壱・賽の河原
「お嬢ちゃん、どうしたんだい?」
ある日の夕暮れ時。福祠町のとある商店街にある小さなおもちゃ屋の前で、男が女の子に声をかけていた。
男は見た目からして、二十代後半から三十代半ばといったところか、スーツを着ており、髪型が七三分けという、典型的なサラリーマンに見える。
女の子は年端もいかないほどに幼く、どこかあどけない雰囲気があった。
可愛らしいうさぎの絵がプリントされた赤い靴を履いており、手には折り畳まれた傘を持っていた。
「あのね、お母さん待ってるの……」
女の子は男性の問いかけに素直に答える。
「そうかい。実は小父さん、君のお母さんから頼まれてるんだ」
そう云われ、女の子は首を傾げる。それを見て、男性は少しばかり苦笑いを浮かべた。
「ははは、大丈夫だよ。小父さんは君のお母さんと知り合いだからね。ちょっと遅くなるって云ってたから、よかったら小父さんの家で」
男性が言い切る前に女の子は駆け出した。
女の子は母親から強く言い聴かせられていたのだ。
『知らない人の言うことは絶対に信じてはいけない』と……
男性は女の子が自分から逃げる姿を見て、当然そう出るだろうと余裕のある表情と同時に歪んだ笑みを浮かべた。
「ダメだよ、子供は大人の言うことをきかないと」
あくまで優しい口調で女の子を諭していく。
しかし、女の子は母親との約束を頑なに守ろうと、男性から逃げようとしていた。
「子供が大人に勝てるわけがないんだからね」
男性は一瞬にして、女の子に追いつき、背後から抱きかかえた。
当然のごとく、女の子は男の腕の中でジタバタと暴れだす。
「た、たすけ……」
女の子が小さく悲鳴を挙げた。
「大人しくしてれば……」
男性がそう口にし、女の子の耳元で何かを囁いた。「――――」
それを聞くや、女の子は言葉を発する事が出来なくなった。
しとしとと雨が降り頻っており、そのためもあってか、商店街の人通りが疎らになっていた。
「結華っ! 結華っ!」
そんな中、女性が雨の中だというのに、傘もささず、辺り構わずに叫んでいる。
「由梨香っ! 結華は見つかったか?」
路地裏の方から男性がその女性に声をかける。「あ、あなた…… いえ、まだ――」
女性――由梨香は夫である輝昭に状況を説明する。
「あぁ…… あの子に! あの子にもしものことがあったら」
「バカっ! 変なことを言うな! 大丈夫だ、結華はきっと無事だ」
夫、輝昭はそっと由梨香の肩を抱きしめる。
「これだけ探しても見つからないんだ。警察に連絡しよう」
「そ、それだけは……まだ、誘拐と決まったわけでは――」
輝明の言葉に由梨香は拒絶するように云う。
「た、たしかに結華が家から出てから、まだ二時間しか経っていない。あの子の事だ、お前との約束を忘れて、どこかで遊び呆けているんだろう」
しかし、そんな考えは夢幻泡影そのものである。
少女――結華が家を出てからボツボツと雨が降り始めていた。
由梨香は結華に「おもちゃ屋の前で待っているように」
と、言っていたのだ。その時に傘も持たせている。
この日は結華の誕生日だったので、おもちゃ屋で何か買ってあげようと、由梨香と輝明は思っていたのだ。
先に行かせたのも由梨香の仕事が滞っていたという理由だった。
由梨香はどうして、一人で行かせたのかと自分を呪う。
それから午前様になるまで、二人は衰弱してもなお結華を探したが、とうとう見付からず、渋々と家へと戻った。
「あら?」
郵便受けの中に何かが入っているのに由梨香が気付く。
確認してみると封筒のようなものが入っていた。
ポストの蓋を開け、封筒を取り出す。
異様な形に膨らんでおり、裏側が濡れている。
「――どうした?」
「あなた。これが郵便受けに」
由梨香は封筒を輝昭に見せた。
「差出人はなしか……っ!」
由梨香の手から封筒を半ば強引に奪い取った輝昭は封筒を破った。
「ど、どうしたんですか? あなた……」
輝昭の行動に由梨香は目を疑った。
「由梨香……警察に連絡だっ!」
「――い、一体なにが入って……」
由梨香は輝昭が手に持っているものを見やった。
「あ、ああ、あああああ……」
ガタガタと歯を震わせその場にへたれ込む。
輝昭が手に持っていたのは泥で汚れた靴であった。
そして、汚れた部分にはうさぎの絵が隠れていた。
通報を受けた警察官が、輝昭と由梨香から何時頃から結華が居なくなったのかを尋ねていた。
「娘を最後に見たのは今日の夕方です。あの子の誕生日でしたからおもちゃを買ってあげようと……。ただ、少しばかり仕事が滞っていまして、先に行くようにと……」
「失礼ですか、奥さんは何か仕事をしてるんですか?」
「妻は会計事務の仕事をしていてね。その締切があったんだ」
なるほど……と、警官はメモをしていく。
会計の仕事ならば家でも出来る。
「これが郵便受けに入っていた靴ですか?」
西戸崎刑事にそう訊かれ、由梨香と輝昭は頷いた。
「少しお借りできますかね? これも大事な証拠品ですから」
「ええ。あの子が助かるのなら……」
西戸崎刑事はそれを聞くや、靴をビニールの中に入れた。
「鑑識に持っていって、泥の成分を調べといてくれ」
そう云われ、一緒に来ていた鑑識課の警官が足早に渡された靴を持っていった。
泥の成分や性質から、どこの砂なのかを調べるためである。
「大丈夫ですよ。お子さんはきっと私たちが見つけます」
西戸崎刑事は力強く、由梨香と輝昭に云った。
力強いその言葉に夫婦は不安と安堵が混ざった複雑な表情を浮かべた。
――だが、それが果たせぬ約束だったと西戸崎刑事が知るのに、そう時間は掛からなかった。
第八話スタートです。今回は少しばかり色合いが違いますよ。