漆・幼馴染
夜の十時を疾うに過ぎ、外の暴風とは打って変わって屋敷内ではシンとした空気が漂っている。
そんな中、皐月は部屋に常備されていた懐中電灯を照らしながら、トイレへと行こうとしていた。
「うぅわぁ、さむぅ」
肩を震わせながら歩いていくたびに、静寂とした周りで自分の足音がしているのかどうかもわからない。それはただたんに皐月の耳が悪いだけなのだが……
用を済ませると、どこからともなく犬の鳴き声が聞こえた。
皐月は嵐になっているというのにどこその野良犬が吠えていると最初は思った。
――が、嵐の音が少し大きめな音量に聞こえている皐月が犬の鳴き声に気付いたということは、その音が嵐よりも勝っているということになる。
そうなるとこの屋敷のどこかにいることになるのだが、大宮巡査から屋敷に犬はいないと聞いているため、皐月は不思議そうに首を傾げた。
もう一度犬の鳴き声が聞こえ、皐月は声がした方を見やる。
視線の先には強風によって狂ったようにガタガタと鳴らしている窓があり、その奥でボンヤリとした青白い炎が見えるや、皐月は身を構えた。
――しかし、その光は霊体ともつかず、また殺気たったものとも、どちらでもない曖昧な雰囲気があった。
皐月は警戒しながらも、ゆっくりとその光に近づいていく。
皐月が近づいていくと同時に光も皐月の方へとゆっくりと近づいていく。
窓まで行くと、青白い光はジッと皐月を見ているという感じである。
そして視線をゆっくりと動かし、信乃がいる部屋の窓を一瞥するや、スーッと消えた。
(――信乃?)
皐月は光が信乃の部屋を見ていた感じがし、そちらを見た。
一瞬だけ、光が視界から消えた時、聞き覚えのある鈴の音が聞こえた。
それは信乃が持っている金切り声のような歪んだ音だった。
(――ユズ?)
皐月はもう一度光がいた方へと振り返ったが、そこに青白い光はなかった。
荒れ狂う外を見ながら、皐月は信乃がどうして妖怪を毛嫌いしているのかを思い出していた。
理由はただ単純である。
四年前、得体のしれない何かに殺されたユズの復讐をするためだけである。
皐月はその理由を知っているからこそ、信乃が自分と同じ執行人であることが嫌であった。
執行人はあくまで妖怪に取り憑かれたり、妖怪と化した人間に罪状を渡すのが仕事である。
警察が犯人を逮捕するのに、たとえば犯人が自首してきたのならば、何もせず手錠をはめるのと同じであり、また抵抗したならば、それ相応の対応をするものである。
どちらも公私混同することは許されていない。
だからこそ、信乃が復讐を目的に執行人をしていることが歯痒かった。
皐月は色々な人間や妖怪と関わっていくうちに、信乃がやっていることは間違っていると考えていた。
たとえユズを殺した得体のしれないものを滅したところで、ユズが戻ってくるわけがない。
だからこそ自分とは違い、キチンとした実力を持っている信乃には復讐を目的としたことをやめてほしかった。
ふと結婚式場で脱衣婆が云ったことを皐月は思い出した。
『退治したところで、あの子が変わるとは思っていないわ。むしろ今まで以上に見境なく妖怪を退治するでしょうね』
皐月もそのことが不安だった。
鳥はそのまま飛び続けているわけではない。必ずどこかで羽を休める場所を探しながら飛び続ける。
そして疲れた時にその木の枝なり、羽を休める場所でくつろぐ。
しかし、たとえば行く先々の周りが海しかなく、羽を休める場所がどこにもない。
そして飛び続けて体力がなくなれば、海へと落ちていき、羽は濡れて重たくなり浮かび上がることはない。
皐月自身も怒りが先立つこともあるが、それでも罪人は罰せられなければいけないし、たとえ赦せないことでも、赦す余裕がなければいけないと瑠璃から教えられている。
――だからこそ、罪を言い渡し、それを悔い改めさせる猶予を与えている。
逆に信乃はあくまで復讐のためだけに執行しているとしかいえなかった。
皐月は光が信乃の部屋を見ていたことが気になり、そちらへと向かった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
斎藤千和は屋敷内の戸締まり確認を終え、就寝しようと自室へと戻ろうとしていた。
彼女の部屋は殺された斎藤武の隣部屋でその前を通ることになる。
ふと斎藤武の部屋から物音が聞こえ、千和は立ち止まった。
そしてゆっくりとドアを開け、部屋の電気をつけた。
「な、何をしているんですか?」
戦くような声を挙げながら、千和は部屋の奥にいる影に声をかけた。
影は箪笥の中を探っており、声をかけられるや千和の方を見やった。
「し、信乃……さん? い、一体何をしているんですか?」
千和にそう訊ねられた信乃だったが、その言葉を無視して、再び箪笥の中を探り出した。
「き、聞いているのですか? 一体何をやって……」
千和は信乃が箪笥の中を探していることには声をかける以前に気付いていた。
しかし、主以外の人間が鍵を持っているわけもなく、また信乃は部屋を荒らしているわけでもなかった。
ピンポイントにあるものが入れられた引き出ししか開けていないのだ。
「な、何を探してるんですか?」
「――薬…… あなたが殺された斎藤武に飲ませた毒薬が入ったやつをね」
その言葉を聞くや、千和は呆れた表情を浮かべる。
「な、何を馬鹿なことを? それに…… 私が何時どうやって薬を飲ませたと言うんですか?」
信乃は諦めたのか、引き出しを閉じる。
「別にあなたが直接殺したとは言ってないでしょ?」
「あのですね? 私がどうやって主人に薬を飲ませたと言うんですか?」
千和の言葉を遮るように、信乃は顔を千和の体に近づけ、鼻をひくつかせた。
「な、なにを――?」
千和は逃げるように、信乃から離れた。
「やっぱり…… 最初にあった時からわかっていたけど――」
「一体何のこと……」
千和は言葉を止め、ゾッとした。
「ひとつ教えてあげましょうか? 人間には体臭というものがあって、汗や皮膚の汚れなどによって臭うもの。もちろんあなたは香水をつけているから、それをかき消している」
信乃は上目で千和を睨みつけるように言う。
「だけど臭いは別に体臭だけじゃない。薬の臭いや、血の臭いも混じっている場合だってある。――薬はとにかく…… 自分以外の血の臭いがしているのは可笑しいわよね?」
そう云われ、千和は顔を引き攣らせながら笑った。
「な、なにをふさげたことを! 私はどこも怪我していませんし、薬なんて飲んでいません」
言葉を述べるが、千和は信乃からゆっくりと離れていく。
「それじゃ…… 何も知らないのにどうして汗なんてかいてるのかしらね?」
その言葉に千和は自分が冷や汗をかいていることに気付く。
冷や汗は恐ろしい時や、緊張した時に発汗する汗のことである。
もちろん今の状況では、信乃に恐怖を感じてのことだと説明はできる。
「私は別にあなたを貶めようなんて思っていない。ただたんに憶測を述べているだけ。それが間違っているのならば、汗をかくことなんてないと思うけど?」
「と、突然人殺しなんて云われて、気持ちのいい人間なんていません!」
信乃は千和が言った言葉を聞くや、少しばかり間を空けた。
「――ひっ?」
千和は自分の鼻先に突きつけられたものを見るや、小さな悲鳴を挙げた。
「私は別にあなた自身が殺したとは言ってないわよ? あなたが飲ませたとしか云っていない」
「それでは矛盾しているでしょ? 私が飲ませたというのなら、私自身が主人に毒薬を……」
千和は信乃が発した言葉の意味を理解する。
“飲ませる”は被害者自らが飲むという意味であり、“飲まされた”のならば、被害者は何者かに無理矢理飲まされたということになる。
「あなたは被害者が殺された夜、古くなって中身がなくなった薬の中に、毒薬を溶かした水を入れた。スプレー式の薬の中身なんて、そうそう見るものじゃないしね? それに遺体の第一発見者が堀内とかいう、あんたの側近ならばもっと話は別になってくる」
「い、一体何が言いたいんですか?」
千和はゆっくりと後退りするが、背中に冷たい感触が走る。千和のうしろには壁しかなく逃げ場がない。
「ひとつ確認したいんだけど、薬は必ずその引き出しに仕舞われるのよね?」
信乃の問いかけに「ええ。そうよ」と千和は答える。
「それじゃ…… 捨てた容器は誰が捨てるのかしら?」
「それは勿論主人が……」
千和は言葉の意味がわからなかった。
「当然、第一発見者の堀内でしょうね? そもそも誰が、どうやって主人の部屋の鍵を開けたのか…… それはね、それを証言する人間は存在しないから」
信乃の言葉には信憑性がないように感じられるが、実は裏付けがキチンとある。
まず堀内が電話をしたのかという証言である。
これは同室の使用人によって、遺体を発見する数分前、主人の部屋に電話をしたという証言があるのだが、その使用人が直接電話を聞いたわけではない。
そもそも電話の内容は耳を受話器に近付けない以上、話を聞くことはできない。
また、主人の部屋に電話をしたのかということ自体にも違和感がある。
そして斎藤武の遺体が発見される直前、部屋の鍵をどうやって開けたのか……
――それはただ単純な話である。
妻である千和が隣部屋だからこそ出来ることであり、そして全ての人間が口裏を合わせれば済むだけの話である。
死亡推定時刻は昨晩の午後十一時から日付が変わる午前〇時の間とされている。もちろんこれに関しては偽りはない。――が、堀内が証言した通りの時間に主人の部屋を出て、自室に戻った時の時間を偽っていたとしたら?
屋敷内の仕事はハードであり、疲れが重なって、心身ともに休みたくもなる。
それが深い眠りであろうと、レム睡眠(体は眠っているが脳は活性している)状態であればなおのことであり、同室の使用人は堀内が部屋に戻ってきたということだけで、何時戻ってきたのかまではわかっていないのだ。
朝電話したとして、それは『どこに電話をしたのか』ということになる。
先程も云ったように電話をかけた堀内以外誰も内容を知らない。違和感を感じた堀内が慌てて斎藤武の部屋へと駆け出しただけである。
そして部屋の鍵を誰が開けたのか…… これは千和の証言によって証明される。
『主人は“寝る時は”部屋の鍵全てを閉めるんです』
そもそも鍵を閉めていたこと自体が事実ではなかったのだ。
「あ、あなたの推理はわかりました。ですから……その刀を好い加減収めて――」
千和はその言葉を云うや、カッと外が雷によって真っ白に光り、そして長刀を高々と上げた、信乃の表情が逆光をあびたのを見るや、顔が青ざめた。
それはまるで獲物を見つけた殺人者のような表情だったからだ。
「――この刀は人間には決して見ることができないのよ!」
そういうや、信乃は刀を振り下ろした。
「――っ?」
途端信乃は顔を歪めた。
「は、放しなさい…… がぁはぁっ」
千和は片手で信乃の首を掴み、ギリギリと絞め上げていく。
その力は想像以上のもので、少女とはいえ、片手で持つのは難しいのに対して、千和はいとも容易く持ち上げている。
「一つ…… 抜けてるところがあるわよ? 堀内さんがどうやって主人に薬を飲ませたか…… そもそも主人の死因は心筋梗塞。薬物の反応は何一つなかった」
「そ、それこそ詭弁……でしょ? 大体心筋梗塞の疑いがある人間が――酒を控えることはないのよ!」
信乃の言葉に千和は歪んでいた顔をより一層歪める。
酒は百薬の長という言葉があるように、アルコールを取ると血液が固まりにくくなるほか、血液中の善玉コレステロールを増やし、動脈硬化を予防する働きがある。
そのため、心筋梗塞、狭心症、不整脈、心不全といった心臓病、または全体の死亡率が減るという事が判明されている。
もちろんなんでもそうだが、効くからやりすぎるのは却って危険である。
「それに…… スプレー式のトリックは正直言って大嘘。酒を飲んでいる人間が薬と一緒に飲むなんてないしね――」
それを聞くや信乃の首を絞めている千和の手がより強くなった。
「薬が肝臓で溶け出すのが飲んでから約二時間、堀内が主人の部屋で酒を飲み始め、部屋を出るまでの一時間の間…… 主人が酒を飲んだのかという証言自体がないでしょ?」
信乃はそう告げるや、千和を刺した。
「あがぁあああああああああっ?」
信乃が悲鳴を挙げるや、手から長刀が抜け落ちる。運悪く刀は千和の横っ腹を掠めただけだった。
「さぁて…… どうしましょうかね?」
千和がそう告げるや、部屋の扉が開いた。
「しのぉおおおおおおおおおっ!」
部屋に飛び込んできた皐月がそう叫ぶや、千和に体当たりをしようとしたが、先に気付いた千和が、片手で掴んでいた信乃を皐月にぶつけるように投げた。
「がぁはぁっ!」「げぇはぁっ!」
重なるように皐月と信乃は廊下の壁にぶつかった。
二人を見るや千和は、逃げるように窓から飛び降りた。
「まっ…… げぇほぉっ!」
息を整えようとする信乃が睨むように皐月を見た。
「大丈夫……?」
皐月がかそうとした手を信乃は振り払う。
「どうしてここがわかったの?」
その問い掛けに皐月は答えるべきなのだろうかと考えた。
「それより…… 千和さんを追いかけましょ? 信乃……立てる?」
信乃はその言葉を遮るように立ち上がるや、
「…………っ!」
信乃は何かを口走るが、余りにも小さかったため、皐月には聞こえなかった。
今回の推理は本当に億足でしかありません。そもそも信乃は誰一人の証言を信じてはいません。仲間内の庇い合いでしかないわけです。