壱:夢魔
とある山の奥に木々に囲まれた長閑なキャンプ場がある。
その周りでは、夏の風物詩ともいえる蝉が忙しく鳴き喚いていた。
それだけでも暑苦しいというのに、料理をしている初瀬神遼子の肌には大粒の汗が流れているのだからたまったものではない。
その隣には小学六年の弥生が野菜を切ったりと手伝いをしていた。
「弥生、お父さんは?」
そう尋ねると「川原で皐月と葉月と三人でカンケリしてたよ?」と弥生は答えた。
遼子はそれを聞くや少しばかり考える。キャンプに来てまてカンケリなんてするものだろうか?と……
だが、健介がただのカンケリをするとは考えていなかった。
キャンプ場から少し下ったところに小さな川がある。水の中は透き通っており、そこには小さな魚が優雅に泳いでいた。
その近くで小学二年の皐月とまだ三つの葉月が父親である健介と一緒にカンケリをしていた。
「ほら、いったぞ! 皐月っ!」
健介にそう云われ、皐月は蹴り転がされた缶を足で止め、
「ほら、葉月、お父さんが思いっきり蹴っていいってっ!」
皐月はそう云いながら、まだ葉月が幼いことを考慮にいれ、さほど力を込めずに缶を葉月の方へとゆっくり蹴り転がした。
葉月は自分の方へと転がってきた缶を思いっきり蹴ろうとしたが、振り上げた足はからぶってしまい、体勢を崩すや、仰向けになって倒れた。
「ぅうぅ……」
愚図り出すと思った健介と皐月は、葉月を宥めようと近寄った。
「ぅええええんっ!!」
案の定、葉月はワンワンと大泣きする。
「ああ、よしよし。痛かったなぁ」
健介が落ち着かせるように葉月の頭を触ると、後頭部にぶつけた痕があった。
瘤にはなっていなかったが、健介はハンカチを皐月に渡すや、川の水で濡らしてきてくれとお願いする。
皐月は云われた通り、急いでハンカチを川の水で濡らしては絞り、それを健介に渡す。
ハンカチを受け取った健介は葉月の後頭部にそっとハンカチを当てた。
葉月は冷たさと痛みから逃れようと体を窄める。
「ほぅら…… いたいのいたいのとんでいけ……」
なんとも子供騙しだなぁと皐月は思ったが、まだ幼く無垢な葉月にはそれだけでも充分効果があった。
子供にとって、まず一番の治療は安心させることであるからだ。
「よし、そろそろご飯が出来た頃だろうし、お母さんのところに戻るか?」
健介は足元に転がっていた缶を手に取り、葉月をおんぶする。
「お父さん、その缶、何なの?」
隣を歩く皐月がそう尋ねると、健介は少し笑みを浮かべながら、「それはなぁ、あとのお楽しみだ」と言った。
その言葉に皐月は首を傾げた。
「どうしたんですか?」
戻ってきた健介の背中で泣き顔を浮かべている葉月が目に入った遼子は、健介に近寄りながら事の発端を尋ねた。
「ちょっとな…… カンケリをしてたら転倒したんだよ」
それを聞いた遼子は母親なりに慌てるかと思えばそうではなく、
「痛かったでしょ? ほら、ご飯できたから、皐月ねーねと一緒に手を洗ってきなさい」
そう云われ、健介の背中から下ろされた葉月は皐月に手をひかれ、キャンプ場に設けられた手洗い場へと歩いていった。
遼子は健介が手に持っている缶を渡されるや、
「健介さん、これ何が入ってるんですか?」
カンケリをしていたのだから、中身はないと思っていたが、意外にも重たかったので尋ねたが、健介は妻である遼子に対しても秘密にしていた。
「その缶をクールボックスに直しておいてくれ…… 中身は食後のお楽しみだ」
そう言われ、遼子は首を傾げたが、特に気にも留めず、言われた通り缶をクールボックスに直した。
食事を終えた遼子と三姉妹を見た健介は一言、「冷たいものでもほしくないか?」と尋ねる。
「お父さん、ジュースはありませんよ?」と遼子が言うと、健介はクククッと笑みを浮かべ、クールボックスから先程まで皐月と葉月と一緒に川原で蹴り合っていた缶を取り出した。
「お母さんお皿とスプーンを出してくれないか?」
そう言われた遼子は何事かと思いながらも、お皿とスプーンを健介に手渡した。
昨夜カレーを食べた時に使ったお皿とスプーンである。
目の前に出され、三姉妹は不思議そうにお皿を眺める。
缶は粉ミルクが入れられているような大きなもので、蓋を閉めるようにガムテープが巻かれている。
健介はポケットに忍ばせていたサバイバルナイフを取り出し、テープで巻かれた部分を切っていくと、閉じられていた缶の中身が見えてきた。
缶の中にはもう一つ、お茶の粉が入っているような小さな缶が入っていた。その小さな缶の周りには水が入れられており、氷が入っていたのか、まだ溶けきっていない氷がチラホラと見える。
もう一つの缶を取り出し、健介は缶を振ると笑みを浮かべ、小さな缶の蓋を開けると……
「アイスクリーム?」
皐月がそう健介に尋ねる。
「ああ。昨日テントを張った時、皐月や弥生と葉月が自分から手伝ってくれたからな…… 神様がご褒美を用意してくれていたんだ」
健介がそう言いながら、アイスを人数分わけていく。
実際は朝早く山を下り、コンビニでかちわり氷と塩を購入し、大きな缶と小さな缶の間に細かく砕いた氷と塩を敷き詰める。
氷に塩を加えることで、化学反応が起こり温度が急激に下がる。
小さな缶には、生クリーム・牛乳・砂糖・少量のバニラエッセンスと、アイスの材料を入れ、それらを混ぜたら缶に蓋をする。
そして大きな缶の中に入れ、蓋をする。
あとは料理が出来る時間を見計らって、五分ほどカンケリをすれば、自ずとアイスが出来上がるというわけだ。
――が、筆者同様、詳しい科学知識が乏しい三姉妹からすれば、缶の中身がアイスだという不思議な現象に目をときめかせていた。
夏の日差しが眩しい太陽の下で食べるアイスはまた格別で、三姉妹は顔を綻ばせながら、アイスをたいらげた。
「よし、それを食べたら、片付けるぞ……」
健介にそう云われ、三姉妹は後片付けをする。
「来た時よりも綺麗に。それがキャンプに来た時の最低限のお礼だ」
そう言われ、弥生と葉月は遼子と一緒に食器の後片付けをし、皐月と健介は木々の間に張っていたロープなどを片付け始めた。
小一時間ほどし、全てを片付けると、それら道具をワゴン車のトランクにに詰め込んでいく。
「よし…… 楽しかったか?」
健介がそう尋ねると、三姉妹は満面の笑顔で、うんと答えた。
「それじゃ帰るぞ!」
そう言いながら、健介は運転席のドアを開ける。
皐月は助手席へと座り、弥生、葉月、遼子は中部座席に座った。
家族が乗り込んだワゴン車は、ゆっくりとキャンプ場から離れ、山を下っていく。
「くっつきむし、またやりたいね?」
葉月がそう云うと、弥生と皐月が同意する。
くっつきむしとはオナモミのことで、それを姉妹たちは投げ合って遊んでいた。
「ねぇねぇ、お父さん。またキラキラやって」
助手席に座っている皐月がそう云う。
キラキラとは、昨晩、晩飯を片付けていた時、みかんの皮から飛び出した汁をコンロの火が燃やしていたのがそれなのだが、やはり科学知識のない皐月からすれば小難しい方法よりただ単純に綺麗だったという感想だったので、またやってほしいと思っていた。
「でもなぁ、あれお母さんに怒られるんだよなぁ」
健介は苦笑いを浮かべる。
「ねぇ、お母さんいいでしょ?」
「また来年……キャンプに来たらね」
そう言われ、皐月は笑みを浮かべながら前を向き直すと、視界に小さな看板が見えた。
皐月は「なんて書いてあるんだろう」と小さく呟くや、
「何かあるのか?」
「うん。ほら…… あそこに小さな看板が置いてある」
皐月は目の前にある小さな看板を指差しながら、健介に教えた。
「うーん。何が書いてあるかわからないな…… 皐月、わかるか?」
そう云われ、皐月は目を細めた。
「ば……」
『――ば?』
皐月の言葉を健介たちが繰り返す。
「『ばかをみる』」
皐月がその言葉を発した時だった――
「お、お父さん! 前っ!」
中部座席の真ん中に座っていた弥生が大声でそう叫んだ。
車の目の前には拳大ほどの石が道の真ん中に落ちている。
「心配するな! あれくらいの石どうってこと……」
健介がその先を言おうとした時だった。
フラフラと蛇行運転する車が目の前で猛スピードで走ってきた。
「くっ!」
健介は咄嗟にハンドルを切るや、横に重力が流れた。
蛇行する車とガードレールの間が一瞬だけ空き、そこを突いて、ワゴン車はすり抜けた。
「ふぅ…… んっ?」
健介はバックミラーに映った、先程蛇行運転をしていた車を見るやギョッとする。
(まっすぐ走ってる?)
蛇行運転が飲酒によるものだと考えれば、車が避けたあとも続いているものだが、それが何事もなかったかのように、車はまっすぐ左側を走っていた。
途端ガクンと重力が急激に重たくなる感覚を健介たちは体験するや、車のうしろから悲鳴を挙げるようにギャギャギャという引き摺った音が聞こえてきた。
「パンクッ? どうして? 空気圧はきちんとしていたはずだ!」
健介は急ブレーキをかけようとするが……
「――くぅそぉっ! みんなしっかり捕まっていろ!」
そう絶叫するや、ワゴン車はガードレールを突き破り、崖下へと転落していった。
うっすらと暗くなっていく外は涼しいだろうが、車の中はサウナのように熱かった。
「うぅ…… うぅ――ん……」
そんな中、皐月はうっすらと目を開けた。
「お、お父さん…… いやぁああああああああっ!!」
自分の体で下敷きになっていた健介を見るや、皐月は悲鳴を挙げた。
エアパックに埋もれた健介の顔半分が、割れた窓ガラスで切り刻まれており、それは見るに無残なものであった。
「さ、皐月……無事か? お母さんは? 弥生おねえちゃんや葉月は――?」
健介にそう訊かれたが、皐月はそれどころではなかった。
気が動転し、体を震わせる。転落した衝撃で体のあちらこちらから痛みが走っていた。
「お母さん? 弥生おねえちゃん! 葉月ぃ!」
中部座席にいるはずの三人の姿が見えない。皐月はシートベルトを外そうとしたが、バックルが壊れてしまい、ストラップが外れない。
「さ、皐月…… お父さんのポケットにナイフがあるから、それで切りなさい」
そう云われ、皐月は健介のポケットからサバイバルナイフを取り出し、ストラップを切った。
皐月が中部座席へと身を乗り出すと、葉月と弥生は健介と同様、体をドアにぶつけており、遼子に至っては上半身を変な格好で後部座席へと乗り出していた。
「お母さん! 弥生おねえちゃん! 葉月ぃっ!」
皐月はもう一度三人に呼び掛けるが、まるで死んだように反応がなかった。
「皐月…… そっちのドアは開くか?」
そう云われ、皐月は確認する。重たいドアは辛うじて開いた。
「そ…… そこから外に出て、助けを呼ぶんだ」
「そんな…… お父さんは?」
オドオドと顔を震わせながら、皐月は健介に尋ねる。
「心配するな…… お父さんはお前が結婚するまで――死にはしないさ」
健介は折れ曲がった手を伸ばし、感覚のないまま皐月の頭を撫でた。
そしてグタッと崩れるように目を瞑った。
「お父さん…… お父さん!」
皐月が健介に声をかけた時だった。
ドスンと、横転した車体に誰かが乗った音と振動がし、皐月はそちらに振り向くや、ゆっくりと目蓋は閉じられ、崩れるように健介の上へと落ちた。
大変長らくお待たせしました(待っててくれた人はいるんだろうか?)第十一話です。