捌・理由
「ごめんください」
稲妻神社の社務所の入口から声が聞こえ、弥生が出ると、「阿弥陀警部に大宮巡査。また事件か何かですか?」
と、若干諦めたような口調で言った。
「いえ、ちょっと近くを通ったんでね。それに今日は二人とも珍しく非番なんですよ」
阿弥陀警部は暑そうに団扇を扇いでいる。
「だったら、中へどうぞ。阿弥陀警部とは長い付き合いですから」
「そうですか? それじゃお言葉に甘えて……」
そう言いながら、阿弥陀と大宮は居間へと案内された。
「それにしても暑いですね? 弥生さんも大変でしょ、日中巫女服を着てないといけないんですから」
「そうでもないですよ? それに好きで着ているようなものですし」
そう言いながら、クルリとその場で一回転した。
「あはは、似合ってますよ」
大宮がそう言うと、弥生は笑みを浮かべた。
「おやおや、阿弥陀警部じゃないか?」
拓蔵が居間に入ってくると、阿弥陀と大宮に気付く。
「お邪魔してます」
と、阿弥陀と大宮は頭を下げた。
「弥生、酒はないのか?」
そう尋ねると、厨房にいた弥生はちょうど魚を下ろしている時だった。
そして振り向かず、刺身包丁をまな板に突き刺した。
「あのね、今家計はもちろん、神社自体も火の車なんだから……、今度の結婚式で御神酒として使う清酒しかないの……」
振り向いてはいないが、その口調から、誰がどう見ても怒っているとしか感じられなかった。
「くくく……」
突然阿弥陀が含み笑いをした。
「ふ、不謹慎ですよ、警部」
「いや、前も同じ事があったなぁと……」
そう言いながら、阿弥陀は拓蔵を見やった。
「大宮くんが来た時じゃったかな?」
「ええ。それもありますが、私が初めてこの神社に来た時も似たようなものでしたよ」
そう……あの時もそうだった。
酒の催促をしようとした拓蔵を弥生が渋々ながらも了承していた。
が、今回ばかりは本当にまずいことになっていた……
『舞頸』で拓蔵は御神酒に使う清酒を水で薄めればいいという暴挙を提案しているが、酒が薄くなれば違和感を感じる。
要するにそれに対しての苦情がその時に行なった夫婦から来たのだ。
それ以降、御神酒に使う清酒は、弥生の部屋に重々保管される事になった。
「もうあれから半年以上も経ってるんですかね?」
そう言いながら、阿弥陀は麦茶を飲み干した。
「もうそんなに経つのか……」
拓蔵は自分で買ってきたワンカップ酒をちびちびと飲んでいる。
「それで、梨元宗一の死体は供養されたのか?」
「ええ。浅葱さん……。いや、橋姫さまの云う通り、死体が発見された場所で被害者二人とは全く別のレミノール反応がありました」
つまりその場で殺されたという事だ。
そしてもう一つの反応とは、他ならぬ梨元宗一のものだった。
「父親に取り憑いて自分を殺した……生き霊だったからこそ出来た荒業じゃろうな――」
「ですが……あの晩葉月さんが云った言葉、『大好きな人と一緒になれた』というのが今でも気になるんですよ」
「恐らくそのままの意味じゃろうな……葵上は能舞台の話じゃが、決して題名の葵上が妖怪ではないんじゃよ」
そう言うや酒を飲み、口を潤すや話を続けた。
「『葵上』は光源氏の正妻の名でな、それに取り憑いた六条御息所が葵上を苦しめるが、最後には法力によって退治される話なんじゃよ」
そう話しながら再び酒を飲むと、「まぁあの事件、自分が堂本鋼に愛されていると信じなかった本人が一番悪いじゃろうな……」
梨元美亜は愛するものと一緒に死ねて幸せだろう。
だが、それは独り善がりの幸せでしかない。
『葵上』での六条御息所は、葵上が光源氏の正妻である事から、恋慕と妬みによって鬼と化し呪い殺そうとした。
もし彼女に新しい恋なり何かをしていれば鬼にはならなかっただろう。
たとえ葵上を呪い殺し、光源氏を手に入れたとしても、それは結局、梨元美亜同様、独り善がりの幸せでしかないのだ。
あの晩、葉月が霊の声を聞いた時、二人は全く別の事を云っている。
そして何より、梨元美亜が犯人を怨んでいないと云っている。
それもそうだろう。殺人を犯したのは梨元美亜本人なのだから……
「しかし、今でも不思議なんですよね。あの時どうして皐月さんに切られたにも拘らず、ただ竹刀で叩かれたような痛みしか感じなかったのか」
「そりゃそうですよ? だって、私の刀は生きている人や幽霊を切ることなんて出来ませんから」
何時の間にいたのか、皐月が阿弥陀にそう云った。
それが本当なら、道理で血が出ていないはずだと、阿弥陀は思った。
「あれ? お客さんですかな?」
皐月のうしろに誰かがいる事に阿弥陀は気付く。その姿は大宮にも見えていた。
「久し振りですね。阿弥陀警部」
小さく頭を下げ、浅葱は阿弥陀と大宮巡挨拶をした。
「あれ? そう云えば、大宮くんって遊火さんが見えませんから、霊感はないと思ってたんですけど?」
阿弥陀が小声で浅葱に尋ねる。
「ああ、あんな未熟者と一緒にしないでください。そもそも私は神ですから、自分の姿が人の目に見えるようにするのは容易い事です」
要するに権化というものだ。
あの晩も霊感の有無を問わず、全員に彼女が見えたのはそれが理由だった。
「それじゃ西戸崎くんが推理したのも?」
「あれは当の本人じゃよ? まぁ少しばかり違うがな……あの父親も悔やんでおったんじゃろうな」
それはつまり……西戸崎に一瞬だけ、梨元宗一の霊が乗り移っていたという事になる。
「そう言えば、今日浅葱橋の近くでお祭りがあるそうですよ? 花火とか」
「あ、生活安全課が警備を担当するそうなんで、今晩みなさんでどうですかね?」
大宮と阿弥陀がそう言うと、皐月は弥生を見た。
「あ、お金は私が出しますよ。いつもお世話になってますからね」
阿弥陀がそう皐月や弥生に言った。
「いいんですか?」
「人の厚意は甘えるに越した事はないぞ皐月。私が禿の時、姉女郎達がようしよったわ」
浅葱がそう言うや、全員が笑った。
浅葱がどうして自ら人柱になったのか……。
それは喜平を好きになった自分と同様、遊郭の中でしか生きられない遊女、特に幼い禿や新造が見世に来る客とは違い、金で買った一夜の妻ではなく、本当に自分を好きでいてくれる人を見つけて欲しいがために人柱になったのだ。
本来、遊郭には大門というものがあり、それが開かない以上入る事はもちろん、出る事も出来ない。
だが浅葱橋が掛かっている繁華街と民宿街は、川を隔てて別れていたのだ。
そしてそれは渡し船でしか行き来出来なかった。
つまり繁華街はひとつの小さな孤島でもあった。
ただ、今は埋め立てなどがされており、その面影は全くない。
浅葱が橋姫となった理由は、自分は叶えられなかった夢を、橋を行き交う恋人達に委ねた事にあった。
他の橋姫と違うところは、他の橋を褒めたり、女の嫉妬をテーマとした『葵上』や『野宮』などをうたっても当の浅葱はてんで気にしない。
それは生まれて死ぬまで一途の恋だけをした橋姫だったから。
あの日、浅葱が橋を離れたのは、その日が喜平と初めて逢った日であり、彼の子孫を見ていたからである。
その晩、皐月たちは全員で浅葱橋の上で花火を見上げた。
その時、ふと見せた浅葱のいや……橋姫の綻んだ笑みは、自分の周りで同じように花火を見ている恋人達への笑みだった。
第4話終了です。今回は過去の話でしたが、浅葱はまた出す予定です。