壱・十ヶ月
福祠町の南方に『悟帖ヶ山』という山がある。
太陽がちょうど西へと沈みかけようとしている午後七時頃、眩暈がするほどに長い山道を、見るからに重たく膨らんだお腹を抱えた女性がゆっくりと坂を下っている。
女性の身丈は百六十と、二四歳にしては小柄であった。
彼女は坂の上にある『子安神社』へ参拝に行った帰りであった。
少し疲れた彼女は、立ち止まり周りを見渡して見ると、道端には杜若が咲いていた。
彼女はそれに近付いき、屈んで触れようとした瞬間、突然胃液が逆流するような感覚に陥り、吐き気を催した。その悲惨とさえ見える嘔吐は五、六分ほど続き、咳が治まるや女性はその場にガクリと倒れ込んだ時である。
女性の股から赤い液体がダラりと流れだした。
――殺した?
と、彼女が思ったのも無理はなかった。
彼女が妊婦であることは言うまでもなかろうが、その胎児が普通のものとは、一際違っていた。
彼女が身籠ったのは、今から十ヶ月ほど前のことだった。
普通ならばすでにお腹の子供は生まれてきて、彼女の胸で抱かれながらも荒々しい泣き声をあげているはずである。
それなのに、いまだに胎内にいるという事は、出産が予定日よりも遅くなっているとか、色々と考えられるが――すでに十ヶ月目を迎えている。
その事を踏まえて、彼女は少しばかりこの胎内の胎児を気味悪がっていた。
――ああ、これで……
と女性が息絶えたのはそう思った時だった。
女性の膨らんだ腹部に一本の赤い線が引かれていくと、膣口から鳩尾へと、まるで柘榴のようにお腹が半分に割れ、子宮の中をのぞかせた。
そこにはすでにすがたかたちが整い、自分の親指を口に咥えている嬰児が寝息をたてていた。
『おいで――私の可愛い子』
誰かがそう云うが周りには息絶えた女性しかいない。嬰児はまだ座っていない首を右往左往させながら声を探していた。
あまり見えないその双眸に、薄らと影が見えるや、嬰児は両手を天に伸ばした。
ゆっくりと、自分が抱き上げられていくのがわかった。
「さぁ、逝きましょう――私の坊や……」
姿の見えない声がそう言うや、嬰児の姿は消え、周りには灰色の羽根と女性の死体が転がっているだけだった。
阿弥陀、並びに大宮ら通報を受けた警視庁操作一家の警官らが現場に到着したのは、その翌日明朝の事だった。
元々、子安神社の神主以外あまり人が通らない山道だっただけに通報が遅かったのだ。
「警部、どう思いますか?」
大宮は、なるべく死体を見ないようにしながら阿弥陀に問い掛けた。
「帝王切開……ですかね?」
阿弥陀は開かれた腹部を見ながら呟いた。
帝王切開とは子供を出産するさい、余りにも胎児が大きく成長していると出産の時に膣口が裂けてしまい、それが大量出血によるものや痛みによるショック死などに繋がってしまう。そうならないよう、苦肉の策として用いられるのが手術法である。
しかし普通それをするさい、女性の今後の事を考慮に入れてあまり目立たないようにお腹の脹らみにそって、見え難い下の側面を切るのだが、女性の死体は【膣口から鳩尾まで】を縦一線を切られている。
「ガイシャの女性は妊娠十ヶ月目で、この山の山頂にある子安神社までお宮参りに行った帰りに殺されたとみられています」
「――お宮参り?」
阿弥陀は納得いかない表情で聞き返した。
別にお宮参りに対してではない。子安神社の主祭神は『玉依姫神』という子安神である。妊婦である被害者が参拝に来たとて、まったく可笑しくはない。
「ガイシャの女性は妊娠十ヶ月くらいと云いましたね? でも死体はまるで帝王切開されているし、よく見たら嬰児がいないじゃないですか?」
その言葉に若い大宮は首を傾げた。
「警部、ミドリゴと云うのは?」
「産まれてから三歳までの赤ん坊の事を云うんですよ」
そう言われ、大宮はようやく阿弥陀警部の納得のいかない表情を浮かべていたのかが理解出来た。
「そう言えば、その赤ん坊が未だに発見されていないそうです」
「――でしょうね」
そう言いながら、阿弥陀は周りに落ちていた灰色の羽根を手に取った。
「ここを通った人はさほどいないという報告でしたけど……本当に誰も通っていないんですか?」
そう言うと、一緒に来ていた鑑識課の湖西主任に問い掛けると……。
「さぁな、それはあんたら刑事部の仕事だろうが?」
その口調から好い加減さっさと行ってくれと言われている感じだと、阿弥陀は思った。
「それじゃ……この羽根、調べておいてください」
そう言われ、阿弥陀警部から渡された灰色の羽根を湖西主任は訝しく見ていた。
文章直ししました(11-09-27)