肆・挿話『祝詞』
稲妻神社の本堂……ではなく、拝殿の中では、神社の巫女たちが舞の練習を行っており、その中には稲妻神社本家当主である黒川涅槃の娘であるおりんの姿があった。
「朧、あんたまたやったでしょ?」
朧に対して、姉巫女が叱り付ける。
それに対して、朧は「あんたまたやったでしょ?」
と、鸚鵡返しした。
「あんたふざけてるの?」「あんたふざけてるの?」
言葉を繰り返され、姉巫女はカッと頭を真っ赤にする。
「何をしてるの?」
おりんがそうたずねると、「ああ、おりんちゃん。それがこの子がふざけたことやってるのよ。この神社の祝詞をまったく覚えてきてないの」
姉巫女がそう答えると、おりんは朧を見遣った。その朧はいつの間にかいなくなり、どこに行ったのかと辺りを見渡すと、拝殿から出ようとしていた。
「あの子……」
「待って、私が話しておくから」
おりんは姉巫女を呼び止め一言、二言話すと、朧を追い掛けた。
朧は神社から少し離れた原っぱのところにいた。
先日、人ならぬもの――妖怪たちと夜会を行った場所である。
「いた。朧ちゃん……」
追いかけていたおりんが声をかけようとした時だった。
――掛巻も 恐き 稲荷大神の大前に
恐み 恐みも 白く
朝に 夕に 勤み務る家の産業を
緩事無く 怠事無く 彌奨め奨め賜ひ
彌助に 助賜ひて 家門高く令吹興賜ひ
堅磐に 常磐に 命長く 子孫の八十連屬に至まで
茂し八桑枝の如く 令立槃賜ひ
家にも 身にも 枉神の枉事不令有
過犯す事の有むをば
神直日 大直日に見直聞直座て
夜の守 日の守に 守幸へ賜へと
恐み 恐みも白す……
――と、稲妻神社に祭られている稲荷神に対する祝詞を歌っていた。
『なんだ……全部云えるじゃない?』
と、おりんが腰に手をやって安堵の表情を浮かべた時だった。
朧の周りには見た事のない、人なのか動物なのか判らないものたちが集まっていたのが見えた。
「まぁたいじめられたのかい?」
「祝詞なんぞ、人間が勝手に歌ってるようなものじゃからな。のう荼枳尼天」
小豆洗いがそう云うや、荼枳尼天はうなずく。
というより、自分と同一視されている稲荷神である宇迦之御魂神に対するものなので、荼枳尼天はさほど気にはしていなかった。
「それとな、朧や……最初の『大前に』は、『大前』が正解じゃよ」
「別にいいじゃろうよ。細かいことは」
小豆洗いが苦笑いを浮かべる。
「――おねえちゃん」
うしろから声が聞こえ、おりんは振り返ると、そこには籠を背負った栢の姿があった。ちょうど麓の山でオオバコの葉を摘んできたところである。
「どうしたの、また朧逃げ出した?」
そう聞かれ、おりんはうなずく。「でも、祝詞は歌えてるのよね」
「歌えるというか、あの子おとうが云ってたのを聞いて覚えたんだよ。しかも一句も間違えないで」
「それ、本当?」
「うん。ほら祝詞っておとうみたいな宮司の人しか読めないじゃない? それにあの子無理矢理させると暴れるし」
栢の言葉を聞きながら、おりんは朧を見遣った。朧の表情は柔らいており、拝殿にいた時よりも落ち着いている。
「でも、それ以外はまるで子供なんだよね。私たちよりも年上なのに」
栢は「あ、今日はオオバコの天ぷらだって」
と、籠を下ろして中を見せた。
オオバコには咳や痰の症状を和らげると云われている。
「明日大切な祝言があるらしいから、喉大事にしないとね」
「それとさ、お姉ちゃん? スイバって草知ってる?」
そうたずねられ、おりんは少し首をかしげ、「たしか子安神社に行く山道の端っこに生ってるはずだけど……」
「お父さんの知り合いに薬師がいるの知ってるでしょ? その人がそれを探してるらしくて……。ほら、最近祝言をあげた人がいたじゃない? その人たちが子供を作ろうとしたらしいんだけど、出来ないんだって……。で、その原因になった病気が旦那さんの方にあって――」
そこまで言わせると、おりんは栢の言葉を止めた。
おりんの顔は、カーと赤くなっている。
話の内容とスイバの薬効を照らし合わせての行動だった。
スイバの薬効に『白癬』というものがある。
つまりその夫が煩っているのは白癬という、言うなれば陰部の病気であった。
おりんはあきれた表情で、「探さなくていいから。てか子供になんてもん聞かせてるんだか……あのへぺれけは……」
そう云うや、栢がキョトンとした表情で首をかしげた。それに対して尋ねると「朧は?」
と云って、朧がいた場所を指差す。
そこには朧の姿がなかった。
「栢、籠置いて一緒に探して」
「ああ大丈夫。多分暗くなる前に戻ってくるから」
栢はそう言いながら西に沈み始めた太陽を指差した。
おりんと栢が生きていた大正時代。時計がなかったわけではないが、それを携帯化した懐中時計を持っていたのは概ね男性であったし、腕時計が日本ではじめて出来たのは大正初めの一九一三年(大正二年)のことである。
それが普及したのは昭和に入ってのことであったし、そもそも巫女が巫女装束以外のものは身につけてはいけない決まりである。
なので、こうやって日の沈み加減によって時間の感覚を補っていた。
栢の云う通り、日が沈む頃には朧が神社に戻ってきていた。
ただし、その手には『スイバ』の草が持たされており、宮司である黒川涅槃がたずねたが、朧は何も答えなかった。
朧はそのスイバを栢に渡す。
「……いんきん」
「いんき……あ、もしかして聞いてた?」
栢が声をかけるより前に、朧は自分が座る場所に座り、食事を始めていた。
その日の晩、栢はゆっくりと目を開ける。
眠気眼に周りを見渡すと、窓のほうからひとつ、ふたつと、ぽつぽつとした光が見えた。
それがなんなのかが気になり、起き上がろうとすると、自分以外の巫女が起き上がる音が耳に入った。
ゆっくりとそちらに目をやると、朧がゆっくりと窓に近付くのが見え、栢は声をかけようとしたが、あえて様子を見る事にした。
朧がゆっくりと窓を開けると、火の玉が部屋の中に入ってくる。
「あなたは駄目」
と、朧が鬼火のひとつを指差した。
その鬼火があたふたとその場をうろちょろしていると、ちょうどその光に誘われるように近付いてきた蛾が、偶然というか、不幸にもその鬼火に触れると、ボッと燃え、燃えカスとなった。
『鬼火』という妖怪は、遊火や不知火、狐火といった『火の玉』の俗称であり、爛れるほどに強い熱を持ってるものもいれば、まったく熱くないものもいる。前者を『陽火』。後者を『陰火』という。
「またみんなと遊ぶの? でも今日は駄目。明日大事な用があるから。みんなにはそう云っておいて」
朧がそう云うと、陰火の方はショボンとしたような感じに、ふらふらと窓から出ていくや――消えた。
朧は静かに窓を閉めると、栢のほうを見遣った。
栢はそれに驚くや、慌てて布団の中へと隠れるように潜り込んだ。
朧は気にも留めず、自分が寝ていた布団へと入っていった。
次の日、稲妻神社の鳥居の前には黒光りの馬車が二台停まっていた。
そこから降りてきたのは、七宝の家紋が付いた燕尾の背広を羽織った男や、この時代まだ目立っていた洋服や綺麗な着物の女性、袴姿の少女等々――まるで鹿鳴館(かつて外交用に建てられていた施設)に行くかのような、言い換えれば豪華絢爛な顔ぶれであった。
正直、田舎町(この時代、まだ三つに分かれた村であったが)である福嗣町には不釣合いである。
「偲さま、こちらでございます」
初老の執事がそう云うと、二十歳そこそこの若い男性がうなずき、執事がいるほうへと歩み寄る。
「あなた……違う」
と、小さな声が聞こえ、偲は小首をかしげた。
「ちょ、ちょっと朧ちゃん?」
近くにいた巫女が、慌てた表情で朧に声をかける。
「――朧?」
偲は声が聞こえたほうへと振り向くと、そこには巫女装束を着た朧と、他の巫女が境内の掃除をしていた。
「貴様、無礼だぞ! こちらにいらっしゃるのは燈明財閥の一人息子であられる……」
「よい。して、なぜ私は違うのだ?」
偲は柔らかな表情でそうたずねると、「あなた、嘘云ってる。本当は全然関係ないのに……嘘云ってる」
と、朧はそう云うや、社務所の方へと去っていった。
「なんという無礼な子供だ。あとで宮司にきつく言っておきます」
執事は眉尻を上げ、近くにいた巫女を睨んだ。その巫女は困った表情で視線を逸らす。
「よい。気には留めておらんよ」
偲はそう執事に言うが、誰も見ていないと感じるや、俯き表情を険しくした。
『わたしに気付いた? いや、やつは普通の人間だ。普通の人間に私のことが気付けるはずがない』
偲はゆっくりと、拝殿へと入っていった。
同日・同刻。浅葱橋の桟橋に人が群がっていた。その表情は皆険しく、青褪めている。
「ほら、どいたどいた」
二人の警官が野次馬たちを退けながら、人込みの中心へと入っていく。
「うっ?」
「こ、これは……」
打ち上げられた遺体を見るや、警官二人は顔を背けた。
死体は水で膨れ上がっており、二つの眼球は爛れ落ちたのか、そこが孔となっている。
「こりゃひでぇやな」
警官の一人――東條が男の服を見た。
そして、信じられないものを見たかのような表情で他の警官――鳥越に声をかけた。
「今……***はどうしている?」
「はぁ? たしか、今日は稲妻神社で祝言をあげるとのことですが、それがどうかしたのですか?」
東條の質問に鳥越は聞き返す。東條はゆっくりと死体を指差した。
「なぜ……なぜ、その燈明偲が――ここにいるんだ?」
遺体の袴のうしろには『七宝』の家紋が縫われていた。