壱・土砂降り
『夜目遠目笠の中』
という言葉がある。
夜見る時、遠くから見る時、笠に隠れた顔の一部を覗いて見る時ははっきり見えないので、実際より美しく見えるものという、専ら女性に向けられた言葉である。
しかしこの状況……、土砂降りの中でも同様の事が云えた。
緞帳のように雨が降り頻り、まったくと云っていいほど周りが見えない状態となっている。
そんな中を、ひとりの少女が佇むように立っていた。
少女は目を瞑り、神経を集中させ、『何か』を探していた。
「ギギギ……」
と、奇っ怪な声が幽かに聞こえた。
それはひとつといわず、ふたつ、みっつと、まるで潜んでいたかのように、ジワジワと少女に歩み寄っていく。
「キシャアアアアアアアッ!!」
咆哮をあげるや、死霊たちはいっせいに少女へと襲いかかった。
――はずであった。
「ぐっ? ぎぎ? げぇがぁ?」
なぜ? どうして、こうなった? と言わんばかりに、死霊たちは唖然とした表情を浮かべている。
その顔は爛れ腐って、もはやその表情は理解できないが、たとえるならそういう心情であろう。
「一刀・亡情囀」
少女がそう呟くや、死霊たちの体はバラバラになっていく。
そして赤黒い炎となって――消滅した。
少女の背後から、女性の溜息混じりの声が聞こえてきた。
「あんた……どうして彼等に令状を言い渡さなかったの?」
女性……脱衣婆が鎌を担いだ状態でそう問い掛けるが、少女はその問いに答えようとしない。
それを見るや、脱衣婆ははっきりとわかるほど顔を歪ませた。
「あんたねぇっ! 執行人が公私混同することはルール違反だってことくらいわかってるでしょ?」
「なら……、どうして妖怪なんかに人間と同じことをするわけ? 人間は罪を償い、その償いによって後々に生きる権利を与えられる。だけど、生きてもいない妖怪にそんなことをする理由なんてないんじゃない?」
そう訊かれ、脱衣婆はその問い掛けに戸惑った。
少女の言い分はもっともである。
裁判においての判決は被告人にとって、無罪、有罪、死刑と、どちらにしても今後の人生に大きくかかわってくる。
しかし妖怪に関しては、もともと“存在”すらしていないのだ。
そんな存在にどうして人間と同じようなことをするのか……というのが、少女の考えだった。
「私たち執行人に令状を伝えさせるのは……ただ単にあなたたち地獄裁判官たちがめんどくさがっているからでしょ?」
少女の言葉に脱衣婆は戸惑った。
「そりゃそうよね? 意味も無く死ぬ人間なんてごまんといるし、いったいどうして死んだのか、なんの罪もないのに自殺をする人間だっている。要するに……弱いだけでしょ?」
「そういう……あなたはどうなの?」
脱衣婆は少し寂しそうな顔を浮かべる。
「私も同じようなものよ……。結局守られた借りを返してないんだから」
少女はそう言うと長刀を振り下ろした。
「まだ……探してるの?」
「ええ……あれを殺すまでは、私のやり方で妖怪を殺すっ!」
少女が二つ目の『殺す』という言葉を発した一瞬、まるでそのタイミングを見計らったかのように雷鳴が轟いた。
「……っ」
脱衣婆は舌打ちをする。
雷鳴に紛れるように少女は突然と姿を消した。
そして暴雨の中、はっきりと鈴の音だけは確かに響いていた。
「もちろんあんたのやり方は間違っていない。そういう方法だってあるし、殺された被害者にとって怨みを持っているでしょ……。でも、人間も妖怪も、元をたどればどっちも同じなのよ。……どっちも必ず罪を持ち、どちらもそれを償う権利を持ってるんだから」
脱衣婆は、どうしてここまで少女が妖怪を忌み嫌っているのか、その理由を知っている。
いや、知っているからこそ、令状を伝えてやって欲しいのだ。
三姉妹や、先程の少女といった、迷える魂を成仏させ、その罪を言い渡している執行人たちの令状は、死者や亡霊に対する逮捕状となる。
元々なら脱衣婆が三途の川で死者の衣服を剥ぎ取り、それを傍らにある木の枝にかける。
その撓り具合によって、罪の重さを測っている。
しかし戦国時代や、戦中、昨今の残虐非道な事件によって、罪のない死者が異常なほどに増えているのだ。
人間世界において、何百年もの間に、何千、何万、何億もの命がこの世を去っていったとしても、地獄からしてみれば一朝一夕の流れでしかない。
だからこそ、死者の数は多く、その重みは計り知れないものとなっている。
皐月たち三姉妹が死者や妖怪に対して令状を伝えることは十王の長『五道転輪王』が作った方法であり、地獄裁判をスムーズに運べるというメリットがあるが、言い換えれば苦し紛れのものでもあった。
「一応閻魔さまに報告しておかないと……。まったく、変成王さまはどうして信乃を執行人にしたのかしら? あの子がやっていることはただの憂さ晴らしにしか見えないわよ」
脱衣婆はそう呟きながら鎌で景色を切り裂いた。
その切り目から赤い川が流れており、その隙間に入るや、スーと姿を消した。