壱・秋桜
秋桜:アキザクラ、あきざくら。メキシコ原産のキク科コスモス属の花「コスモス」(Cosmos)の和名。
日本には明治時代に渡来。「秋桜」は主に、秋に咲き花弁の形が桜に似ているところから名づけられたからだそうです。
「秋桜」と書いて「コスモス」と読ませるようになったのは、1977(昭和52)年、山口百恵の「秋桜」(作詞・作曲:さだまさし)がヒットしてからのことである。
うっすらと橙色に染まった空が広がっており、その中を赤トンボが飛び交っている。
夏の激しい猛暑から開放されたかのように、涼しい秋の夕暮れの中、公園の中で少女は何かを探していた。
「ユズッ、どこ行ったの? ユズゥッ!!」
少女は大声を挙げながら飼っている犬の名前を叫んでいた。
数分前まで公園の電柱に紐を結んでいたのだが結び目が甘かったため、次第に外れてしまったのである。
多動癖があるその犬は飼い主である少女の近くにいかず、どこかへ行ってしまっていた。
どれくらい公園を周回しただろうか、少女は次第に疲れ、足取りは重たくなっていた。
「くぅーんっ」と、遠くから犬の鳴き声が聞こえ、少女は駆け寄ると、ダックスフンドくらいの小さな犬がしっぽを振っていた。
「あ、いた。もう……ほら、ユズ……」
ユズの首には秋桜の花が描かれた首輪が着けられている。
少女は首輪についた紐を手に取るや、腕時計を見た。時間は夕方六時になろうとしている。
「もうこんな時間だ…… ほら、帰るよ」
そう云うや、少女は紐を引っ張り、帰るように促す。
――が、ユズはピクリとも動こうとしない。
「ほら、帰るよっ!」
再度少女は紐を引っ張るが、ユズはまったくきこうとせず、ジッと何かを見るような仕草をする。
そして、次第にグルルと唸り声に近い鳴き声を発し出した。
「ど、どうしたの?」
少女は怯えた声を挙げた。
少女はユズが普段こんな鳴き声をしない事を知っている。
知っているからこそ、この仕草に違和感があった。
人懐っこいユズが敵対心剥き出しの態度を取ることはまったくもって今までなかったのだ。
――微かに悲鳴のような声が聞こえるや、ユズは少女の手を力強く引っ張った。
「いっ、痛い! ユズッ! 落ち着い……」
輪っかになっている紐に手首を潜らせていなかったため、紐はスルリと手から抜けた。
勢いよく走っていくユズのあとを少女は追いかけてた。
少女がちょうど、住宅地の路地裏に入ったところだった。
異様な空気を肌で感じるや、少女は足を止めた。
「ユズ…… そこにいるの?」
少女は曲がり角の先にユズがいるのではないかと感じていたが、その先をどうしてか見たくなかった。――が、その先に行かなければユズがいることも確認出来ない。
意を決した少女は曲がり角の先へと視界を移した。
少女の視界の先には何かが無数に散らばっている。
それはまだ夕暮れ空だったせいもあり、目にはっきりと映し出されていた。
(理科の教科書で見たことがあったっけ? あの長いのって…… 大腸? それとも小腸?)
何かの周りには長い縄のようなものが散乱している。
(それに、あのまるいのって……眼だよね?)
何かの周りには潰され、液体を出しているものと、きれいに取り除かれた丸いものが転がっている。
(人が倒れてる……お腹の中、取り除かれて)
倒れている遺体を呆然と見ている少女は何かがうしろにいる気配を感じた。
少女はその気配が目の前で殺されている遺体を殺した犯人ではないかと考えた。
そして、その死体を見た自分も同様に殺されるのではないかという恐怖心にもかられる。
「ひっ……」
少女は絹を裂くほどの悲鳴を挙げようとしたが、声がでない。
「ぐぅるるるるるっ――」
ユズが唸り声を鳴らしながら、少女のうしろにいる気配に向かって咆哮を挙げた。
「ユ……ズ…… にぃげぇて……」
少女は息苦しくなり、意識を朦朧とさせながらも、ユズに声をかけた。
ユズは少女を助けようと駆け出し、少女のうしろにいる気配に襲いかかった。
――キャンッ!――
小さな悲鳴が聞こえたのを最後に少女の意識も遠のいた。
――真っ赤に染まった夕暮れ時の空の下、気を失い倒れた少女のうしろで、バキボキと気持ちの悪い音を立てながら、何かを食べている音が響きわたっていた。
「おい…… 君…… 大丈夫か?」
大人の男性が倒れている少女に声を掛ける。
「おい…… しっかりしろ……」
その声で目を覚ました少女は、まだ意識は朦朧とさせていた。
「よかった。おい、女の子は無事だ!」
警察官の制服を着ている男性が少女を抱えながら、周りにいる警官らに報告する。
それを聞くや、警官らは安堵の表情を浮かべてたが、少女は何のことかてんでわからずキョトンとしている。
「くぅそぉ…… もうこれで八件目かぁ」
警官の一人が怒りを露にするように拳を強く握りしめる。
「犯人はいまだわからず、これだけのことをしているというのに、まだ犯人像もままならないのかよ?」
「仕方ないだろ。犯人の特徴がわからんのだ! 捜査のしようがない」
警官らは自分たちの非常なまでに弱い存在だと憤りを感じていた。
そんな中、少女は首を動かし、辺りを探した。
「どうかしたのかい?」
少女を抱えている警官がそう訊ねると、
「ユズ?」
「ユズ? ゆず……って、果物のユズかい?」
警官がそう訊ねるが、少女は首を激しく横に振った。
「ユズは? ねぇ、ユズはどこに行ったの?」
半狂乱になりながら、少女は誰彼構わずに訊ねる。
「少し落ち着きなさい」と警官は少女をなだめるが、少女はそれを振り切るように訊ねた。
「くぅそぉ、重てぇなぁ……」
大きな黒い袋を警官二人が慎重に運んでいるのが少女の目に映った。
「ゆっくり運べよ……大事なものだからな」
「わかってるけど、もう調べようがないだろ? まるで獣に食われたようにボロボロになってるんだぜ?」
二人の警官の話を耳にした少女はその袋を見せて欲しいと頼むが、警官らはそれを拒んだ。
「あれは君が見てはいけない。見ちゃいけないんだ」
その言葉がなにを意味するものなのか、少女は次第にわかってきた。
あれは……死体が入った袋なのだと――
少女は強引に警官の手を振り切り、運ばれていく袋を無理矢理破ろうとした。
「ばかぁっ! お前ら、その子を止めろ!」
そう云われ、警官たちは少女を止めようとする。
――が、興奮し、ガムシャラになっている子供の力は想像出来ないものである。言い換えれば『火事場のクソ力』とたとえるべきだろうか?
さらに警官たちは相手が少女ということもあってか、力を無意識に押さえ込んでいたため、少女を止めることができなかった。
少女の爪が袋に引っかかり、その部分から次第に破れ、中身が零れ落ちていく。
「…………っ」
それを見た警官たちは全員視線をそれから逸したが、少女だけはジッとその何かから目を離さなかった。
いや、目が離せなかったと云った方がいい。なぜならその中には自分の知っている何かがあったからだ。
ボロボロに食い荒らされたかのように肉片の中に混じっている骨には、明らかに人間のものではない骨格が混じっていた。
鋭い牙や伸びた鼻先など、人間のものとは到底思えないものだった。
「あ…… ああ……」
少女は引き攣った表情を浮かべ、譫言のように悲鳴を挙げる。
少女は頑なに違うものだと…… 自分の知っているものとは違うのだと想いたかった。
「お前たち、早くそれを片付けろ」
呆然とする警官たちは主任警官にそう促されハッとするや、肉片を再び新しい袋に入れ始めた。
その時、チリンという鈴の音がし、全員がその音の先を見た。
袋に入れようとした時に溢れ落ちた肉片の中から、真っ赤に染まった首輪のようなものが地面に落ちている。
少女はそれを見るや、ガクンと膝を落とし、目を大きく開いた。
目の前に落ちているのは、秋桜の花が描かれた首輪で、間違いなくユズのものだと少女は理解する。
「はは…… ゆずぅ…… どこいったのぉ? ねぇ? どこ? どこにいったのぉ? ゆずぅうううううっ?」
まるで壊れたモノラル仕様のラジカセのように、少女は悲鳴に近い声でユズを呼び続けた。
――少女自身理解していた。あの肉片の中にあったのはユズなんだと……
だが、それで理解出来るほど、当時の少女が持っている精神力は図太くない。
これは夢なんだと…… 夢であるはずなんだと……そう願いたかった。
しかし、翌日、一週間後…… 一ヶ月、そして四年以上経った今なお、少女はその失った気配を消した原因を探し求めている。
姿が見えないその影を、それこそ盲滅法と言わんばかりに探している。
そして今日も……なんの罪も持たない妖怪を切り殺していた。
第十話です。大変お待たせしてしまってすみませんでした。