壱・足枷
夕日が差し掛かった山の中でガチャンという耳障りな音がこだました。
その音が発せられた場所には子狐が横たわっており、左後ろ足に罠が掛かっている。
その罠から逃れようと子狐は悲鳴を挙げながらじたばたと足掻いていた。
「こっちから音がしたが――」
茂みの方から人間の声が聞こえ、子狐はその場から離れようとさらに体を激しくする。
まだ幼い子狐は親狐と一緒に狩りの練習をしていたのだが、獲物を捕るのに夢中となってしまい、母狐と逸れてしまった。
子狐は足の痛みと人間に殺されてしまのではないかという恐怖心にかられ、その場を逃げようと必死だった。
足掻けば足掻くほど歯が足に食い込み激痛が走る。
「よし、狩猟の許可は役所から出ているんだ。今夜はどんな鍋にする?」
男の一人が猟銃をギュッと握り、息を潜めながら言った。
「今の時期は猪だからな。牡丹鍋なんてどうだ? ちょうどいい味噌が手に入ったんだ」
先程声をかけた男性よりかは若干若い男性が云う。
「しかし、樹里、今夜は妙に寒いな……」
「まったくだ。早く獲物を狩って、暖かい飯でも食いたいもんだ」
そう話しながら、二人は獲物が見える距離まで静かに近寄った。
茂みの中で樹里と昌平は気配を殺し、罠の方へと銃口を向けた。
その距離はおおよそ五十米といったところか、子狐は罠から逃げようと必死のため、男二人が近付いている事に気がついても逃げることが出来ない。
「んっ?」と樹里が声を挙げた。
「どうした? 見失ったか?」
「いや…… 確か罠をかけたのは、猪が頻繁に通る道だったはずだが? 兄さんの予想は大幅に外れていたようだ」
樹里は銃に取り付けられた弾倉を取り外し、薬室に残った最後の一発を天に向けて発射した。
二人の勝手なルールとして、何も当たらない空発は、今日の猟はこれで終えるという、山に住む獣たちへの合図でもあった。
それがわかっている昌平は唖然とする。
「お、おい…… 何やってるんだ?」
「――獣に効く傷薬はないか?」
「そ、そんなことしてどうするんだ?」
樹里の言葉に昌平は狼狽する。
「みてわからんか? 助けるんだよ」
そう言われても、全く理解できないといった表情で昌平は首を傾げる。
そんな昌平を尻目に、樹里は迷うことなく子狐のところへと歩み寄っていく。
その足音が近付いてくるのを感じ、子狐は逃げようと必死だった。もはや足の痛みは麻痺して感覚すらない。
「大丈夫…… 俺たちは何もしない」
樹里はそう云いながら、罠の仕掛けを外していく。
その間、子狐は少しずつ暴れる体を落ち着かせていった。
彼が自分を殺すのではないと、野性的な本能で察し、子狐は「くぅん……」と、まるで犬のような声を発した。
「おお、痛かっただろ? すぐにとってやるからな」
樹里は狐の足に食い込んでいた罠を取り外した。
外すやいなや、我にかえったかのように、子狐は樹里から逃げるように、フラフラと奥の茂みへと姿を消した。
山小屋に戻って分かったことだが、歯は子狐の足に深々と食い込んでおり、真っ赤に染まっていた。
「少し、この山の生態や、行動範囲を把握しておかないといかんな」
「ああ。まぁ、お前のやったことは仕方がない。――今日はきのこ鍋とするか」
昌平は樹里がしたことは単純にあの子狐を助けることにほかないだろうと理解した。
――その晩のことである。
山小屋の中では庵に火が灯されている。
外は視界が遮られるほどの猛吹雪と化しており、ガタガタと小屋の壁が歪む音をこだまさせる。
「さて、夕食にしよう……」
そう昌平が鍋を運んでいた時、小屋の扉を叩く音がしだした。
こんな時に誰だろう?と樹里と昌平は互いを見やった。
「すみません、この山を下ったところまでいこうとしていたのですが、道に迷ってしまいまして…… 日も落ちてしまい、出来れば一晩泊めていただけないでしょうか?」
女性の声が聞こえ、樹里は昌平を見やった。
「入れてやれ。家の前で凍死されたんじゃ、化けてでられてしまうわ」
そう云われ、樹里は小屋の扉を開けた。
戸を開けるやいなや、強風が雪と一緒に小屋の中に入ってきた。
樹里は腕で顔を覆いながら外を見ると、そこには笠を被った女性とその手に捕まえられた少女が立っていた。
笠に被った雪の量は相当なもので、だいぶ道に迷っていたのだろうと樹里は思った。
「これは大変だ。急いでお入りなさい」
そう云われ、母娘は云われた通り、小屋へと入った。薄暗くてわからなかったが、母娘は二人とも着物を着ている。
こんな山奥に着物か……と母娘に尋ねると、普段から着慣れているので大丈夫ですとかえされた。
庵を間に挟み、樹里と昌平を前に座った母と娘の二人は被っていた笠を外した。
二人の素顔を見るや、樹里と昌平は「ほぉっ」と声を挙げた。
母親の顔立ちはキリッとしたもので、まるで雪のように白い肌をしている。
朱色の口紅を付けているが、それを思わせないほどにやんわりとし、艶があった。
娘も母親に負けず劣らず、美しい白い肌色だ。
母親と少し違うところをあげるとすれば、眼はくりりと大きく、幼い雰囲気がある。
「――しかし、どうしてこの山に?」
「実はきのこ狩りをしておりましたら、娘が夢中になってしまいまして、危険な場所に入ってしまったのです。母一人、子一人の状態だったため、助けるのに苦労しました」
母親は娘を見ながら話す。当の本人は反省しているのか、俯いている。
「しかも、その時に足を滑らせてしまいまして、娘は足を怪我してしまったのです」
そう云われ、樹里と昌平は娘の足を見た。母親の云う通り、娘の左足には布が巻かれている。
「失礼ですが、包帯は?」
「襦袢を切れ端にし、それを巻きました」
母親はそう云うや、着物の襟元を緩め、肌着を見せた。
肌襦袢の襟元に切れ込みがあり、それを包帯にしたのだろうと、樹里と昌平は理解した。
「今日は冷えるからな、温まっていきなさい」
昌平にそう云われ、母娘は頭を深々と下げた。
ふと樹里は娘の方から視線を感じ、そちらを見ると、娘がジッと樹里を見つめていた。
「どうかしたのかい?」
「――い、いいえ…… なにも……」
娘は俯いてしまい、その晩は何もなかった。
――翌日の事だった。庵の火は完全に消沈しており、寒さだけが小屋に漂っている。
その寒さで起きたのか、昌平は小屋の中を見渡した。
そして、違和感を感じるように首を傾げたが、数秒後には慌てふためくのだった。
「おい、樹里…… 起きろ!」
そう云われ、樹里は起きた。まだ眠気眼で意識は覚醒していない。
「どうした? 何かあったのか?」
「何かあったのかじゃない。いないんだ…… あの母娘が……」
樹里がそれを理解するのに、数秒ほどかかったが、昌平の云う通り、母娘が眠っていたはずの布団は敷かれたままで、その痕跡があるだけである。
「ま、まさか物取りか?」
そう言うやいなや、二人は小屋をひっくり返すと云わんばかりに、箪笥の中やらを手当り次第確認するが、盗られたものは何一つなかった。
「うーむ、物取りではないとすると、挨拶もなしに帰ってしまったということか?」
「別にいいじゃないか。特に期待していたわけでもないし…… 少し惜しい気もするがな」
樹里がそう云うや、昌平は「違いない」と苦笑いを浮かべた。
大変長らくお待たせしました。第九話です。