伍・霊道
【聾】耳が聞こえないこと。また、その人。
ちょうど、西の方角から月が見えて来た時だった。
福嗣町の西の外れにある、廃病院から悲鳴のような声が聞こえたが、周りは、シンとしている。
それもそのはずで、病院はほとんど機能しておらず、そもそも声がする事自体が有り得ない事だった。
それを知っている皐月は、静かに、なにかを探すように待っていた。
「逢魔刻にはもう遅いんじゃないの?」
林道の方に向かってそう告げると、周りから「ピンッ」という糸を弾いたような音が聞こえた。
――これが殺された津島怜菜が聞いた音?
と思った刹那、皐月は手に持っていた竹刀を自分の顔付近に上げた途端、キリキリと、糸で擦る音を気配で感じ取った。
ワイヤーのような細長いものが、皐月の頬にツッと痛みを走らせる。
「これを使って少女と男性を殺した……違う?」
皐月は、まるでこうなる事を予想していたのように、余裕がある声をあげる。
「一瞬だからね。それに交差していれば簡単に鋏を使わないで斬り殺す事も出来る」
バナナの皮を剥くと、すでに輪切りされているという手品がある。
あれは皮の角の部分から糸をつけた針を刺し入れ、隣の角から針を出し、また同じところから針を入れて、隣の角へと通していく。
これを繰り返してバナナのまわりを一周したところで糸の両端を持って引き抜くと、中のバナナが輪切りになっているという手品である。
つまり、両端を引っ張ることで絞められ、中心に力が集中される。
そうすれば、たとえ人間の骨でも、ワイヤーのような固いものなら、うまく頚髄の付け根にはまれば、簡単に切れる可能性があるということだ。
「木にワイヤーの痕が見つからなかったのは、もとから使ってなんかいなかったから。被害者が来る時間帯を計算して、大きな輪っかを林道の中心で作る。そしてその上に被害者が来るのを見計らって、一気にワイヤーを両方から引っ張った。そうすれば骨諸共首を切り落とす事ができる。多分首が落ちてしまったのは、ワイヤーを両方とも振り上げた時に、ちょうど首の位置に来たからでしょうね」
皐月がそう言うと、一層締め付ける力が強くなっていく。
「少女と同じように私も絞殺しようっていうの? でも――お生憎様」
皐月はそう言うや、クスリと嗤った。
竹刀を降り下ろすと、両方から人が倒れる音が聞こえた。
月に照らされた細いワイヤーが、ゆらりと宙に漂った。
「糸は結局一本だけ。切ってしまえば輪っかにはならなくなる」
皐月が視線を暗闇に向ける。
「さぁ、相手が人間じゃなかったらどうしようかと思ったけど」
ゆっくりと人影に近付くと、「もう一人を忘れてもらっちゃ、困るぜ?」
声が聞こえたが、二人分の男性のうめき声があがった。
「――人間相手じゃ本気出す気もしないって事……それじゃぁ、今日近くの川で男性を同じ方法で殺さなかった?」
皐月は竹刀を向けながら、倒れている二人の男に問いただす。
「いや、俺達が殺したのは嬢ちゃんが云ってる公園で殺した女だけだ! それに俺達はこの病院から一歩も出てないんだぜ?」
二人組の一人がそう言うと、皐月は眉を顰めた。
「――一歩も?」
「ああっ一歩もだ! 警察が林道から出て行ってくれないからな。それにここは余り人が来ようとしていなかったからな!」
皐月は、男二人の話を聞きながら、「ふーんっ。まぁ、別にどこに隠れていようがいまいがいいんだけどね? それじゃ本当にここから一歩も出ていなかったって事?」
皐月の問いに、『ああっ!』
と、二人の男がそう告げた。
「兄貴ぃ? だから止めようって言ったんですよ?」
「はぁ? 仕様がねぇだろ? あの小娘に俺達が郵便局を強盗して、盗んだ金の確認してるとこを目撃されたんだからよ?」
「――それが殺人の動機?」
皐月は、なかばあきれた表情で聞き返す。
「まぁな。しかし完璧な俺様のトリックをいとも簡単に解いちまうとはな?」
すこし大柄の男が、声をあげて笑うと、「――糸だけにね?」
小太りな男がそうボケると、大柄の男が「るっさい!」
と、声を荒げながら、小太りの男を小突いた。
皐月は、二人の会話に頭をかかえながら、「それじゃ、私は川の方に行くから……」
と、その場を立ち去ろうとする。
「おいっ! 俺達を見逃すのか?」
「――別に見逃さないわよ」
その言葉に、二人の男は首をかしげた。
「でもよ、そんじゃ誰が俺達を? 嬢ちゃんじゃなけりゃ一体?」
大柄の男がそうたずねた時、病院の方から小さな悲鳴が聞こえた。
「……あ、兄貴?」
小太りの男が身震いを起こす。
「お、おい? あああああっ! あんたっ! 何かやばいんじゃないか? さっさと警察を呼んだ方が?」
動揺している二人組の男に対して、皐月は妙にあっけらかんとした表情を浮かべている。
「――呼んだら自分達も捕まるわよ?」
「か、かかかっ! かまわねぇ!」
「そう?」
そう言うや、皐月は二人を見捨てるように川の方へと歩き出した。
「おっ! おいっ! どこに行くんだよ?」
「どこって? 川の方……って、あんたたち聾とか、耳が悪いわけじゃないんだから、さっきと同じ事訊かないでよ」
皐月は苛立った表情で言い放った。
「いや、それよりも! 病院の方に!」
「だって、あそこに人なんて入れないし……」
「で、でもよ! 現に今も悲鳴が――」
大柄の男が、言葉を止めた。
「――ここってたしか……」
大柄の男はなにかに気付き、身を震わせながらその場にへたりこんだ。
「覚悟もなしに心霊スポットなんかに行くとね? せっかく落ち着いてた霊が怒って、却って霊に取り憑かれ易くなるのよ」
皐月は振り向かずに、ちいさくそう告げた。
皐月が病院の敷地から出ると、うしろから、二人組の悲鳴が聞こえた。
昔この病院で死んだ人たちの霊がそこに住み着いている事を皐月は知っていたからだ。
霊感の強い彼女が殺される思いをここでしたのは、その霊による仕業だったが、彼女の守護神である大黒天がそれを鎮めた。
ただしその大黒天は【田の神】でなければ、【厨の神】でもないが……。
数分後、皐月の連絡によって、二人組は身柄を確保された。
その際二人の男は、うわごとのように、「いたいよぉっ! いたいよぉっ! いたいよぉっ!」
と、発していたが、外傷と思われる場所はどこにもなかった。