肆・戯
そばえ そばへ 【▽戯へ】
〔動詞「そばふ」の連用形から〕
(1)たわむれること。あまえること。
(2)〔「日照雨」とも書く〕ある所だけに降っている雨。かたしぐれ。
「嵐吹く時雨の雨の―にはせきの雄波の立つ空もなし/万代集」
翌々日。稲妻神社に阿弥陀警部と大宮が顔を出した。
そして居間に通されるや、書類の入ったバックから二枚の写真を取り出し、卓袱台の上に置いた。
「これが先日被害者が乗った終電がホームに着いた直後の写真、もう一枚は着いてから十分ほど経って、車掌や駅員が寝ている乗客を起こし廻っていた時の写真です」
二枚の写真はどちらも乗客が疎らではあるが降りている。
「だけど、映像には被害者が乗っていた車両にだけ人は降りてこなかった。まだその車両だけ人が乗っていて、駅員に起こされた直後、被害者の死体が発見されています」
「――で、念のため被害者が乗っていた電車の出発から終着までの駅全部にある防犯カメラを隈なく見たら面白いことが分かったんですよ」
と云うと? と、拓蔵が尋ねる。
「被害者が乗り出した駅が終電の三つ前だったんですよ。その間、一度だけ車両から降りた人間がいたんです」
そう云うや、阿弥陀警部は写真を一枚取り出した。
「媛坂円香、二十歳。職業は大学生。……奇しくも被害者と同じ大学に通っています。調べてみたら降りた駅の近くに住んでいるみたいですね。その日サークル仲間と呑んだくれていたようです」
「それを証言する人は?」
「一応サークルの人達に確認を取ったら、最後までいたようです。それと彼女が座席に座っていたのを目撃している人物もいますし、被害者からだいぶ離れた場所だったようです」
大宮はそう云うや、もう一枚取り出した。
「もう一枚はその次の駅で降りた女性です」
「――彼女が何を?」
写真を見るや、弥生が阿弥陀警部に尋ねる。
「河瀬瞳美、二十歳。職業大学生。……彼女も被害者と同じ大学に通っているみたいなんですよ」
同じ大学の人間が同じ電車線に乗っていること自体には珍しいことではないが、同じ時間帯を走っており、それが終電ともなれば、偶然とはいえ珍しいことである。
「ただ彼女は終着駅の前で降りてますし、被害者が乗っていた車両とは違うところから出ていますから、一応容疑からは外していいという上の見解なんですけどね……」
なんとも不満そうな表情で阿弥陀警部は言った。
「彼女たちがどこから乗り出しのかというのがわからないんですよ。終電ということもあってか、乗り出す人が多かったというのもありましてね」
「つまり、その中に紛れていた可能性もあれば、それより前に乗っていたということですか?」
弥生の問いを、大宮は答えるように頷いた。
「被害者が乗り出したのは終着駅の三つ前。当然同じ駅から乗り出した人間が犯人と言えるでしょ?」
「ただ二人はどちらともその前の駅で降りてるんです。媛坂円香に至っては被害者が乗り出してから次の駅で降りているんです」
つまりはこういうことになる。
まず、被害者が乗り出した駅をA駅とする。
そして終着駅までが三つなので、B・C・Dとなる。
Dが死体が発見された終着駅。
媛坂円香が降りた駅は、被害者が乗り出して次の駅なのでB。
河瀬瞳美が降りた駅は、終着駅より前になるのでCとなる。
被害者が乗っていた車両には二、三人ほど乗客がいたが、そのほとんどは酔いや疲れで意識が朦朧としており、中の様子をはっきりと覚えていなかった。
また、違う車両にいた河瀬瞳美に対しても同様の事が云える。
つまり二人がいつから乗っていたのかという根本的なものがわからないのだ。
「一応死亡推定時刻は午前一時前後。被害者が電車に乗り出してすぐみたいなんですよ……」
そうなると犯人は被害者がいつ乗ってくるのかということを最初から知っていたということになる。
「その日、被害者は何を?」
「飲み会に参加してたみたいですね。一応念の為に云っておきますが、媛坂円香とは違う店で飲んでいますし、それを証言する人もいましたよ」
そう話していると袴を着た皐月が居間へと入ってくるや、阿弥陀警部と大宮に会釈をし厨房へと入っていく。
冷蔵庫が開く音がし、コップに何かを注いでいる音がしだした。
「そういえば、被害者が殺された日って、雨降ってなかった?」
コップを持ったまま居間へと入ってきた皐月がそう云うや、
「でもそれ夜中の事だから……云われてみれば外に干してたあんたの袴、取り込んでたとき濡れてたわね?」
二人がそう会話すると、阿弥陀警部は違和感を感じていた。
「雨合羽ですか? それに被ってたら顔なんてわかりませんね」
「媛坂円香が乗り出したのは飲み会をした場所の近くからというのは間違いないんじゃろうな?」
そう拓蔵に言われ、阿弥陀警部は頷いた。
「ええ。被害者が乗り始めた駅よりひとつ前……」
「若い女性がそれこそ酔いが回り始めている状態で、一人電車に乗るかのう? それに降りたのは被害者が乗り始めた次の駅じゃろ? 事実、駅は二つしか乗り合わせておらん。距離からしてそんなに離れておらんじゃろよ? わしじゃったら電車ではなく、安全を考えてタクシーに乗るがな」
拓蔵にそう言われ、阿弥陀警部はすぐさま携帯で他の警官に確認を取るようにと命じた。
「あれ? この人どこかで……」
皐月が一枚の写真を手に取るや呟いた。その写真に写っているのは河瀬瞳美である。
「皐月ちゃん、思い出せない?」
「そんなに前のことじゃないんですけど……。えっと、昨日は学校だったから違うし、一昨日は残ってた宿題を家でやってたし……その前……あっ!」
何かを思い出し、皐月は声を荒らげた。
「この人、日曜日に図書館で見かけた人だ」
「そう言えば、あんた宿題があるとか言って友達と図書館に行ってたわね?」
弥生がそう言うと、「どこの図書館だい?』
と、大宮が皐月に訊ねた。
「この町の町民図書館というか、総合施設なんですけど、その人電子掲示板の前でジッと何かを見てたんです。時計も見てたから何か待ち合わせをしていたんだと」
阿弥陀警部は再び携帯を取り出し、一応その日、施設で何が催されていたのかを調べさせた。
「そういえばその人、妙なの持ってました」
「妙なもの……?」
「はい。封が切られていない手紙を何通か手元に持っていたんです」
手紙自体は珍しいものではないが、それが何通ともなり、それ全てが封を切られていないとなると、確かに妙である。
「手紙かぁ……。皐月、今度図書館でその人を見かけたら、少しばかり謎解きをしてみてはどうかの?」
拓蔵の提案に皐月は首を傾げた。
「なぁに、深くは考えんでいい。わしはどちらかというとそっちの方が嬉しいがの?」
皐月はどういうことなのかと疑問に思いながら、コップに入ったお茶を飲み干した。