漆・屍体
「お母さん?」
雨音がそう声を掛けながら、ゆっくりとりつへと近付いていく。
「雨音さん……ちょっと待って」
皐月は持ってきていた二本の竹刀の内、一本を片手に持つや、「吾神殿に祭られし大黒の業よ! 今ばかり我に剛の許しを!」
と呪を唱えた。
竹刀は真剣へと変わっていき、皐月は身を構える。
「……なぜじゃ? どうしてこんなことを?」
拓蔵はトリックを説明しても、りつが犯人であることが信じられなかった。
「ちょっと待って! 小父さんはお母さんが犯人だって言うんですか?」
雨音が必死な表情でそう言った時だった。
「――えっ?」
雨音の背中に痛みが走り、そちらを見やった。
そこにはりつが歪むほどの笑みを浮かべている。
「か、か……あ、さ……?」
ドクドクと背中から血が流れ、雨音はドタッと倒れる。
「雨音ちゃん?」
警官の一人が駆け寄るや、りつはそれを切り裂く。
雨音と警官が死屍累々と言わんばかりに折り重なった。
「かぁさん? どうしてぇ? どうして?」
雨音の息が残ってることに気付くや、拓蔵は二人に駆け寄った。
「雨音ちゃん? ええいくそっ! お前たち、ボーとしとらんで助けんか!」
そう怒鳴りながら、視線は皐月へと向けられていた。
りつは逃げるようにその場を立ち去っていく。
「っ! まちなさいっ!」
皐月はりつを追い掛けた。
「遊火! 壁になって食い止めることとか出来ないわけ?」
「無理ですって、火の玉が集まる数や大きさにも限度がありますから。人間の姿でも結構ギリギリなんですよ?」
遊火はそうじゃなくても、塗壁じゃないんだからと駄々を捏ねる。
それを見て、弥生は溜息を吐いた。
「あぁもう! どんだけすばしっこいのよ?」
りつを追っていた皐月は愚痴を零していたた。
追い掛け始めた頃から韋駄天の力で動きを速くしているのだが、それでも追い付ける気配すらしない。
屋根から屋根へと飛び越えながら追い掛けていく。
その動きは神速に近く、人が目を追いやることは不可能に近い。
「好い加減に止まりなさいよ!」
皐月は一気に加速し、りつへと切り掛った。
「へっ?」
りつはまるで紙のようにひらりと一閃を避け、逆に皐月を切り付けた。
皐月は屋根の上から落ち、地面に体を打ち付ける。
「いったぁ……」
ボンヤリと意識を保ちながら、皐月はりつを見やった。
りつは皐月が追い掛けられないと確信したのか、一向に動こうとしない。
「なんか……ムカついてきた」
――皐月がそう呟いた時だった。
『チリン』という鈴が鳴る音がし、りつと皐月はそちらを見やった。
耳が悪い皐月でさえ、耳鳴りと言えるほどに大きな音だ。
「一刀・破魔理」
そう誰かが言った瞬間、りつの体は横一文字に切られ、ズルズルとズレていく。
下半身はその場に倒れ、上半身は高い屋根の上から落ちるや、グチャグチャに潰れた。
――屋根の上に立つ影を見やるや、皐月は絶句する。
「あ、あんた……」
影は皐月の方を見下ろすと、スッと姿を消した。
「皐月? だいじょう……」
追い掛けてきた弥生と遊火が皐月に追い付くや、凄惨な状況に絶句した。
「い、いったい誰が?」
弥生は皐月に尋ねたが、皐月はワナワナと肩を震わしている。
「あんの馬鹿……一体何考えてるのよ?」
今の皐月には怒りが先駆けており、弥生の声が届いていない。
「私たちの仕事は、妖怪を退治することが目的じゃない。この世で犯した罪を償わせることでしょうが? ねぇ……信乃ぉおおおおおおおおおおっ!」
そう絶叫するや、皐月は崩れるように気を失った。
「阿弥陀警部。葬儀担当の会社を調べましたところ、連絡先はまったくの出鱈目でした」
恐らく用意した三人はその場凌ぎのアルバイトだろう。と、阿弥陀は思った。
しかし、それを知る人物はもういない。
「雨音ちゃん? どうして君はあの晩、お母さんを止めなかったんじゃ?」
拓蔵が衰弱している雨音に尋ねた。
「お父さん……悪いこといっぱいしたから……お母さんが殺したの……」
「い、一体どういうことじゃ?」
佐々木がそう雨音に問い掛ける。
「お父さん、警視庁に入ってから人が変わったって……昔は正義感に溢れててみんなに慕われるカッコイイお父さんだった……でも、犯人が捕まらなかったら、成績に影響するっていって……」
「まさか、冤罪をしていたというのか?」
「お父さん、犯人逮捕には限度があるって、ヤクザを使って要らない組員を犯人にしていたの。勿論抵抗はする。でもヤクザというだけで犯人にされていた」
雨音は弱々しく説明する。
「でもそんな事したら……いや、先輩だから出来たんじゃ」
「私たちは組織という仕組みだからでしょうかね? 京本警視長だから出来たんでしょうな……」
「そんなにまでして、何を得たかったんじゃ?」
拓蔵は顔を歪めた。頭の中では今まであった京本福介との思い出が走馬灯のように蘇ってくる。
「雨音ちゃんは死体が棺の中に入っていたことを知らんかったのか?」
「停電した時、お母さんが動かないでっていって」
なんとも純粋な子だと、拓蔵と阿弥陀は引き攣った笑みを浮かべた。
雨音は京本夫婦がようやく手に入れた愛娘であったため大事に育てられていた。それこそ箱の鳥のように……。
だからこそ、親の命令は絶対だったのだ。
「阿弥陀警部っ!」
一人の警官がそう言いながら客間へと入ってきた。
彼はダンボールを抱えている。
「きょ、京本りつの部屋から、こ、こんなものが」
そう云うや、警官は雨音を見やった。その表情はまるで拒んでいるようにも見える。
「一体何が?」
阿弥陀が中を確認するや、顔を歪ませた。
「何が入って……」
「見るなぁああああああっ! 見ちゃダメだ!」
警官がそう云うや、雨音に中を見せない。
「こりゃ……たしかに見せれんなぁ」
拓蔵が中を見るや、手を合わせて拝んだ。
「どうして? どうして見せてくれないの? みぃーちゃんなんでしょ?」
その言葉に拓蔵はおろか、その場にいた全員が凍りついた。
「雨音さん?」
葉月がそう雨音に問い掛ける。
誰一人、中に入っているのは猫だと云っていない。
が、まるで雨音は聞く耳を持たないようにダンボールの中を見た。
「なぁんだ……ここにいた? ほら……ご飯だよ……」
そう云いながらソレを抱きかかえるや、ボロボロと屍体は毀れ落ちていく。
腐り崩れた顔、爪さえ残っていない四本の足。折られた骨は皮を突き刺している。
それは誰もが恐怖するには十分なほどだった。
「みぃーちゃん……みぃーちゃん……」
雨音はただ撫でているだけ。
その眼はまるで暗く、精気を感じることは出来なかった。