弐・筥迫
筥迫:女性和装の正装、打掛を着る際の用いる小物入れ。胸元の合わせに差し込まれる箱状の装飾品で、金襴、緞子、羅紗などの華やかな刺繍を施し、飾り房がついている。
「ねぇ、弥生姉さん? カラ、見かけなかった?」
皐月が慌てた表情で弥生の部屋に入るや、そう尋ねる。弥生はその質問に答えるように首を横に振った。
「ちゃんと寝る前にゲージの中に入れといたの?」
「入れてたけど、あの子ズル賢いところがあるから、ゲージの扉開けて脱走してるのよ」
「秘密基地とかは確認したの?」
そう訊かれ、皐月は頷いた。
「急ぎなさいよ。今日は大事な用があるんだからね」
「わかってる。私はもう準備は出来てるし…… あぁ、もう! どこ行ったかなぁっ?」
皐月は弥生の部屋を出て、自分の部屋の中を探し回った。因みにカラとは皐月が飼っているハムスターの名前である。
「あ、やっといた……」
五分後、皐月はそう云いながら、ハムスターの前に手を差し伸べ、掌に乗せた。
ハムスターは神経質な動物で、突然うしろから捕まえようものなら、鋭い歯で噛まれてしまうからである。
皐月はカラをゲージの中に入れ、今度は逃げないようにとゲージの入口を洗濯バサミで止めた。
「んっ、どうかした? 葉月……」
居間で招待状を眺めていた皐月が葉月の視線に気付き、尋ねた。
その葉月は皐月を凝視している。
「――皐月お姉ちゃん、カッコイイなって」
そう云われて嫌なものではないが、皐月は苦笑いを浮かべた。
皐月の服装はシックな黒のスーツでしめており、普段束ねている髪は解かれ、前髪をカチューシャで上げている。
「それで下がパンツじゃなくて、スカートだったらもっといいんだけどね?」
「あたしがスカート嫌いなの知ってるでしょ? 動きにくいったらありゃしないし」
皐月は弥生を見ながら、文句を言った。
執行人として巫女服を着る場合もあるが、普段は男女関係なしの服装を好んで着ているため、スカートを履かない。履くとすれば学校の制服くらいなものである。
「弥生お姉ちゃんは可愛いかな」
そんな二人を知ってか知らずか、葉月は弥生の服装の感想を言った。
「歳をわきまえなさいよ? 歳を……」
まるで違うことを皐月に言われたが、弥生は聞かなかった事にした。
弥生の服装は趣味であるゴスロリを少し抑えたと云ったところか、ドレスには変わりないが、スカートの裾にはフリルが付いており、腰にはリボンが付けられている。
胸元が少し開けられており、両腕には肘辺りから手の甲まで布の手袋をはめている。
「葉月も可愛いわよ」
そう云われ、葉月は笑みを浮かべる。
葉月は子供らしい服装で、赤と黒のチェック模様のドレスを着ている。
三姉妹が普段しないほどの豪華な服装をしているのかというと、今日は拓蔵の知り合いが結婚式を迎えるとの事で、三姉妹共々招待されていた。
「さて、三人とも準備は出来たか?」
拓蔵にそう云われ、三姉妹はそちらを見るや、首を傾げた。
三姉妹はおめかししているというのに、拓蔵の服装は普段と対してかわりないからだった。一応礼服を着てはいるが、どこか抜けたところがある。
「じ、爺様? もう少しビシッとしたほうが……」
弥生はそう云いながら、拓蔵の襟元のボタンを止めた。
「うーむ、あっちに着いてからでもいいじゃろ? あんまり首をしめられるのはなぁ」
文句を言いながらも、拓蔵は鏡の前で身形を整えていた。
「さてと…… そろそろ本当にいかないと」
弥生がケータイの液晶を見ながら云った。時刻は午前十一時である。
「阿弥陀くんに連絡して、車を持ってきてもらうかのぅ? そうすれば、渋滞してても道を通してもらえるぞ?」
「爺様? それ、職権乱用。――ってか、そんな権利ないでしょ?」
既に拓蔵が元刑事であることを知っている皐月たちであるが、拓蔵が阿弥陀警部よりも階級が上だということは未だに知らない。
拓蔵はそんな彼女たちを見ながら、苦笑いを浮かべた。
――数分後、稲妻神社の鳥居前に一台の車が停った。
「こんにちわ。迎えにきました」
玄関先から声が聞こえ、弥生はそちらへと向かう。玄関にはスーツ姿の男性が立っており、手袋をはめている。
「三人とも迎えきたわよ!」
そう呼ばれ、皐月と葉月、拓蔵は戸締まりの確認をし、稲妻神社を後にした。
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「――綺麗だ……」
その言葉を云うや、男は照れるように女性から目を背けた。
頭の中で呟くのは簡単なことだが、いざ口にするとなると難しいものである。
言葉をかけられた女性は綿帽子に隠れた顔で、静かに笑みを浮かべた。
「しかし、お前がこうやって結婚できるとはなぁ」
昌平がそう云うや、男……樹里は苦笑いを浮かべる。
「兄さんも早く出来るといいな」
「るっせぇ、この幸せもんが」
昌平はうしろから樹里の肩に手をかけ、頭を拳でグリグリとする。
そんな二人を見ながら、新婦は笑みを零した。
「さぁ、新郎と男たちは部屋を出ていってもらいましょうか?」
黒の留袖を着た歳をとった女性にそう云われ、樹里と昌平は控え室を出ていった。
「母様……」
新婦は不安な表情を浮かべながら、女性を見た。
「大丈夫ですよ。今日のあなたはとても素晴らしいほど美しいです」
そう云われ、新婦は天井を仰いだ。
「……このまま、樹里さんを騙してていいんでしょうか?」
その言葉に女性は目を細める。
「あなたがあの方を選んだのです。また樹里さんがあなたを選んだのも、彼が決めたこと…… 私がとやかく口を出すことではありません」
女性は鏡に映る新婦の表情を見た。
「私たちが人間と交わることは本来許されないこと…… ですが、そのルールを破るのもまたあなたが決めること」
「母様は怒らないのですか?」
そう新婦が云うや、女性は静かに目を閉じた。
「先程も云いましたよね? 美咲…… 誰かを好きになることに、誰かと付き合うことに、そしてその人と結婚することを決めるのはあなただと…… 娘の結婚を許さない親がいますか? それがたとえ赦されないことであっても―― あなたの運命を私が決められるわけがありません」
女性は新婦……美咲の肩を軽く叩いた。
「不安なのはわかります。ですがそれを見せないのもあなたの役目なのですよ」
そう云われ、美咲は深く深呼吸をした。
鏡に映る母娘の顔には、本来人間にはないものがあった…………