていた瑠璃がそう話す。
「瑠璃さんも結構楽しんでるじゃないですか?」
大宮巡査は笑いながら云った。瑠璃は焼けた鮎を手にもっており、それを小さな口で頬張っている。
「それにしても、この鮎、結構脂がのってますね。脂がのっている魚は海川関係なしに美味ですよ」
「えっと閻魔さまって、料理とかに詳しい妖怪でしたっけ?」
大宮巡査が首を傾げる。
「結婚式場では皐月たちの目の前でしたから他人行儀みたいなことをしましたが、やはり警察官の道を選びましたか」
「ええ。妹が犬のおまわりさんを好きだったので」
「本当だったら、車関係の仕事をしていたでしょうに…… 辛くないですか?」
瑠璃は申し訳なさそうな顔を浮かべる。
「妹は――元気にしてるんですか?」
「元気に――死んだ人間にその言葉は当てはまらないと思いますが、今も賽の河原で石積みをしていますよ」
「僕は地獄に落ちるんでしょうね」
「それは……私が言えることは――今もその罪を背負って生きていくのなら、罪は多少軽くなると思います。あなたはその罪を償っているのですから」
「そう云ってもらえると、少し気が晴れました」
瑠璃と大宮巡査が会話している中、ゴトゴトと何かが音をしだす。
「そういえば、飯盒に火をかけていたんじゃないんですか? そろそろ蒸したほうがいい頃合でしょう?」
瑠璃にそう云われ、大宮巡査は軍手をはめるや、飯盒を火から離し、裏返した。
飯盒にかけていた火に水をかけると蒸気が夕闇の空にのぼっていった。
「大宮巡査ぁっ! ごはん炊けた?」
弥生が大声で呼びかける。
「少し待ってて、今蒸しているところだから」
「今、魚で小腹を満たしてるところだけど、早くしないと葉月怒りますよ! この子結構食べますから」
「ちょ、ちょっと弥生お姉ちゃん?」
葉月は顔を真っ赤にしながら、弥生にパタパタと殴る。
「い、痛っ! ご、ごめん! ごめんって……」
そんな二人を見ながら、皐月と海雪は魚をくわえながら、笑を零していた。
「今はただ純粋に、このキャンプが楽しめればいいんじゃないですかね?」
瑠璃はそう云うや、飯盒を手に取り、弥生たちのところへと持っていった。
晩食を終え、皐月たちは少しばかり焚き火をしていた。
大宮巡査がバッグからグレープフルーツの皮が入ったビニール袋を取り出す。
「見てて、今面白いことしてみるから」
大宮巡査がそう云うや、後片付けをしていた弥生と皐月、釜戸にしていた場所を綺麗にしている瑠璃と海雪、大宮巡査の隣に座っている葉月が、大宮巡査が手にもっているグレープフルーツの皮を見やった。
「今から花火が火の周りに上がるからね」
そう云うや、大宮巡査は皮に含まれている汁を火にめがけてかけた。
すると火の周りにパチパチっと音が鳴り、まるで花火のように見える。
「葉月ちゃんもやってみるかい?」
大宮巡査から皮を渡された葉月は、汁の出し方を教えてもらい、火に目掛けて、噴出させる。
「――キラキラ……」
皐月がそう呟くと、
「皐月、どうかした?」
「ねぇ、私たちも前にあんなことしなかったっけ?」
「覚えてないけど、学校の実験とかでやったんじゃないの?」
弥生は首を傾げながら聞き返す。
「う、ううん。私たち一回アレやってる―― お父さんに教えてもらって……」
「皐月? 私たちのお父さんは……」
弥生が声を荒らげながら、その先を言おうとした時だった。
「ちょっとぉ、健佑ぇっ! それってどういう意味?」
「るっせぇなぁ! もういいだろ?」
「よくないわよ! 歩夢とはもう終わったんじゃなかったの?」
喧嘩をしているのは昼間川釣りをしていた健佑とその連れの女性である。
「ったく、翔太もなんで急にドタキャンしてるんだよ」
「ちょっと、人のせいにしてんじゃないわよ!」
女性は健佑に何かを投げぶつけるや、駐車場の方へと去っていった。
「ったく、んっ?」
苛立った健佑が大宮巡査たちをみやった。
「あんたらぁ! なぁに見てんだよ?」
と、イチャモンつけながらも、健佑は駐車場の方へと去っていった。
――皐月の威勢のいいハリのある声が山中に響きわたる。
長短二本の竹刀を手に持ち、一糸乱れぬその形は舞であると言えよう。
「こんな時でも鍛錬は欠かさないんだね」
二つあるテントの内、ひとつは三姉妹用に、もうひとつを瑠璃と海雪のために設置しており、大宮巡査は駐車場に停めている車の中で寝ようとしていたのだが、瑠璃の提案で外で見張りをするようにと言われ、寝袋で寝ようと準備をしていた。
「えっと…… 今何時ですか?」
皐月は手を休め、大宮巡査に尋ねた。
「んっとね…… 十時を回ったくらいかな」
それを聞くや、皐月は自分が寝る予定のテントを見やった。
「葉月、今日の事、すごく楽しみにしてたんですよ。あれしたいこれしたいって―― いつもは寝つきが悪いのに、すんなり寝ちゃって――」
「それだけ今日のことが楽しかったんだろうね」
大宮巡査は笑いながら話す。
「今日は本当にありがとうございました。また誘ってくれませんか?」
「別に構わないけど……」
大宮巡査はその先を言おうとしたが、少し躊躇う。
「どうかしたんですか?」
「い、いや……」
動揺を隠せていない大宮巡査の表情を見るや、皐月は顔を歪めた。
「いや…… 妹も生きていたら、君と同じくらいだったのかなと思ってね」
「――妹? 大宮巡査って妹さんがいたんですか?」
「うん。いるというより、『いた』と言ったほうがいいね」
その言葉の意味に、皐月は少しばかり首を傾げた。『いた』というのは過去形だからである。
大宮巡査はテーブルのそばに置いていた折りたたみの椅子を二つ手に持ち、川辺近くに並べる。そのひとつに自分が座り、もうひとつに皐月を座らせた。
「実は今日、このキャンプに君たちを誘ったのは、君たちのお父さんとお母さんの事故について何かわかるんじゃないかと思ってね」
「お、お父さんと……お母さんの?」
事の真意を聞くや、皐月は声を荒らげる。
「ああ。だから今回のキャンプ、神主は大反対していたんだ」
「爺様なら仕方ないと思いますけど…… でも――どうして大宮巡査がお父さんとお母さんのことを知ってるんですか?」
皐月がそう訊ねると、大宮巡査は空を仰いだ。
「君のお父さんである初瀬神健介は、有名なF1レーサーでね。僕が小さい頃、もっとも尊敬していたレーサーだったんだ。それが六年前のある日、つまり君たち三姉妹が転落事故に遭ってから、まるで『存在そのものがなくなっていた』んだ」
「――存在そのものが?」
「さっきも言った通り、君のお父さんは有名な選手でね、F1中継の番組で見ない日はないっていうくらいの人で、特に大きな大会にはほとんど出ていたんだ。そんな人が突然出場しないのは、誰だって不思議に思う。だけど、事故に遭ったという報道もなければ、行方不明になった報道さえなかった」
皐月は大宮巡査の話を聞きながら、自分の記憶を探っていた。
――が、まるでモヤがかかっているかのように、両親の記憶がほとんど思い出せないでいる。
「僕が思うに、君たちの記憶は二通りあると思っているんだ」
「二通り?」
「ひとつは外傷的記憶障害。転落のさいに頭をぶつけてしまい、脳に異常をもたらした場合による記憶障害。そしてもうひとつは内傷的記憶障害。これは外傷ではなく内傷…… つまり心に対しての障害による記憶障害…… 云ってしまえばトラウマを消すことによって、なかったことにすることだ」
「でも、私たちはどこも……」
皐月は戸惑いを隠せず、ただアタフタとする。額には汗が流れている。
「皐月ちゃん…… 君はあの事故があった瞬間。本当は犯人を見てるんじゃないのか?」
「わ、私が? どうして? どうやって?」
皐月は体を震わせながら、顔を俯かせる。
「事故があった車には君たち三姉妹しか乗っていなかった。最初は両親が助けを求めに麓の民家に行ったのだろうとされていたそうだけど、先ず両親の行方がわからなくなってしまった。一ヶ月ほど散策を続けたそうだけど、二人を示すものは何も見つからなかったそうだ…… そして、助手席に座っていた君を誰が助けたのかということも未だにわかっていない」
「わ、わたしが助手席に座っていたのを、誰かが知ってるんですか?」
「いや、それは僕の想像でしかないけど、恐らく今日、神社から出発するときに君がしたことで少しばかり確信できたんだ」
「私の行動?」
皐月はそう云うや、少しばかり考える。
「君たち三姉妹は先日、車のどこに座るのかを話していたそうだね?」
「えっ? はい…… 葉月は車に少し弱いから、前のほうがいいんじゃないかって――あっ!」
皐月はハッとした表情で気付く。
「君は家族で出かける時、殆ど助手席に座っていたらしいね。だから六年前の事件の時も、お父さんの隣……助手席に座った」
大宮巡査にそう言われ、皐月は少しばかり、頭を揺り動かした。
「僕は無理に思い出さなくてもいいと思っている。だけど、一生このまま何も解決できないままなのはいけないと思ってるんだ。今日ここに来た理由は君たちの記憶が…… お父さんとお母さんとの記憶がひとつでも思い出してくれたのならと思ったんだ――」
大宮巡査はスッと立ち上がり、テントの傍へと歩み寄る。
「迷惑なことしないでください! なんの権利があって? 大宮巡査に何の権利があってそんなことするんですか?」
皐月は怒号を挙げ、大宮巡査をジッと睨みつけた。
「皐月ちゃん…… 瑠璃さんから聞いたけど、君は姉妹の中でも一番の怖がりで…… 本当は執行人なんてしたくないと思ってるんだろ?」
「思ってません。だってそれが私に課せられた……」
皐月はその先を言おうとした時だった。
突然、大宮巡査が振り向き、皐月をギュッと抱きしめたからである。
「ちょ、ちょっと離してください!」
「すまない。ただ…… このままにさせてくれ……」
「お、大宮巡査?」
皐月は無理矢理にでも、大宮巡査から離れようとしたが、次の言葉を聞くや、それが出来なくなっていた。
「ごめん…… ごめん彩奈…… 僕があんなことしなかったら…… 泳げない彩奈を沖に連れていこうなんてしなかったら 僕がお前を見殺しになんてしなかったら……」
大宮巡査は力強く皐月を抱き締める。いや、彼からすれば十年前、不慮の事故で亡くした、まだ四歳だった妹の彩奈を抱きしめているだけである。
皐月は複雑な表情を浮かべながらも、目の前で大人気なく泣き崩れている大宮巡査に言葉をかけることが出来なかった。