漆・挿話『四方山話』
祝言は滞りなく進められていた。
宮司である黒川涅槃による祝詞、おりんや巫女たちによる巫女舞が本殿の中で行われているのだが、その中に朧の姿はなかった。
新郎である燈明偲は、悟られぬよう辺りを見渡していた。それを横に座っている新婦である菘に指摘される。
「いや、こういうのには慣れていなくてね」
そう笑って誤魔化すが、偲は巫女たちの中に朧がいないことを気にしていたのだった。
――さて、どう動くつもりかしらね? ぬらりひょん……。
天井の隅っこにある出っ張りに腰を掛けながら、祝言の様子を窺っていた、当稲妻神社の祭神である宇迦之御魂神、もとい荼枳尼天はジッと偲を見ていた。
特に可笑しな点もなし。相手の菘を騙しているとはいえ、傷つけている様子はなかった。
偲の両親も、まさか目の前にいる息子が偽者だとは思いもしない。
祝言はそのまま、何事もなく終わりを迎えた。
浅葱橋で見付かったどざえもん……。もとい、本物の燈明偲の水死体が発見されたから四時間ほどが経った。
東條は燈明家の屋敷に赴いていたのだが、まだ祝言から戻ってきていない。
少し待つとするかと、その場に座るや、彼の視界に少女の姿が入ってきた。
その横には白い犬がいる。散歩中かと東條は最初思った。
「朧ぉ、またお前端折られたんか?」
朧の上には、小さな生き物のようなものが浮かんでいる。
東條は目を擦り、再度朧の方を見遣った。たしかに小さな生き物のようなものが、朧の頭上に浮かんでいるのが見える。
見間違いではなかった。
「な、なんだ? いったい……」
東條が声を出すと、朧がその声に気付きそちらを振り向いたが、数秒もしないうちに立ち去って行く。
「ま、待ってくれ! そ、そこのお嬢さん」
東條は朧を呼び止め、そちらへと近寄る。
「朧、面倒なことになりそうやから――こいつ殺していいか?」
頭上にいた『縊鬼』がそう云うや、東條の首元に体を絡め、絞め始めた。
「な、なんだこれは? くぅ、くるぅしぃ……」
東條は首に絡みついた縊鬼を取り剥がそうとするが、力強く締められていく
「――やめいや……」
小さくも、ドスのきいた声が聞こえ、縊鬼は東條の首を締め付けていた力を弱めた。
「げぇ、げほぉっ! がはぁっ!」
解放された東條は激しく咳き込み、朧を睨みつけた。
朧はゆっくりとその場を立ち去るが、東條に呼び止められる。
「こ、公務執行妨害で……」
そこまで云ったが、東條は気を失った。
「人を傷付けるのは駄目……呉葉」
朧がそう云うと、東條を驚かして気を失わせた白拍子の女性が朧の方へと振り返った。
女性は恐々とした鬼の面を被っている。
「まぁ、目の前にそんな顔出されたらびっくりするわなぁ」
縊鬼が笑いながら云う。呉葉が鬼の面を取るや、そこには眉目秀麗な美女の顔があった。
「しかし、どうしてこいつこんなところにおったんだろうね?」
そう呉葉がたずねるが、朧と縊鬼がそんなこと知るはずもない。
「――さてと、そろそろ帰らないとね……昼食だ」
呉葉はそう言うと、朧の肩を叩いた。
「ぬらりひょん、嘘云ってる」
朧がそう呟くと、縊鬼と呉葉は首をかしげた。
その日の夕暮れ、おりんは妹である栢や、他の巫女たちと一緒にお風呂に入って自室に戻ろうとしていた時だった。
「して……浬拌さんや、話はついておるのだろうな?」
今日祝言をあげていた燈明家の執事が、浬拌と話をしている。
「わかっておる。もはやそちらの話に従うしかあるまい。たとえ信仰されていたとしても、利益はまったくないのだ」
浬拌がそう云うと、執事は一瞬だけ顔を歪める。そして懐から紙の束を取り出し、それを捲るや万年筆でスラスラと筆を走らせていく。
帳面には『壱萬也』と書かれている。
執事が書いていたのは小切手で、当時――大正時代としての通貨を現代に換算するとおおよそ『一億』ほどである。
「これでこの神社も案対するでしょう」
「いやいや、こちらの神社で祝言をあげていただいたことに関して感謝いたします」
浬拌がそう云うと、執事はゆっくりと首を横に振った。
「少し問題がありましてね、他の神社では祝言をあげてもらえんかったのですよ」
「おや、それはどうして?」
浬拌の言葉に「少し噂になってしまって、なにやら女衒をやっていたとかなんとか」
「女衒とな……また時代遅れだ」
浬拌はそう言うが、当時、大正時代はまだ女衒という職は残っていた。
女衒とは親から娘を買い取り、遊郭に売る人買いのことである。
昨今問題視されている慰安婦も、その女衒によるものとされており、云ってしまえばこの女衒という職は売買することはなくなったとしても、姿をかえ現代でも『スカウト』という形で生きており、揶揄されている。
「その女衒をうちの会社がしていた……という噂がね」
「まったく火もないところに煙は立たないでしょうし」
浬拌は笑いながら云う。
「ですね。では話の通り、そちらにも代償を払っていただきましょう」
執事がそう云うと、浬拌はまるで『なにこともなかった』かのように、
「わかっている。そうだな、うちに理解出来んやつがおってな、まったくなにを考えているのかわからん娘で、私の娘二人よりも年上なんだが、思考が子供のようなやつだ」
「ほう……それは誰で?」
「朧……」
と、浬拌が言った時だった。
「すみません、警察のものですが、宮司はおりますかね?」
玄関先から東條の声が響く。
「おや、警察の人がきたようですが?」
「まったく、なんの用だ」
浬拌はあきれた表情を浮かべながら立ち上がり、部屋を出ようとしている。
おりんはハッとしてその場を離れたのは、浬拌が部屋の襖を開くほんの五秒前で、廊下に出た浬拌が、おりんの姿に気付くことはなかった。
「こんな時間に、なんの用ですかな?」
浬拌が玄関先で東條にそうたずねると、「いや少し宮司にお聞きしたいことがありましてね……。今日そちらの神社で燈明財閥の跡取りである偲さんと黒雪菘さんが祝言をあげられたそうじゃないですか?」
その質問に、浬拌は「ええ」と答える。
「ちょっとその時の事を聞かせてもらえませんかね? 特に新郎である燈明偲について……」
「偲さんについてですか? 特に可笑しな点はありませんでしたな」
浬拌が首をかしげる。「いや、何か小さなことでもいいんですよ」
「そう言われましても、あまり人を凝視してはいかんのでね」
そう言われ、東條は途方にくれる。
「しかしまたどうしてうちに?」
「実は今日、浅葱橋の桟橋でどざえもんが出ましてな」
「ほう、まぁお気の毒に」
「それで調べましたところ妙なことがありまして、その死体が燈明偲だったんですよ」
東條がそう云うと、浬拌はカカカと笑い出した。
「そんなはずはないでしょう? 現に偲さんは式に出ておりましたし、まさか『死んだ人間が祝言をあげる』とでも?」
浬拌がそう云うと、「おや宮司殿、どうかしたのですかな?」
うしろから声が聞こえ、浬拌はそちらに振り返った。
「ああ偲さんや、もう帰りですかな?」
東條はその姿に声を出せずにいた。なぜなら、はっきりと自分の目で見た死体である燈明偲が、なにこともなかったかのように立っていたからだ。
「実はなぁ、ここにおる警察の方があんたが死んだと根も葉もないことを云っておるのだよ」
浬拌がそう云うと、「そうですか? しかし私はこうやって生きております。見間違いではないのですか?」
偲がそうたずねる。
「いえ、たしかに一張羅の首元に七宝の家紋が入っておりました。あれは燈明家の家紋ではないのですか?」
東條は捲くし立てるように言う。
「たしかに七宝は我が燈明家の家紋です。しかし死んだ本人がここにいようとは思いますまい?」
偲は笑いながら云うと、「でも……あなたは嘘云ってる」
声が聞こえ、偲がそちらを見るとそこには朧の姿があった。
「また貴様か……宮司、この娘をどこかに連れていけ!」
執事がそう叫ぶ。
「朧、自分の部屋に戻っていなさい」
浬拌がそう云うと、朧は浬拌ではなくジッと偲を見ていた。その表情は疑ってではなく、まるですべてを知っているかのような、哀れんだ表情であった。
偲はゆっくりと朧に近付き、「済まんな。だがもう少しだけ……彼の願いを見なかったことにしてやってくれんか?」
偲はそう耳打ちすると、浬拌と東條に頭を下げ、稲妻神社を後にした。
執事はハッと我に返り、慌てて偲の後を追う。
朧はゆっくりと自室へと戻っていき、「……ではまた改めて」
東條は小さく頭を下げ、神社を後にした。