拾・鶏冠
日が変わろうとしていた午後十一時、鳴狗寺の母屋の電話が鳴り響いていた。
トイレにと起き上がっていた浜路が、それに気付き、電話に出る。
「はい、鳴狗寺ですが……あ、皐月さん」
「浜路ちゃん――おじいちゃん、いる?」
浜路は一瞬相手が皐月じゃないのではと思った。それほどまでに声のトーンが低かったのだ。
「おじいちゃんはもう寝てますけど……。あ、お姉ちゃん、まだそっちなんですか?」
「いいからおじいさんを起こして、今から言う病院にすぐに来てほしいって、報せて」
皐月がそう云うや、「えっ? それってどういう……」
浜路の問い掛けに有無を言わせず、皐月は「云われたとおりにしなさい」と叫んだ。
数十分後、とある病院の前に一台の車が停まった。そこから実義と付き添いで浜路が降りてくる。
「あ、あんたはたしか王さんじゃったかな?」
実義がロビーで出会ったのは、王様こと大自在天であった。
「信乃が何者かに重傷を負わされた。今その治療に当たってる」
王様がそう云うと、実義と浜路は驚いた表情で、本当なのかと聞き返した。
「それで、皐月さんは……」
浜路がそうたずねる。「毘羯羅や伐折羅たちと一緒に犯人を探しておるよ」
「犯人? それっていったいどういう?」
「お前さんが迎えに送った修行僧じゃがな、妙な死に方をしておった……。つまり、迎えに行っている途中何者かに襲われ、擬態していたというわけだ」
王様の言葉に実義は信じられない表情であったが、帰りが遅いことを考えると合点がいっていた。
「それでお姉ちゃんは?」
「心配するな、ここの病院は優秀だ。それに毘沙門天や犬神の加護があったからだろう。あれだけの事故だったのに、傷は頭をぶつけて血を流してはいたが、頭蓋骨や脳に異常はなかったよ」
そう話しかけてきたのは、日光であった。
「どうじゃ? 信乃の容態は」
「なんとか峠を越えました。時機に目を覚ますでしょう」
日光がそう云うと、実義と浜路はほっと胸を撫で下ろした。
「しかし、迎えに来ていた修行僧の方に違和感がありまして」
そう云うや、日光は実義の首に手を掛けて絞め始めた。
「な、なにを……」
実義が狼狽すると、日光は手を放す。
「げへぇほ、ごほっ!」
「おじいちゃん、大丈夫?」
浜路が声をかける。「い、いったいなにを……」
実義の言葉を待たずに、今度は左手で首を絞め始めた。――そして、その手を離す。
「閉め方が違うということか?」
王様がそうたずねると、日光は答えるようにうなずいた。
「遺体には首を絞めた痕跡がありました。ですが先ほど実義にしたように両手ではなく、まるで片手で閉めたような感じになっていたんです」
日光はそう云うと、懐から修行僧の遺体の写真を取り出し、王様と実義に見せた。
その遺体の写真には、たしかに首を絞められた痕があったが、首を絞めた証拠である爪の痕がない。
今度は左側を写した写真を見せると、そちらにはくっきりと爪の後が出来ていた。
「つまり、犯人は左手だけで殺した……そんなことを信乃さんが出来るとは思えませんし、なにより事故が遭った午後八時半頃には、すでに修行僧は死んでいたため、その時間の証言は、一緒にいた皐月さんたちがしてくれています」
「じゃが、同時にその時間に向かわせていた……。そうなると、すでにわしは死人を迎えに出していた――とういうわけか?」
ありえないことではないが――俄かに信じられないことであった。
「――問題は皐月のほうじゃな」
王様がボツリとつぶやく。「皐月さんが?」
「親友である信乃が酷い目にあって、しかも六年前に起きた事故と同じ状況だった。それで鶏冠に来てなければいいのだがな」
その考えは――見事に当て嵌っていた。
浜路がぼんやりと目を細めていた。それに気付いた日光が、どうしたのかとたずねると、「変なにおいがいっぱいで、気持ち悪い」
と、浜路は愚図った。
「ちょっと皐月っ! 落ち着きなさい」
毘羯羅の言葉を聞かず、皐月は盲滅法といわんばかりに走り続けていた。
小さな気配すら見逃さないと言わんばかりに、皐月の表情は険しい。
「車の中には既に妖気もなにもなかった。気配もわからないのに、どこを探すっていうのよ?」
伐折羅がそう止めると、「それじゃぁ、それじゃぁ、信乃の仇が取れないでしょ?」
皐月がそう叫ぶと、毘羯羅は一瞬ゾクッとした冷たい悪寒を感じた。それはかつて、この福嗣町を襲った大災害と……似ていた。
「――やけに月が隠れてるわね」
宮毘羅がそう言う。それを云われるまで、特に誰も気にはしていなかったが、月が妙に雲を出たり隠れたりして、それが妙に霞かかって見えている。
「……朧月夜――」
伐折羅と宮毘羅は、毘羯羅を一瞥する。その視線を感じ、毘羯羅は少し顔を俯かせた。
病室の中、信乃はゆっくりと上半身を起こした。一瞬だけ頭に痛みが走る。
それが功を奏したのかはさておき、怪我をしているにもかかわらず、至って冷静になれた。
あの時、修行僧に言われた言葉が妙に可笑しかった。
六年前のあの日、事故を装って皐月が親を殺した……なんていう噂話を、どうして修行僧が知っているのか。
たしか、警察はそのことを発表してなかったはずだ。
幼い頃、信乃はまだ小さい浜路と一緒に、祖父である実義に連れられて、稲妻神社に来たことがある。
その時信乃は、事故に遭い、拓蔵に引き取られた皐月と初めて出会った。
自分と同じくらいの女の子が、それも臆病者の泣き虫で、馬鹿正直で……と、どう考えても人を殺すことなんて考えられない。
それどころか、あの拓蔵がそのことを知っていたら、たとえ孫娘であろうと半殺しにするくらいわけないことは、家族でなくても、友人である実義の孫である信乃も知っていた。
拓蔵にとって、家族とは切っても切れないものという思いがあるからだ。
そのことは三姉妹も重々理解している。
ただ、海雪のことがあったため虐待によるもの――と、一瞬思ったがそれも違う。
皐月がお父さん子だというのは自他共に認めている。
そもそも親を好きになる子が、虐待に苦しんで親を殺すなんて事はない。
――やめたやめた。あのばかが人を殺すなんて考えらんない。
信乃は頭を振り、考えを払い除けた。
ゆっくりと深呼吸する。薬品のにおいが嫌なくらいに鼻を擽った。
先天性とはいえ、この異常な嗅覚がたまに嫌になる。
嗅ぎたくもないにおいだってあるし、何よりこの色んな物質が混ざった薬品のにおいが、妹である浜路と同様に嫌いだった。
「真達羅、いる?」
部屋が個室であるのに気付くと、信乃は小声で呼びかけた。
「ここにおるで。しっかし、えらいやられたな?」
「やられた? まぁ車がコンビニに突っ込んだからなぁ」
信乃は自分の頭を触る。まだ痛みはあるが、立てないというわけではなかった。
「そうやなくてな? よくまぁあの状況で助かったなぁ思ったんやけど?」
「……どういうこと?」
信乃は少しばかり違和感を覚えながらたずねた。
「あの車……、運転手以外にも人座っとったで?」
「座っていた? でも助手席には誰もいなかったわよ?」
「座っていたのは、助手席だけやない。あんさんの横にも……運転席のうしろにも人がおったんや」
それを聞くや、信乃は青褪め、目を大きく開いた。
「そんなはず……だって、もしそうだとしたらなんで気付かないの?」
「気付かなかったんやなくて、気付けんかったんや……。あんさん車に乗る前、なんか薬を嗅がされんかったか?」
信乃は病院に運ばれる前、つまり車に乗る前の事を思い出す。
――たしか……、拓蔵さんに無理矢理連れられて、空川とかいう診療所に――。
「あの時だ……。私でも気付けないくらい微妙な薬品の臭いで催眠状態になっていた?」
「そう考えたほうがええな。まぁ、もうひとつ言うと、迎えに来た修行僧は迎えに来る以前に殺されていた。もし、わいとユズが異常に気付かんかったら、あんたどこに行ってたかわからんし、最悪……壁に突っ込んでお陀仏やったで? コンビニに被害を与えてしもうたから、無事とは言えんけどな」
「――ユズが?」
「そうや。ユズはアンタのことが好きやからな。こんなことでは死んでもらいとうなかったんとちゃう?」
真達羅がそう云うと、信乃は少しばかり顔を俯かせる。
――いつも助けられてばかりだな。――もしあの時だって、ユズが自分にあの妖怪の注意を引き付けなかったら、確実に殺されてたのは私だ……。
信乃はゆっくりと頭を上げると、部屋のドアが開いた。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「――浜路、それにおじいちゃんも……。ふたりともどうして?」
「皐月ちゃんから連絡があってな、しかし無事で何よりじゃ」
実義が近付くと、信乃はゆっくりとベッドから起き上がった。
「まだ大丈夫じゃないんじゃ?」
「大丈夫。もう平気……。それより皐月は?」
「私たちが病院に来た時にはもういなかった。多分お姉ちゃんを襲った妖怪を探してるんだと思う」
浜路が心配そうな表情でそう答える。
信乃は一瞬違和感を感じた。
――そういえば、浜路って薬品のにおいが駄目で、下手をしたらその臭いで酔うんだっけ?
その違和感を疑うような視線に気付いた浜路が首をかしげる。
「どうしたの? 『おねえちゃん』……」
その異常なほどの低いトーンに、信乃は思わずたじろぐ。
「あ、あなたたち……誰?」
「誰? 変なこときくね? 見てわからない?」
目の前にいるのは浜路だ。それと実義。
知っている。知っているからこそ、わからないのだ。
においはまったく、いつも無意識に嗅ぐにおいと同じだった。
ただ違うのは違和感。異様なほどに歪んだ違和感。
「――信乃っ! なにしとるんや、はよ真言を言いや!」
真達羅が叫んだ。
その一瞬間が空いて、グチャという何かを叩きつける音が聞こえた。
「――真達羅?」
信乃が慌てて振り向いた。その刹那、背中に痛みが走った。
ゆっくりとうしろを見た信乃は、刺した人間の形相を見るや、ゾッとした。
「は……浜路……なにして……ごほぉっ!」
浜路は手に持った小刀を捻る。信乃は吐血し、うつ伏せになって倒れた。
「くぅそ……、まさかこういうことか? あんたら浜路に、実義やないやろ?」
真達羅が震えた声で叫んだ。
「きゃはははは……」
浜路が歪んだ声で哂った。それにあわせて実義も哂う。
廊下の方から人がこちらへと走ってくる音が聞こえてきた。
「信乃っ! 大丈夫か?」
「実義はん? ほんまもんか?」
部屋に入ってきた実義を見るや、真達羅はたずねた。
「真達羅! これはいったいどういう状況だ?」
王様が叫ぶように、たずねる。
「見ての通りや……っ! こいつら二人に化けて信乃を油断させた後、殺そうとしたようや」
真達羅は日光と一緒にいる浜路を見る。
浜路はマスクをしているが、信乃の近くに立っている浜路はマスクをしていない。
「浜路、今どんな気分や?」
真達羅が、試しに浜路に気分をたずねてみる。
「すごく気分悪い。変なにおいいっぱいするし……うぇ」
マスクをした浜路は泪目で言う。
――こっちがほんまもんやな……。
真達羅はそう確信すると、咆哮をあげるや、大きな獣となり、部屋の中にいる実義と浜路を、その大きな手で力任せに払い除けた。
ふたつはそれぞれ、別の壁に叩きつけられ、ズズズと凭れ崩れる。
「信乃、大丈夫か?」
「げぇ……ほぉ……、なんとかね」
信乃はゆっくりと立ち上がる。
「日光はん、信乃の治療頼んます」
「わかった。少し痛みが走るが我慢せいよ」
日光は信乃の背中に刺されたナイフを抜き取った。
その拍子に血が間欠泉のように噴出す。
「……っ!!」
信乃は言葉にならないほどの悲鳴をあげる。
「大丈夫、すぐに治る。オン・ロボジュタ・ハラバヤ・ソワカ」
日光は自身の真言を唱え、信乃の怪我を治して行く。
日光の真言は病根、つまり病気や怪我の元を取り払う功徳がある。
信乃の怪我は、見る見るうちに消えていく。
「信乃、大丈夫か?」
真達羅がそうたずねる。信乃は頭を振るい「大丈夫。ありがとうございます」
と、日光に頭を下げた。
「さてと……浜路、おじいちゃんとその小父さんと一緒に安全なところに非難してっ!」
信乃がそう云うと、実義と日光は浜路を連れて廊下の奥へと避難した。
それを確認すると、信乃はゆっくりと深呼吸する。
――オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ――
多聞天の真言を唱えると、青白い炎が彼女の周りを包み込む。
信乃は青と白の巫女装束姿を纏い、長刀を構えた。
キシャアアア……と、偽の浜路が奇声をあげる。
信乃は襲い掛かってきた浜路を切りつけた。
しかし、浜路はなにこともなかったようにケロッとした表情で、信乃の方へと振り返った次の瞬間、ひとつ、ふたつ、みっつと――青白い炎が浜路の体に現れ、点と点を繋ぐように体が切られていく。
「一刀・締龍燈」
信乃がそう呟くと、偽の浜路の身体は先にそって切り落とされていく。
そして黒い塊となり、青白い炎に焼かれて消えた。
「キシャァアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
うしろから悲鳴に似た奇声が聞こえ、信乃がそちらに振り返ると、真達羅が偽の実義を踏み潰し終えたところであった。
「二つとも地獄に送られたようやな」
「……みたいね」
信乃は刀を振るい、元の姿に戻る。
「……本当か?」
日光が驚いた声をあげる。「ど、どうかしたんか? 日光はん」
「目々連から連絡があった。ぬらりひょんは酒呑童子の後を追って相見えようとしているようだ」
「仲間割れ……やろうか?」
「いや、そうではない。それと波夷羅からも連絡があった。空川診療所で変な気配がしたので、それを追ったら田心姫に出くわしたそうだ。彼女は自首したとのことだ」
「――ぬらりひょんも詰んだというわけかいな?」
真達羅の言葉に、日光は頭を振るった。
「波夷羅が田心姫から聞いた話では、元々は酒呑童子を自分の手元に誘き寄せるための口実がほしかったようだ。やつは朧によって封じられていた」
「朧か……。しかし、あの子は退治するいうより、浄化させるみたいな感じやったからな。された妖怪も、心を入れ替えたように、あの子の遊び相手になっとったし」
「酒呑童子はそれほど凶暴だった。朧が死んだことでその封印は弱り、徐々に力を復活させていたとのことだ」
「ともあれ、先に皐月を追わないと……。あの子下手したらまた暴走しかねないし――たぶん私を襲った妖怪を追ってるんだろうけど」
信乃はゆっくりと深呼吸する。
「それじゃぁ、こっちは私たちがしますから、そのことを他のみんなにも知らせてください」
そう云うや、信乃は窓から飛び降りる。
部屋は三階で、当然こんなところから飛び降りれば死ぬのは確実であったが、信乃にとってはそうではない。
スタッと、綺麗に着地すると、険しい表情を浮かべながら、皐月のにおいを追った。