陸・携帯
「あ、おかえりなさいませ、葉月お嬢様……」
縁側でボンヤリと足をばたつかせていた遊火が、学校から帰ってきた葉月に声を掛ける。
「ただいま、遊火。爺様は?」
そう尋ねられ、遊火は少し考える仕草をする。
「確か船が一斉にスタートして……」
「もしかして競艇?」
葉月にそう云われ、遊火は頷く。それを見るや葉月は呆れたように頭を抱えた。
「どうかしたんですか?」
「今日の夜あたりから強い雨が降るって、予報で云ってたでしょ? それで弥生お姉ちゃんが爺様に洗濯物を取り込んどいてって云ってたんだけどなぁ」
そういえばそんな話を今朝方してたっけ?と遊火は思い出していた。
二人が会話をしている中、ポツポツと雨が降り始め、葉月は慌てて洗濯物を取り込んだ。
取り込み終えた後、ものの一時間もしないうちに豪雨と化していた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ボンヤリと外が暗くなり、大宮巡査は皐月に帰宅を促す。
「うん。証拠はこれ以上見つかってないんじゃ、ここにいてもしようがないか」
皐月は妖怪の気配を探していたが、てんで見つからないため、仕業なのかどうかもわからなくなっていたのが本音であった。
一応殺された斎藤武が持病である喘息の薬が、スプレー式であるということくらいである。
「確か鳴狗寺って、稲妻神社までの道のりにあったはずだから―― 信乃さんも一緒にどうかな?」
大宮巡査がそう声を掛けるが、信乃は全く見向きもしなかった時だった。
突然、外で何かが割れた音が聞こえてきた。
「堀内さん? 何が割れたのか確認してきてくれませんか?」
千和にそう云われ、堀内は仕事の手を休めるや、確認をしに広間を出ていった。
「だいぶ風が強くなってきましたね?」
皐月は外の木々が揺れているのが見えていたため、そう大宮巡査に尋ねた。
「外で待機してる人たちもいるから、ちょっと確認してくるよ」
そういうや大宮巡査も広間を出ていった。
五分後、堀内と大宮巡査が一緒になって広間に戻ってきた。
「奥様、先程部屋の一室に石が入っておりました。恐らく強風に煽られて飛んできたんだと思います」
堀内は屋敷の中にいたというのに全身ずぶ濡れで、その手には赤ん坊の拳大くらいある石が握られていた。
「ダメだね。強風で外に出るなとの命令だ――」
大宮巡査のうしろには外で待機していた警官たちが、他の使用人からタオルを渡されており、大宮巡査の頭にもタオルが被せられている。
「帰れないってこと?」
「いや、帰れないわけじゃないけど、あまりにも風が強いからね。安全をとって、風が止むまでは待機という支持が出たんだ」
そう聞かされ、皐月は信乃を見た。信乃は微動だにせず、ジッと外を眺めている。
「信乃さんと皐月さんでしたっけ? もしよろしければお泊まりになってはどうでしょう?」
「いいんですか?」
「ええ。もともと部屋の数は余るほどありますし」
千和からそう云われ、皐月は少しばかり考えたが、外が強風である以上、いつ止むのかわからない状況である。
「わかりました。お言葉に甘えさせてもらいます。でもその前に、家族に連絡してもいいですか?」
「ええ、よろしいですよ。ご家族の方々も心配してるでしょうし」
皐月は屋敷に厄介になることを連絡しようとケータイを取り出すや、
「あ、皐月様…… うちの周辺はケータイの電波が大変つながりにくくなっているんですよ」
堀内にそう言われ、皐月はケータイの液晶を見やった。
「ホントだ。圏外になってる」
「ですから、屋敷の電話機をご使用ください」
皐月は電話機が置かれている場所を教えてもらい、その電話を使用することにした。
皐月は自分のケータイに登録されている弥生の携帯番号を表示させ、それを見ながら、電話機のボタンを押した。
十回ほど呼び鈴を鳴らすと、漸く弥生が電話にでた。
(もしもし……)
「あ、弥生姉さん? 皐月だけど」
声を聞くや、弥生は驚いた声を挙げた。
弥生のケータイには見知らぬ番号が表示されていたため、警戒していたのだ。
(どうしたのよ? ケータイは?)
「それが…… こっちからだと圏外になるからって言われたから、屋敷の電話使わせてもらってる」
(そう。それでどうするの? 外すごく荒れてるわよ)
弥生の云う通り、外は土砂降りになっており、屋敷の中でもその騒音はよほどのもので、耳が悪い皐月は不快な表情を浮かべた。
「うん。そのことなんだけど、被害者の奥さんが泊まっていけって誘われて」
(要するに、その厚意を受け止めたほうがいいかって? 別にこっちは構わないけど……)
弥生にそう云われ、皐月は屋敷に泊まっていくことに決めた。
電話を終え、広間に戻ろうとした時だった。なにか違和感を感じ、立ち止まった皐月は電話機を一瞥する。
そして電話の近くで仕事をしている使用人に声をかけた。
「あ、あの…… 一時間くらい前に私と同じくらいの子がここに来ませんでした?」
そう訊ねられ、使用人は答えるように首を横に振った。
(どういうこと? だって屋敷の周辺は電波が悪くて圏外になる)
皐月は信乃が鳴狗寺の和尚に電話をしたと本人から聞いている。
だからこそケータイが通じるものだと思っていたのだ。
皐月は広間に戻るや、信乃を廊下に呼び出し、何時和尚に電話をしたのかと訊ねたが、信乃はどうしてそんなことを言わなければいけないのかと逆に聞き返した。
その返答に困った皐月を尻目に信乃は用意された部屋へと入っていった。
――その晩の事である。拓蔵が湖西主任個人の携帯に連絡を入れていた。
「はぁ? 知らんって…… お前さん、それはないじゃろうよ?」
電話越しに拓蔵は呆れた表情で云った。
(いや、全くもって知らんのじゃよ。事件があったのを聞いたのも今日出勤してからじゃからな)
話を聞くと、事件当時、湖西主任は他の事件で鑑識課を出払っていたという。
(一応連絡は受け取るが、死因は阿弥陀警部から聞いた通り、急性心筋梗塞なんじゃろうよ?)
そう云うが、湖西主任がどうして自分の携帯に、拓蔵が連絡を入れたのか薄々わかっていた。
(心筋梗塞じゃないかもしれないってことじゃろ?)
「わしは専門ではないからな。詳しくはわからんが…… もしかしたら殺された斎藤武の死後に取り憑いた犬神は、何かを教えようとしてるんじゃないかと思ってな?」
(わしはそっちの知識はほとんどないからな。しかし考えれば考えるほど、心筋梗塞なら心の蔵を押さえるはずじゃよな?)
取り憑き殺すという意味でなら、生きているうちに取り憑かれるのだが、今回に至ってはその前兆が見当たらないと聞かされている。
犬神に取り憑かれた人間は、まるで犬のような仕草をすると伝えられているのだが、斎藤武にはそのようなものは一切なかった。
葉月が霊視で聞いた犬の鳴き声にしたって、被害者宅にいないのだから、本来ならば聞こえる訳がないのだ。
(もし葉月ちゃんがその声に気付かなかったら――)
「間違いなく、心筋梗塞による突然死として、処理されておったかもしれんな?」
そう聞くや、湖西主任は何かを思い出すように、声を挙げた。
(四年前の事件、覚えておるか?)
「一応あんたから聞いたから、うっすらとな…… それがどうかしたのか?」
(いや…… 少しばかり噂になっておったんじゃよ。あの時最後に起きた事件の被害者である少女が未遂だったとはいえ、傷一つなかったのがな――)
四年前となると、拓蔵は既に警視庁公安部を自主的に辞めているため、ほとんど事件内容を知らない。だからこそ、事件の詳細自体は初めて聞く。
(殺された人間の残骸を調べるとな、奇妙なものが見つかったんじゃよ。それに関して、ある保健所にガザ入れが入ったんじゃよ……)
「死体の中に何かがいたということか?」
(狂犬病を促す病原菌じゃよ。保健所では捨てられたり、捕まえられた野犬がいるからのう。その中の一匹が何らかの形で保健所から逃げだした。そして、それに感染した犬が人間を食らい殺した……)
なんともとってつけのない話である。
事件当時、保健所では殺処分をした犬の亡骸が突然なくなるという怪奇事件が起きていた。
狂犬病による感染も相まって、その保健所にガザ入れがされたのだ。
(しかし保健所は全くのシロ。そもそも狂犬病にかかった犬が、その保健所から逃げたのかという証拠すらなかったそうなんじゃよ)
「四年前の事件は、その犬による怨霊だったと?」
(それはわからんが…… 危険を察し、攻撃をするのは生き物の防衛本能じゃろうよ? そこに関してはわしは否定せんがな?)
湖西主任がそう言っている中、拓蔵は阿弥陀警部から見せてもらった被害者の遺体写真を思い出していた。
「心筋梗塞で首元に手はいかんよな?」
(あの写真のことか? あんたの言う通りいかんじゃろうな? 心筋梗塞は心臓の……)
湖西主任はハッとするように、慌てて机から遺体の写真を出した。
(拓蔵…… 犬が舌を出すのは体温調整をするためとされているじゃろ? 今被害者の舌を見るとな、紫色に変色しておるんじゃよ)
「それがどうかしたのか?」
(そのサインとしてな、チアノーゼ。いうなれば心不全の疑いがあるサインなんじゃが、その中で肺に水が溜まって――)
湖西主任の言葉を待たずに、拓蔵は口を動かした。
『心筋梗塞ではなく、呼吸困難による殺人だとしたら?』
二人の声が一致する。
(確かに呼吸困難なら胸を押さえるかもしれんな? 息を吸えば、肺やお腹は膨れるからのう)
「だが、それでは心筋梗塞と間違えられる。だからこそ取り憑いた犬神は、あえて喉のほうに手をやった。息ができなかったら喉に触れるやもしれんと考えたんじゃろうな」
そうなると被害者を殺したのはやはり犬神ではなく人間ということになってくる。
もしかすると、犬神はこのことを誰かに伝えようとしているのだろうかと拓蔵は考えた。
「被害者の家に皐月を行かせておるんじゃが、もしかしたら皐月に対してではないかもしれんな」
(そういえば、屋敷で捜索している警官から聞いたんじゃがな。鳴狗寺の娘が四十九日の打ち合わせに来てるそうなんじゃよ)
それを聞くや、拓蔵はうっすらとだったが、犬神の正体がぼんやりと見えた。
「確か四年前を最後に、被害はピタリと止まったんじゃったよな?」
(ああ。警察内でも未解決事件とされているが、捜査をしようとする人間はいないそうだ)
いや、恐らく人間ができるものとは思えなくなり、一種の怪奇現象、いうなれば神隠しとして、不条理ではあるが、そう判断したのだろうと拓蔵は考えた。
そして、脳裏で言葉を呟くや、ワナワナと手を震わせた。
(もしそうじゃとしたら―― 今の信乃とその犬神を邂逅させるは、互いにとってあまりにも危険じゃぞ?)
チアノーゼ (ドイツ語: Zyanose、英語: cyanosis) とは、皮膚や粘膜が青紫色である状態をいう。一般に、血液中の酸素濃度が低下した際に、爪床や口唇周囲に表れやすい。医学的には毛細血管血液中の還元ヘモグロビン(デオキシヘモグロビン)が5g/dL以上で出現する状態を指す。貧血患者には発生しにくい(ヘモグロビンの絶対量が少ないために還元ヘモグロビンの量が5g/dL以上になり難いため)。