拾・撥無
撥無:払いのけて信じないこと。否定すること。
翌日、斎藤武を殺害した容疑として、使用人の堀内と、それを指示した斎藤千和両名を警視庁は書類送検した。
殺害方法はワインに仕込んだ睡眠薬を飲ませ、昏睡状態にさせる。
一時的な擬死状態というわけだ。
千和は睡眠薬を服薬していたと供述すれば、さほど危険視されないと考えていた。
次にチュープを喉から肺まで通し、そこに水を流し入れる。
肺に水がたまると、肺呼吸である人間は生きられる訳がない。
その時、主人は既に亡くなっているため、何をしても反応はない。
死んだ事を確認すると、今度は肺の中にたまっていた水を汲み取るために、もう一度チュープを通らせる。
あとは何食わぬ顔で堀内は使用人部屋に戻ればいい。
この時、部屋の鍵は閉められていたが、鍵を開け、死体を確認した時、すきを見て、
遺体のポケットに忍ばせておけばいい。
――以上が後日行われた検死の結果と証言によって判明されたものである。
また死因は呼吸困難による心不全と改められた。
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事件解決から三日後。大宮巡査は皐月の見舞いに稲妻神社へとやってきていた。
自分の不注意で皐月に重症を負わせたことを悔やんで、毎日様子を見には来ていたが、実際対面させてもらえるのはこの日が初めてだった。
「そんなに責任を感じなくてもいいですよ。自分でやった結果ですから」
弥生がそう云うが、大宮巡査は申し訳ない表情を浮かべる。
「それに――もし、大宮巡査の責任だとしたら、真っ先に被害者である皐月が文句を言いますし、皐月は信乃さんのことだけ心配してましたから」
「信乃さんの?」
大宮巡査がそのことに関して訊ねようとすると、弥生は皐月に訊いてほしいと断った。
「皐月? 大宮巡査が来たわよ!」
弥生は皐月の部屋の襖を開ける。居るか居ないかの確認もなしにだ……
「へっ? ちょ、ちょっとまっ……」
皐月の慌てた声が聞こえ、大宮巡査は部屋を覗くと、皐月は着替え中で、パジャマの上下を脱ぎ終えたところだった。辛うじてショーツは履いていたが、ちょうどブラを外したばかりで、膨らんだ胸とその先が露になっている。
「きゃあああああああああああああああああああっ!」
皐月は悲鳴を挙げるや、机の上にあった筆箱を大宮巡査の顔面目掛けて、投げつけた。
その衝撃で大宮巡査は廊下の壁に頭をぶつけた。
「ちょっと、せっかく来たのに、いきなりはひどいんじゃないの?」
「わかっててやったでしょ? 弥生姉さん! 絶対わかっててやったでしょ?」
皐月は屈み込み、胸元を隠しながら、弥生を睨んだ。
「人の部屋に入るときはノックするのが礼儀ってもんでしょうに!」
「はいはい。わかったわかった…… それじゃね」
そう云うや、弥生は逃げるように廊下の奥へと消えた。
――それから十分ほど経ち、大宮巡査は眼を覚ました。
「だ、大丈夫ですか?」
皐月が申し訳ない表情でそう尋ねる。
「いや、大丈夫…… ちょっと頭がズキズキするけど」
よく見ると大宮巡査の額には瘤が出来ており、皐月はそれに触れた。
「いっ……!」
「あ、ごめんなさい……」
大宮巡査の容態を見るや、皐月は部屋を出て、厨房から氷水が入ったビニール袋を持ってくると、それを大宮巡査の額につけた。
「あの絵……」
大宮巡査が部屋に飾られた一枚の絵に目をやった。
それは殺された斎藤武の部屋に飾られていた八匹の狼が描かれた掛け軸である。
金品目的だったとはいえ、遺品の貰い手が多かったが、この絵だけは誰ひとりもらうものがいなかったため、皐月がお願いして貰い受けた。
「そういえば、阿弥陀警部から聞きましたけど、この絵を最初見た時、大宮巡査はどこかで見たことがあるって」
「うん。この絵自体を見たわけじゃないけど、雰囲気がね……似てたんだ、最初あった時の彼女に」
そう云われ、皐月はジッと絵を見た。
「私と信乃って、四年前まで友達だったんです。ううん、今だって私は友達だって思ってる」
その言葉に大宮巡査は驚いた。ずっと敵対している二人だったので、どちらも友達だなんて思っていようとは微塵も考えていなかったのだ。
「私は我流だし、竹刀の使い方だって未だにこなせてない。でも、あの子は天賦の才能があるし、何より剣道を心から楽しんでる」
皐月はそう云うや、一匹だけの狼を見つめた。
「でも、四年前に起きた事件から信乃は人が変わったように見境なく執行してる……」
「もし彼女が君たちと違うとすれば? 復讐のためだけに力を使っているということか?」
そう云われ、答えるように皐月は頷いた。
「私も妖怪を懲らしめたいとは思ってる。――でも殺したいとは思っていない。罪を償うのは当たり前だし、脱衣婆や遊火だって妖怪だから…… 全部が全部そうじゃないってわかってるけど……」
それは人間に置き換えても同じことである。いい人間も入れば悪い人間だっている。
「信乃は心の底では、きっと気づいてる。でもそれを止めてあげることが」
皐月の言葉を待たずに、大宮巡査は皐月を抱きしめた。
突然のことで、皐月は驚いた声を挙げるが、そのまま身を任せた。
「千和さんから聞いたんだ。あの時彼女は夢を見たと…… 一匹の小さな犬が自分をジッと見つめていて、何をするわけでもなく、ただジッと悲しそうに吠えていたって…… それは彼女に取り憑いていた犬神が信乃さんに犯人を教えていたんじゃないかな…… でも、彼女はそれに最後まで気付かなかった。いや気付いていたけどそれを信じてあげることが出来なかった」
「わたし…… 信乃を助けてあげなきゃいけないのに…… 友達として…… ううん、友達だから助けてあげなきゃいけないのに――」
皐月は力強く、大宮巡査の腕を握り締めた。
声は挙げなかったが、皐月は泣き崩れていた。
それは犬神と化したユズと、それに気付かず、ずっと妖怪を殺し続けようとしている信乃に対して、どちらとも助けることができなかったことに対しての謝罪の悲鳴であった。
その時、チリンという錆び付いた鈴の音が響いた。
――が、その音に気付いたものは誰一人いなかった。