弐・嘯く
「警察に連絡はせんのか?」
そう拓蔵が云った時だった。
横にいた雨音がキョトンとした表情というべきか、不思議そうな目をして首を傾げている。
この家に来ている人間の何人かが警察の人間である。だからこそ不思議に思ったのだ。
「この中に鑑識の人間はおるか?」
拓蔵がそう尋ねると、疎らであるが一人、二人と手を挙げていく。
「よし、君たちは厨房から片栗粉を取ってきてくれ。雨音ちゃん、筆とセロハンテープはあるか?」
云われた三人は、それぞれ云われたものを取りに客間を出た。
ただ警官二人は場所が分からないため、雨音と一緒に行動することにした。
「誰か、あの二人と雨音ちゃん以外、わしがブレーカーを上げに行っているあいだと、今の人数が合っているか確認出来るか?」
「ここに弔問客の帳簿があります」
そう云って、帳簿を手渡したのは世話役の人間だ。
「僧侶にも連絡を。彼にも疑いがあるからな。鑑識の手伝いをする者以外は他の弔問客への聞き込みと出入口の警備。並びに不審な人物がいなかったのかを外で訊きに行ってくれ!」
拓蔵は帳簿に書かれている弔問客の名を呼びながら確認を取った。
「……何なんですか? 一般人が……」
一人の若い警官が拓蔵に食ってかかった。先ほど福介の死に違和感を持っていた青年だ。
「あなた、一般人ですよね? それなのに、どうしてそんなに冷静でいられるんですか? それに私たちはあなたに命令される筋合いはありません!」
たしかにそうだと、他の若い警官たちが頻りに言い出す。
「――やめんかぁっ!」
そう声を張り上げ、若い警官たちを制止したのは、拓蔵にライターを貸した老刑事だった。
彼と同じくらいか、少し歳老いた警官たちも、若い警官たちをジッと睨みつける。
「で、ですが……」
その険しい表情に、若い警官らはたじろぐ。
「お前たちは目の前のことしか頭に入っておらんのか? この人は、わしらと一緒の場所に座っておったじゃろ?」
しかし、若い警官らが通夜の経験などあるかないか。座り場所に詳しいわけではない。
「いの一番で行動しなければいかん我々警察が、まるで独活の大木と言わんばかりになにもせんとは、これでは京本警視長に示しがつかんじゃろ!」
老刑事がそう言うと、若い警官たちは口を閉ざした。
「――さぁ彼に云われたことをせんかぁっ!」
そう言われ、各々が行動をし始めた。
「助かりました」
拓蔵はそう言いながら敬礼した。
「いやいやお止めください。私目には勿体ない」
先ほどとは打って変わって、老刑事は腰の低い返事をした。
「しかしさすが黒川警視どの。プランクを感じさせない指示でした」
老刑事は拓蔵に対して敬礼をする。他の初老とまではいかないか、それくらいの警官たちも同様だった。
「もう辞めて六年以上経つんじゃがな。それとひとつ調べて欲しいことがあるんじゃが、良いかな?」
そう訊かれ、老刑事や周りの何人かが頷いた。
「先輩の死因を調べてくれんか? 先輩とはつい先日に会うとるんじゃよ。その時の先輩を思い出しても、まったく死ぬとは思えんのじゃが」
「黒川警視の仰る通り、警視長の死について私達も不審に思っていたんです。ですが……」
「――わかっておる。わしはこれ以上首を突っ込まんよ」
拓蔵が諦めた声でそう云う。いくら元同僚とはいえ、辞めた人間にこれ以上事件に関わってほしくないのだ。
――が、老刑事は出来れば参加して欲しいと思っていた。
本来ならば自分たちが指示をしなければいけないのだが、いの一番に拓蔵がしてくれている。それも的確に……。
先ほど片栗粉と筆を持ってくるようにいったのも、指紋を取るためである。
指紋検出には主にアルミニウム粉末を刷毛で塗布して検出する粉末法や、エチルアルコールにニイヒドリンを微量に混ぜて噴霧し、それをドライヤーやアイロンなどで加熱させて反応を出す液体法などがある。
弔問に来ている何人かが警察だと知っていた拓蔵は、指紋検出に使うため取りに行かせたのだ。
「持ってきました」
「佐々木くん、阿弥陀警部や湖西鑑識官が来る前に……」
拓蔵にそう云われ、老刑事――佐々木は頷いた。
持ってきた片栗粉を筆に少量つけ、棺の蓋の裏上下それぞれに付けていく。手に持つ場所がちょうどその部分になるからである。
棺を開ける際、その部分に指紋は強く残ることを拓蔵は知っていた。
徹底的にするために他の部分にも付けるのだが、この方法では強く指紋を押した部分しか検出されない。
――それから数分後、通報を受けた阿弥陀警部ら捜査一課は、現場状況に呆然としていた。
「こりゃ、私たちの出番はないでしょうねぇ?」
事件が起きてから小一時間。ようやく来た阿弥陀が唖然としているのも無理はない。
拓蔵の指示によって、聞き込みや実況見聞などは既に済ませていたからだ。
喪主である京本りつと遺族である娘の雨音。
葬儀実行委員長と世話役の女性が二名の三人。
親族は弟である京本萩助と妻、その子供の兄妹のみで四人。
知人、友人が五人来ており、近親者は従姉弟の京本亘輝一人の計十五人。
そして残った仕事関係者。つまり警官となっている。
「湖西鑑識官は来ておらんみたいじゃな?」
周りを見渡しながら、拓蔵は阿弥陀に尋ねた。「あれ、神主さん……?」
阿弥陀と大宮が首を傾げた。
「阿弥陀警部、今回の事件……もしかするとあの子らの力が必要かもしれんぞ?」
拓蔵にそう言われ、阿弥陀は訝しげな表情を浮かべた。
「どういうことですかな?」
「棺の中に入っていたはずの京本福介の死体が無くなっていた。しかも全員が見ている通夜の中でじゃ。一回だけ部屋の中が停電で真っ暗になったが、その間五分とない」
「さらに言えばその間、先輩は京本警視長の娘さんである雨音さんと一緒にブレーカーを上げに行っていた間、全員その場を動かないようにしていたし、家から出たものはおらんかったよ」
佐々木が付け加えるように言った。
「つまり……その間、『全員が全員のアリバイを証言出来る』というわけですかな?」
「一瞬の隙があったとしても、まぁそうなるわな……」
阿弥陀はそう聞きながらも、どうして拓蔵が皐月たちの力が必要なのかが気になっていた。
「何か、妖に関するものがあったんですね?」
そう言われ、拓蔵は阿弥陀と大宮を棺の前まで連れていくと、ある場所を指さした。
「こ、これは……爪痕?」
そこには本来あるはずがない爪痕があった。
「りつさん? たしか京本先輩は猫アレルギーじゃありませんでしたか?」
「えっ? え、ええ。夫は猫に触ると蕁麻疹や吐き気を催すんです。それでなくても近くに来ただけで追い払いますから」
「つまり、この家に猫はいないということでしょうか?」
阿弥陀はそう云いながら拓蔵を見た。
「それじゃ、わしは失礼するよ。明日もあるのでな……」
「送っていきましょうか? もう電車もないでしょ?」
佐々木にそう云われ、拓蔵は頷く。
彼らが去って行くのを見ながら、阿弥陀は首を傾げた。
「どうしたんですか?」
「いや、佐々木刑事の言葉がすこし気になりましてね……」
そう呟きながら、阿弥陀は考えていた。「わたしが来た時には、もう刑事部を辞めていたってことですか」