壱・挿話『朱筆』
朱筆:朱でする書き入れや修正
梅雨が少しあけた七月半ばのある日、空には雲がひとつとない晴天が広がっていた。
その下で、見た目十四、五歳くらいの少女が、麓にある田畑のほとりで休んでいる。
周りが森や竹林ということもあり、深緑に彩られ、ところどころにひだまりができており、その場にいるだけで涼しさを感じさせる場所であった。
優しく吹く南風が、少女の、艶のある長い髪をなびかせる。
少女は一息つくと立ち上がり、『荼吉尼天……』
と、ゆっくりとした口調でつぶやいた。
すると、周りの草がざわめいた音とともに、「リンッ」と、涼しげな鈴の音が聞こえてきた。
「――お呼びかしら? 朧……」
声が聞こえ、少女――朧はゆっくりとそちらを見ると、そこにはまるで傷をつけられたかのような、紅蓮色の着物を着た淑女が立っていた。
「荷物……」
と、朧は自分の横に置いてある藁の束を指差す。
「……持ってってことかしら?」
荼吉尼天がそうたずねると、朧はうなずく。
それを見るや、荼吉尼天は少し頭を抱えながら、「朧、神社まであと少しなんだから、もう少し頑張りなさい」
そう言われたが、朧はジッと荼吉尼天を見る。
荼吉尼天が朧に、自分で持つようにと言うが、意固地になると手がつけられなくなるのが、朧の特徴だった。
それを理解している荼枳尼天は、あきらめたような表情で、「はぁ……、わかったわよ。でも途中までだからね? そうね、『神社が視界に入るくらいまで』でいいかしら?」
そうたずねられ、朧はわかったとうなずいた。
「それじゃぁ、ちょっと待ってなさいよ」
荼吉尼天は、首輪に着けていた鈴をはずし、チリンと鳴らした。
すると二人の目の前で旋風が起き、その中心に白狐があらわれると、荼吉尼天はその狐の背中に藁の束を乗せると、白狐は「クゥン」と鳴いた。
「ちょっときついけど、よろしくね……」
荼吉尼天はそう言いながら、朧の方へと振り返った。
しかし朧はそこにはおらず、既に五十メートルほど離れた場所まで歩いていた。
白狐は困ったような鳴き声をあげながら、荼吉尼天を見上げる。
荼吉尼天は深い溜息を吐きながら、白狐に朧の後を追わせた。
「おんやぁ朧ちゃんや、どうしたんかえ? 犬っコロに藁なんぞ乗せて」
道中、朧に声をかけた老婆が藁を乗せた白狐を見ながら話す。
「犬じゃない、この子……狐」
と、朧が説明するが、老婆はクスクスと笑った。
「朧ちゃん、狐ってのは人間嫌いでねぇ……」
老婆はそう話すが、朧はゆっくりと、離れるように歩き始める。
それを見ながら、老婆は肩をすくめた。
「なんなんだろうねぇあの子は……。人の話を聞かないで」
老婆は皮肉たっぷりにつぶやいた。
神社が視界に入ると白狐は足を止めた。
荼吉尼天から神社が視界に入るまでと云われていたからだ。
白狐はちいさく鳴いて、朧を呼び止める。「ここまでなの?」
朧がたずねると、白狐はその場に身体を伏せた。
朧は狐の背中から藁を下ろし、頭を撫でると、白狐はその手を首元の方へと動かし、小さく声をあげると、スーと姿を消した。
「朧、やっと帰ってきたか?」
稲妻神社の鳥居から宮司が姿を見せ、朧のところまで駆け寄った。
「藁……」
と云って、朧は藁の束を宮司に突き出す。
「うむ、たしかに云われたくらいの量だな。よし、部屋に戻っていいぞ」
宮司が云うまでもなく、朧は社務所の近くにある母屋へと入っていった。
「まったく、面妖な子供じゃな」
宮司はそうつぶやくと、藁をなおしに、奥にある蔵の方へと向かった。
その日の晩、母屋の玄関戸が開き、そそくさと出て行こうとする影があった。
その影の周りには、みっつほどの火の玉が、まるで案内しているかのように漂っている。
その影――朧は、他の巫女や家の人間にばれないように、手ぬぐいで顔をおおっていた。
神社から少し離れた草原には、人ならぬものたちが集まっていた。
「そろそろ新月だ。あの子がくるねぇ」
と、ウェーブの掛かった、艶のある黒髪の淑女が言う。
「今日こそはぜってぇ勝つ」
と、痩せ細った老人が言うや、「やめとけやめとけ。あん子の強運はわしらにとって凶運じゃからのぉ……。それに、あんたあの子に惨敗しとるじゃないか」
ケラケラと笑いながら、老婆は老人をからかう。
「ええいっ! 出陣前の祝い酒じゃぁッ! ばばあぁ! 酒を寄こせぇいっ!」
先ほどの老人が、老婆から徳利をなかば強引に奪い取り、ラッパ飲みする。
数秒ほどして、老人は徳利を地面に叩きつけた。
「――うぅへぇ、なんじゃこの酒はぁ? 甘過ぎて飲めたもんじゃないぞぉい?」
ダラダラと、飲んだものを口から吐き出す。
「汚いことするでねぇやね? 小豆洗い。わしは甘党じゃってこと知っとるじゃろうよ?」
そう云うや、老婆はケラケラと笑った。
この老婆、名を「甘酒婆」と云い、寒い地域に伝わる妖怪である。
場所によって伝記はことなるが、妖怪として有名なのは、寒い晩にあらわれ、「甘酒はござらんか?」とたずねてまわり、この老婆に会った者は甘酒の有無を問わず、病気にかかるという逸話がある。
また、長野県飯野市では、冬の寒い晩に甘酒を配りまわる老婆の事を、この妖怪にあわせて『甘酒婆』と伝えられている。
「ほらぁ、風玉が戻ってきたよ」
「わぁっとる。さっきから強烈な風が吹いとるからなぁ」
老人が腕で顔をおおう。
「――朧だぁっ!」
小さな子鬼が飛び跳ねる。
「……みんな、今日はなにして遊ぶの?」
朧は妖怪たちの中心に立ち、そうたずねた。
「朧ぉっ! 今日こそお前に一泡吹かせてやる!」
小豆洗いが叫ぶや、朧は首をかしげた。
「まぁたおいちょかぶ? あんたも凝りないねぇ?」
「うるせぇよ毛倡妓、勝てばいいんだよ、勝てば」
小豆洗いの言葉に毛倡妓はためいきを吐く。
「あんたさぁ、計算速いけど、運に見放されてたんじゃ意味ないんじゃない?」
「わぁってるよ……って、うわぁっ、いきなりかよぉっ!」
遊びが始まってから数分も立たず、親である小豆洗いが叫んだ。
場に並べられた四枚の花札の内、朧は四を表す藤の絵札を指差す。
決め札として受け取ったのは、一を表す松であった。
この二枚の組み合わせを四一といい、倍率は二。
親である小豆洗いは十以上の役なしドボンであった。
二回目。場には桜が二枚置かれており、朧はその内の一枚を選んだ。
配られた札の内、三の桜。三、三なので六になる。
後一枚で特殊な役が出来るが、残り一枚。危険といえば危険なのだが、朧は「もう一枚」
と云って、札が配られ、みなに見せた。
受け取った札は――桜である。
「桜三枚って……、アラシカブかよぉ」
小豆洗いは悔しさのあまり、その場にうずくまった。
同じ月札三枚を『アラシ』といい、一桁の数が多いほうが勝つ。
つまり、桜の三枚は合計九であるため、アラシの勝負では一番強く、その倍率は十である。
花札は一年を通して行われるため、十二ヶ月。つまり、合計十二回執り行われる。
その全てで朧は勝ち、親である小豆洗いは、魂が抜けたかのように、ポカンと口を開けていた。
「だから云ったでしょ? この子の強運は、私たち妖怪からしたら凶運だって」
毛倡妓は、ちっとも哀れんでいない表情で、小豆洗いの肩を軽く叩いた。
朧は皆から少し離れた場所に、男性がいることに気付いた。
「ああ、あの子かい? あれはねぇ『ぬらりひょん』っていって、まぁただの食い逃げ妖怪さ」
小さな狸がそう言うが、朧は皆から離れ、そのぬらりひょんに近付いていく。
「おい、朧っ! まったく、人の話をきかん娘じゃなぁ」
狸は頭を抱えたような仕草をする。
「諦めい太三郎狸、あん子がわしら妖怪とも分け隔てなく接してくれておるのは知っとるじゃろ?」
そう話しかける妖怪に対して、「お前さんのその滑稽な顔にも怯まずにおるんじゃからなぁ、馬鹿よぉ……」
太三郎狸は、その妖怪を見ながら笑った。
馬の頭に鹿の体である馬鹿の顔は、『馬鹿』といえるほどに滑稽である。
「人の頭をバカにするなぁ」
と、馬鹿は怒鳴り散らしたが、場にいる他の妖怪たちも笑いを堪えきれていなかった。
そんな賑やかな雰囲気とは違って、ぬらりひょんの周りには静かな空気が漂っており、そこに朧が顔を覗かせるように近付く。
「なんだ? 人間の子供」
ぬらりひょんが追い払うように低い声で言う。「盗み食いだめ……」
と、たった一言である。
それを見るや、ぬらりひょんは哂った。
「わしら妖怪は人から畏怖されるべき存在。それを高々一人の人間に媚を売るようなことは」
ぬらりひょんはスッと立ち上がり去ろうとすると、朧はその手をギュッと握った。
「はなせ。さもなくば食い殺すぞ?」
ぬらりひょんはそう云うが、人とは思えぬ朧の握力に違和感を感じ始めていた。
『なんだ――こいつの力……。人の子ではないのか?』
ぬらりひょんの表情を見るや、「諦めい、その子に逆らえば、助かるもんも助からんぞ?」
天女の羽衣を羽織った荼吉尼天があらわれ、ぬらりひょんに声をかける。
「な、なんだと……」
ぬらりひょんは困惑した表情で朧を見た。
その朧は、今にも泣きそうな悲痛の表情だった。それがまたぬらりひょんは理解できない。
「――痛いの? みんなと一緒で……痛いの?」
朧はゆっくりとぬらりひょんの手を放した。
「――ノウマク・サンマンダ・ボダナン・キリカク・ソワカ」
そうつぶやくと、朧の周りには、白い人魂が現れ、ぬらりひょんの周りに集まっていく。
「な、なんだこれは? き、きさまら騙したのか? ここにきたら」
ぬらりひょんがそう叫ぶが、他の妖怪たちは平然としている。
「静かにせいぬらりひょん。朧が呪いで殺せるのは、心まで邪気に蝕まれた『悪鬼』のみじゃからな」
荼吉尼天がそう云うと、ぬらりひょんの険しい表情は次第に緩み、安らかなものになっていった。
「こ、ここは?」
ぬらりひょんが目を覚ますと、東の空から日が見え始めていた。
「少しばかり眠っておったよ」
と、荼吉尼天が話しかける。
ぬらりひょんは、頭を振りながら、あたりを一瞥する。「あの童女は?」
「もう朝じゃしな、お前さんが気を失った後、朧を神社に帰したよ」
ぬらりひょんはそれを聞くと、少し考えてから、「あの子供。なぜわしら妖怪を怖がらん? なぜ人と同じように接することが出来る?」
とたずねる。
荼吉尼天は、その問いに答える前に、ためいきをひとつ吐いた。
「もしかすると、あの子は『人』と『人ならぬもの』の区別がついておらんのかもしれんなぁ」
その話を聞くや、ぬらりひょんは驚きを隠せないでいた。
「朧は物心ついた時からわしのような神仏や妖怪が見えておった。それに、あまり言葉を発する子でもないからな。わしらがどんな存在なのかを訊くことも出来んのだろう」
ぬらりひょんは、少しばかり見せた荼枳尼天の、違和感のある表情が気になった。
「しかし、あの呪文はなんだ? まるで心の中にあるもやもやを払い去るような……」
「あれは私の真言で、『呪いを取り去る』力を持っている。元々黒川というのは、穢れを祓う力を持った血族じゃからなぁ」
荼吉尼天は小さく笑みを作り、ぬらりひょんを見た。
「もし、朧を殺したいと思っっておるのなら、別に殺しても構わんぞ? その時は……、ここら一帯にいる妖怪神仏全員を敵に回す事になるがなぁ?」
そう云うや、荼吉尼天は姿を消した。
ぬらりひょんはその場に立ちつくし、喉を鳴らした。
その時見せた荼吉尼天の表情は、脅しではなく、本気で食い殺そうとする顔であったからだ。
はい。いよいよ姦本編本当の最終回スタートです。今まで明かされていないことも、ある程度はしっかりと書き込んでいきますので、どうか(見捨てないで)最後までよろしくお願いします。